古代中国で「天下」を意味した十字形八角平面


古代中国で「天下」を意味した十字形八角平面

白い安土城天主イラストの解説の最終回として、やはり、天主六重目の檜皮葺き(ひわだぶき)屋根についてお話しせざるをえません。

何故なら、その形状には、織田信長による東洋の歴史的な “洞察” が秘められているかもしれないからです。
 
 
 
論点5.それはまず、後の天守群の「板葺き四重目屋根」の原形
    であったのかもしれない

 
 

ウィンゲの木版画(安土城天主を描いたと言われる一枚)

以前の記事(「ウィンゲの怪??本当に安土城天主なのか…」)でも申し上げたように、ご覧の木版画の色づけした部分について、織豊期城郭研究会の加藤理文先生がこんな指摘をされました。

(『よみがえる真説安土城』2006所収/加藤理文「文献にみる安土城の姿」)

最下部の渡廊下のような表現は、天主と本丸御殿を結ぶ渡廊下、もしくは御殿同士を結ぶ渡廊下が想定される。(中略)天主本体と異なる表現方法であるため、渡廊下が瓦屋根でないのは確実で、檜皮葺き(檜の皮で屋根を葺くこと)と理解される。
 
 
当ブログの天主イラストは、加藤先生のこの解釈にインスピレーションを得たものでして、以前の記事のとおり、ウィンゲの木版画は(実は!)天主でないと思われるものの、ひょっとすると「檜皮葺き」は天主六重目の屋根にも採用されたのではないか… という想定で描きました。

そう考えた動機は、安土城の後の天守において、上から二重目の屋根だけをあえて「板葺き」にした例がいくつか(津山城や福山城に)存在したことにあります。

城郭ファンには懐かしい 西ヶ谷恭弘 監修『名城の「天守」総覧』1994年

(※左の上から二つ目が津山城天守、右下が瓦葺きに改装後の福山城天守

ご覧のイラストのような「板葺き四重目屋根」が登場した理由として、一般には、幕府の追及をのがれるため五重を一夜にして四重に変えて見せた苦肉の策、という奇術的な伝説が紹介されます。

しかし、それにしては「板葺き四重目屋根」は前例のない画期的な意匠であって、むしろ余計な世評の広まる危険の方が大きかったようにも思えます…。
 
 
そこで、仮に、この屋根の先駆例が安土城天主だったとしますと、それは「五重を四重に見せるため」といった消極的な意図ではなく、反対に、天守の創始者・織田信長にならうための積極的な道具立てだった、ということにもなるでしょう。
 
 
それぞれの天守を建造した城主を確認しますと、津山城は、代々織田家に仕えた森家の世継ぎで、本能寺の変で信長に殉じた森蘭丸の弟であり、自身はまさに安土城にいて凶報を聞いた武将、森忠政(もりただまさ)でした。

一方の福山城は、やはり父が織田家の家臣であり、また徳川家康の母の実家としても知られる水野家の嫡男で、自身は主君を家康・織田信長・豊臣秀吉・再び家康と変えた豪傑、水野勝成(みずのかつなり)でした。

ですから、板葺き四重目屋根がこのように安土城ゆかりの意匠だとすると、これらの城主たちにとっては、自らの “出自や来歴” を家臣団に見せつける道具として、格好のステイタス・シンボルであったのかもしれません。

(※ちなみに、津山城などのいわゆる “無破風” の天守は、その発想そのもの…発案者の細川忠興らの真意…は、必ずしも「幕府をはばかるため」では無かったのではないか、と考えておりまして、この件はいずれ年度リポート等でまとめてご紹介する予定です。)

で、次の論点は、この屋根の東西南北にあったと思われる「唐破風」をめぐるお話です。
 
 
 
論点6.江戸幕府の大棟梁・甲良家の祖、甲良宗広(こうらむねひろ)は
    幼少期に、この安土城天主を見ていた?

 
 
 
今年はNPO法人による江戸城天守の復元プロジェクトが話題になりましたが、その天守(寛永度天守)の復元のベースになったのは、江戸幕府の作事方大棟梁・甲良家に伝わった「江府御天守図」(都立中央図書館蔵)です。

NPO法人発行『江戸城かわら版』第21号

そしてご覧の復元が三浦正幸先生によって提示されたわけですが、では、この天守の大工頭は誰だったか?と申しますと、かの宮上茂隆先生はこんな見方を示しました。

(宮上茂隆/歴史群像 名城シリーズ『江戸城』1995)

(江府御天守図は)左下に「大棟梁 甲良豊前扣(ひかえ)」とあるが、寛永度天守を手がけたのは甲良豊後宗広とみられるから、この図は造営後の控えとみられる。焼失後再建を検討した際に提出した資料かもしれない。
 
