日: 2010年5月17日

白い「七重ノ塔」の異様さ


白い「七重ノ塔」の異様さ

上のバナーからご覧頂ける『2009緊急リポート』は、織田信長の安土城天主が、白亜に光り輝く外観であった可能性を論述しております。

ただし、当時、信長が「白い天主」を建てたことは、後の江戸時代の白い天守群とは、かなり意味が違っていたようにも思われ、今回は是非その辺りを補足してみたいと存じます。

先に一言だけ結論めいたことを申しますと、その頃、「白」は城郭建築にとって必ずしも普通の色ではなかったという、当時の感覚に立ち戻らなくては、信長の意図を受け止められないように感じるのです。
 
 
さて、安土城天主が、諸先生方の復元のごとく黒漆の下見板張りではなく、白漆喰の塗り込めだったという主張には、当サイトよりはるかに先行した「森俊弘案」があることは、城郭マニアの方ならすでにご承知のとおりです。

『城郭史研究』21号(2001年)に掲載された森俊弘案

この復元は文献『安土日記』に基づきながら、外観については、内藤昌先生の史料やデータの読み方(『復元 安土城』等)を批判する形で、白壁の可能性を打ち出しています。

(森俊弘「再読 安土日記」/『城郭史研究』21号所収)

内藤氏も天主復元に関する検討過程で、宣教師による報告書簡等から天主外観に関するデータを抽出、紹介しているが、報告文自体には「悉く外部甚だ白く」「或は白色で、日本風に黒漆を塗った窓を備へ」「黒い漆を塗った窓を配した白壁」とあり、「壁は白い」としているのである。但し宣教師の観察に対して内藤氏は何故か否定的である。
 
 
という風に内藤先生との解釈の違いを述べつつ、当時(天守成立の黎明期)の、記録に残る主要な天守が「意外に」白かったことを挙げています。

(前述書より)

文献史料では、安土城建設以前の永禄八年(一五六五)、大和多聞山城に「甚だ白く光沢ある壁」を塗った「塔」があったと宣教師は記している。また絵画史料でも聚楽第天守を挙げることができる。
 
 
こうした論点は、当サイトの『2009緊急リポート』も賛同していて、どうか両方の文脈を読み比べて頂けますと、誠に幸いです。

伊勢・安土桃山文化村(旧伊勢戦国時代村)の安土城模擬天主

ウッディジョーの木製模型「1/150 安土城 天守閣」

これまで諸先生方の復元は黒い下見板ばかりでしたが、ご覧のような “外野席” には、すでに幾つか「白い安土城天主」が存在していて、我々のイメージづくりの参考になりそうです。
 
 
では、なぜ天守は最初から白壁だったのか、白い旗印の「源氏」とは縁もゆかりもない信長がなぜ白い天主を望んだのか…

『2009緊急リポート』は「中世寺院の技術」に着目し、安土城が城として初めて総石垣や(金箔)瓦を導入したのと同様に、天主も「中世寺院の白壁」を導入したものと考えました。

つまり、それまで「白」という色は、城主の屋形の一部分を除けば、およそ城郭には「縁の無い色であった」点を是非、確認しておきたいのです。

ましてや城郭内で、何かをまっ白に塗り込める、などということは、それまでは考えようも無い、特殊な行為だったはずです。

…… 古来、日本では「白」は神を示す色であり、「あの世」を想起させる色でもありました。

江戸時代、切腹にのぞむ武士がまっ白な死装束を着たことや、その源流であるのか、中国の農村で葬儀の列が白い喪服姿であったことも、やはり何か関連しているのでしょうか。

(武川カオリ『色彩力』2007年より)

洋の東西を問わず、白は神の色として畏敬されてきました。古代ギリシャやエジプトでは、白は神を彩る色でした。キリスト教では、神は全ての色に染まらない白い光の色として表現されています。イスラム教でも白は、唯一絶対の神の色です。白は日本の神道における禊(みそぎ)の色とされ、古代から祭祀には欠かせない特別な色です。白い動物は中国や韓国でも吉兆とされています。また、タイやスリランカなどの仏教国では白象は神の使者として神聖視されおり、白鳩は西洋では平和の象徴です。

武士の死装束/薩摩藩家老 平田靱負(ひらたゆきえ)の切腹(治水神社蔵)

さて、建築史家として日本で一番顔の知られた藤森照信先生が、城(天守)とその白色について、面白いことを書いておられます。

(藤森照信『建築史的モンダイ』2008)

 読者の皆さんにも、姫路城なり松本城を頭に思い浮かべてほしいのだが、なんかヘンな存在って気がしませんか。日本の物ではないような。国籍不明というか来歴不詳というか、世界のどの国のどの建築にもルーツがないような、それでいてイジケたりせずに威風堂々、威はあたりを払い、白く明るく輝いたりして。
 天守閣がなんかヘンに見えるにはちゃんと視覚的理由があるはずで、それを今、思いついたのだが、
“高くそびえるくせに白く塗られている”
せいではあるまいか。屋根が層をなしてそびえるだけなら五重塔と同じで、法隆寺や薬師寺の塔と同じにしっくりくるのだが、漆喰で白く塗りくるめられているのがいけない。自分のイメージのなかで、法隆寺の五重塔をまっ白く仕上げてみたら、このことは納得できるだろう。白く塗っていいのは低い建物だけで、天に向って高くそびえてもらっては困る。

 
 
この指摘はたいへん貴重であるように思われます。この文章は、信長が安土城天主の外壁の「色彩」に込めた日本史上初の試みを、みごとに言い当てているのではないでしょうか。

当サイトは、安土桃山時代の直前に突如現れた「天守」は、日本の伝統建築とは断絶した性格を併せ持ち、その原初的な信長や豊臣秀吉の天守は、殆どが「白い」天守だった可能性を申し上げて来ました。

そうした白い巨塔「天守」を目撃した者にとって、第一印象は、藤森先生が言われるとおり、「なんかヘンな存在」「国籍不明というか来歴不詳」の建造物が出現したように感じられたに違いありません。

おそらくは、それこそが「白」を選んだ信長の狙いであって、白い七重塔が琵琶湖畔の山頂にぬおっと建ち上がる、という異様さ・おぞましさ・戦慄感(現代の新興宗教のモニュメントのような存在感)を、当時の人々の心に、強く刻み込んだように思われてならないのです。

「死の色」「神の色」で塗りくるめた巨塔としての、姫路城天守

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