日: 2009年4月13日

大坂城に隠された、もう一つの相似形


大坂城に隠された、もう一つの相似形

予告どおり大坂城の話題に戻ります。

ただし前回まで「天守の発祥」について色々とお話しましたので、豊臣秀吉の大坂城においても、天守(特に天守台)の築造がいかに肝心要の事業だったかをご紹介します。

大阪城の航空写真(※上が南)

かつて東洋学者の藤枝晃先生が「大阪城の本丸は前方後円墳だった」という説を発表しました。

航空写真でご覧のように、現在の大阪城は徳川幕府の再築を経たものですが、本丸の形には前方後円墳の面影が感じられ、藤枝先生がおっしゃったとおりのようです。

そうしますと、この場所の歴史的な変遷としては、前方後円墳→石山本願寺→豊臣氏の大坂城→幕府再築の大阪城→現在の大阪城公園ということになります。
 
 
そして当ブログは、さらにもう一つ、大坂城には “意外な相似形” が隠されていることを指摘したいと思います。

左の豊臣大坂城の図で青く示した部分は、いわゆる本丸の奥御殿と表御殿、そして二ノ丸の(塀で区画された)南部のスペースです。

この部分を仔細に眺めますと、妙なことに、秀吉の有力家臣だった蒲生氏郷(がもううじさと)の会津若松城に酷似しているのです。

すなわち豊臣大坂城の本丸奥御殿は会津若松城では本丸にあたり、同様に、表御殿は二ノ丸にあたり、二ノ丸南部は会津若松城では三ノ丸にあたるというわけです。

しかも天守台の配置もそっくりであって、それぞれの曲輪の屈曲の具合まで、妙に似ていることがお分かりでしょうか?

(※表御殿と会津若松城の二ノ丸は “左右” が反転している可能性もあります)

これは、まるで一方が、もう一方を参照しながら築城したようにも感じられます。

(※勿論、時系列では大坂城の方が先です)
 
 
このように見直してみますと、豊臣大坂城の縄張りには、実は、本丸・二ノ丸・三ノ丸が一列に並んだ「連郭式」のレイアウトが隠れていた可能性があるのです。

これには一体、どういう経緯があったのでしょうか?

その謎を解くヒントが、右の「山科本願寺」の復元図にありそうなのです。

山科本願寺は、浄土真宗の中興の祖と云われる蓮如が、文明10年(1478年)、門徒らと共に京都の東・山科盆地に築いた寺内町です。

ここには武家の城に先行する大規模な土塁のあったことが注目されていますが、やがて六角定頼と日蓮宗徒の焼き討ちに遭うと、教団は大坂の石山(豊臣大坂城の前身、石山本願寺)に移転しました。

そうした山科本願寺と豊臣大坂城は、全体のレイアウトが似ているのです。

殊に北部(図では下)のカーブを描いた辺り、豊臣大坂城で云えば前方後円墳の「円」にあたる箇所はよく似ていて、天守台と山里丸の高低差のある部分が山科本願寺では「大ホリ」にあたり、また二ノ丸南部に向けて曲輪が斜めに接続していく形も同じです。

何故このような相似形が生まれたのか?

それはひょっとすると、この山科本願寺のレイアウトを踏襲しながら、大坂の石山本願寺は前方後円墳の上に建設され、それがすでに、のちの豊臣大坂城とほぼ同じ連郭式の土塁造りの城塞になっていた、ということではないのでしょうか??
 
 
石山本願寺の復元に関しては、すでに諸先生方による研究が進んではおりますが、この “思わぬ相似形” が示す仮説ならば、かの千貫櫓(せんがんやぐら)の石山本願寺時代の位置についても、無理なく説明することが出来ます。

千貫櫓とは、織田信長の軍勢が石山本願寺を攻めたとき、難攻不落の手強い櫓を「千貫、銭を出しても欲しい櫓」と呼んだことに始まります。

そしてその位置は、仮説のとおりならば、豊臣大坂城の千貫櫓とまったく同じ場所だった、と考えることも可能になるのです。

ですから、秀吉による第一期の大坂築城とは、実は、堀を一から掘り始めるような土木工事はごく一部に限られ、多くは石山本願寺の構造をそのまま流用して、もっぱら総石垣の構築に全力を傾けたものだったのかもしれません。

となると、秀吉が完成させた当初の大坂城は、まさに図の青い部分だった可能性が浮上し、それによって会津若松城との相似も十分に説明がつくのです。

(※中井家蔵『本丸図』との整合性を懸念される方に申し上げますと、次回リポート「秀吉の大坂城・後篇」で驚くべき種明かしを予定しています。ご期待下さい)

秀吉の大坂城天守(十尺間の復元案)

さて、今回の結論として注目すべき点は、秀吉が、そうした大坂城の築城を「天守台の築造」から開始したことでしょう。

唯今所成大坂普請者、先天守土台也
(唯今成る所の大坂普請は先ず天守の土台なり/『秀吉事記』)

天正11年夏、来たる徳川家康・織田信雄連合軍との激突を前に、秀吉は同心する大名や家臣団を動員して「石集め」を終えると、9月に天守台の築造を始め、11月にはその石垣を完成させています。

城の中心から石垣を築くという手順もさることながら、まずは天守ありき、という秀吉の築城術のもとで、自らの陣営の正統性を真っ先にアピールするために、十尺間という “関白太政大臣の天守” が建造されることになったのだと思うのです。
 

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