 
他方で、大工頭は徳川譜代の木原家(木原義久)という見方もありながら、宮上先生は「甲良豊後宗広」とおっしゃっていて、もしこれが本当だとすると、興味深い歴史の秘話があったように想像できるのです。

それは甲良家が、近江の甲良庄の出だったからです…

(内藤昌『SD選書 江戸と江戸城』1966)

甲良家は近江国甲良庄の出身である。始祖は佐々木三郎左衛門尉光広で、建仁寺工匠として技術をみがき、丹羽長秀の建築家であったという。(中略)その子甲良宗広は慶長元年(一五九六)伏見で家康につかえた。
 
 
丹羽長秀は言わずと知れた安土城の普請奉行ですし、宗広(1574-1646)はその後、日光東照宮を絢爛豪華な社殿に大改築した棟梁であって、その宗広が寛永度天守も手がけていて、甲良庄の生れ(幼名小左衛門)だったとなると…

甲良庄はいまも滋賀県犬上郡甲良町で、安土までわずか10kmですから、宗広は十歳に満たない頃、父親に連れられて安土城を眺めたことも充分ありえたのではないか、と。
 
 
―――実はこの話は『大人の修学旅行』という旅行ガイド本の記事が元ネタであり、当ブログの天主イラストを描いた時も、得がたい示唆を含んだ話として頭から離れませんでした。

何故なら、ご承知のように寛永度天守のデザインの特徴は、上から二重目の四方に「唐破風」が設けられている点であり、これはひょっとして、宗広少年の眼に焼きついた安土城天主の印象から生まれたものでは…… といった空想が思わず膨らんだからです。

前出『名城の「天守」総覧』表紙の寛永度天守(左上)

かねてから当サイトでは、天守の「唐破風」は、高欄の戸口や玄関など建物正面の、城主が姿を現す場所を示す意匠ではなかったか、と申し上げて来ました。

したがってそれは城主の「目線」を表していたようにも考えられ、それが東西南北の四方を向いている、ということは、或る東洋の歴史観に基づく工夫が施されていたかもしれないのです。
 
 
 
論点7.古代「周」王朝の衰退期に叫ばれた「天下」という言葉がもつ、
    国家分裂への焦燥感

 
 
 
「宗広少年」云々の話の真偽はさておき、当サイトが申し上げている「十字形八角平面」( → 詳細記事)という形状に、中国由来の観念がからみついていることは確かなようです。

それは「天下」という言葉の発生にかかわる問題のようで、この話は、まことに古典的な文献で気恥ずかしいのですが、安部健夫先生の論考「中国人の天下観念」(『元代史の研究』1972所収)に基づいています。
 
 
では中国における「天下」とは何だったか、と申しますと、例えば「王道的天下観念には領土なる観念を指示せず」(田崎仁義)などと評されたように、ここで勝手に意訳すれば、“中華思想のもとでは国境ははっきりしなくても良い” “対等な他国民など存在しないのだから” といった強圧的、かつ拡張主義的な観念をはらんだ言葉だったようです。

安部先生はそんな「天下」という言葉が、いつから中国の古典に頻繁に登場し始めたのかを分析しています。

その結果、伝説的な古代王朝「周」の時代は、まだ「天下」が殆ど無く、かわりに「四方」や「四国」という言葉が使われていたそうです。

(安部健夫「中国人の天下観念」より)

少なくとも周代にいわゆる四方・四国が、どちらも「よものくにぐに」の義であったことは問題のないところであろう。
(中略)
したがって「四方」とは元来、中国とそれを取りかこむ四周の国々との総称であったわけなのである。
(中略)
「四方」がその後、周室の衰えと大諸侯の強力化とのために次第に分裂と混乱の兆しを示してくる。いわゆる「義を失い」「政を異にする」という状態である。その極まるところ世は戦国となった。
しかも周室――「天に厭かれて」再起不能の窮境にあった周室に代わるべきだれか最適任者によって、この「戦国」の状態を克服・そこから離脱し、再度むかしの「四方」的な結合体を回復してもらいたいと言うところにこそ在ったからである。
つまり、少なくともこの場合の「天下」は、求心的な擬集的な力概念であった。

 
 
そのはるか後の日本の戦国時代、足利将軍が都落ちする政情下で、信長が「天下布武」を掲げて武力平定に乗りだし、「四方」に唐破風を向けた天主を築いたのも、どこかで中国仕込みの強圧的な天下観念を学んだからではなかったのか…

と、さらに空想は膨らむのです。

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