続「金頂」の御座としての最上階 永楽帝のタワーリング・パレスとの比較から


続「金頂」の御座としての最上階 永楽帝のタワーリング・パレスとの比較から

往年の超大作パニック映画「タワーリング・インフェルノ」(1974年)より

こんな写真をご覧になると、やおら「タワーリング・インフェルノ」の映画音楽が口ずさめてしまう方は、私と同じ中高年世代とお見受けしますが、映画のストーリーは、実業家ジェームズ・ダンカンが世界一の超高層ビルを建てたものの、腹心の部下の手抜き工事によって、開業日に大火災をおこすというものでした。

世界一高い建物… といった話題は、どうしても “バベルの塔” 的な教訓話が着いてまわるようで、映画でも消防隊長役のスティーブ・マックィーンが「今にこんなビルで1万人の死者が出るぞ」と意味深なセリフを吐きました。
 
 
ですが、そもそも旧約聖書に描かれたバベルの塔の話というのは、要するに「新しい技術で天まで届く塔を造れば、その名は上がり、そこに全人類が集住するはず」という仮定の姿であり、現実にはそうならずに、世界中にバラバラの言語を話す人々が散らばっているのは「神がそういうバベルの塔を否定したからだ」という説話(説教)になっているそうで、ちょっと驚きです。

思えば西欧の伝統ある都市の中心にも大聖堂や市庁舎があり、現在も世界各地でそういう“集客効果”をねらった高層建築が続々と出来ているわけですから、天まで届くほど階を重ねることは、単なる虚栄心とか、神への挑戦、といった観点だけでは語れない何かを、きっと含んでいるのでしょう。

前回の記事より 織田信長の岐阜城の山頂天守(最上階)についての仮説

道教の聖地・武当山(湖北省)/ その天柱峰の頂上「金頂」にある金殿

さて、前回の記事でご覧に入れた武当山については、どうしても申し添えておくべき事柄が残っていまして、それはご覧の武当山の建築群はほとんどが、かの永楽帝が特別な意図をもって大規模に修築したものだという点です。

ご存じ、先帝との闘争の末に帝位についた、明朝の第三代皇帝・永楽帝

一方、長篠合戦図屏風に描かれた織田信長の本陣(大阪城天守閣蔵)

永楽帝と言えば、信長とは切っても切れない関係にあると感じられてならない人物であり、その心は過去のブログ記事でも申し上げたとおり、貴種の生まれでない武人が新機軸・新兵器で天下人(皇帝)に躍り出ると、あえて壮大な土木事業で人々を動員する古代的なパワーに熱を上げてしまうのではないか… といった共通点です。

で、まことに残念ながら、いまだに私自身は話題の武当山を訪れた経験がないため、現地の写真などはすべて中国の観光サイトから引用せざるをえませんが、とりわけ興味を引くのは、天柱峰の中腹以上の(高さ10mの城壁と四隅の天の門に囲まれた)エリアが「紫禁城」!と呼ばれていることではないでしょうか。

この武当山の「紫禁城」については、フロイスらが千畳敷から登った山中にもいつかの城門があったと記録した「岐阜城」や、そして近年、千田嘉博先生が安土山の中腹以上が厳密な意味での信長の城ではなかったかと指摘したばかりの「安土城」を、是非とも意識したうえで、次の紹介文をお読みいただけませんでしょうか。

(二階堂善弘『明清期における武神と神仙の発展』2009年より)

現在の武当山の大規模な宮観群は、明の永楽帝の命によって建てられたものである。明王朝では玄天上帝を異様とも言えるほど特別視し、そのために膨大な国費を投じて武当山の殿宇を修築した。永楽十年(1412年)に始まった工事は、ほぼ十年近く続いた。
(中略)
武当山の麓から太和宮・金殿などのある天柱峰まで登るルートは二つ存在する。一つは南岩宮から一天門・二天門・三天門から朝天宮を経て徒歩で登るルート、もう一つは、自動車などで中観まで行き、そこからロープウェイに乗って山頂まで出るルートである。
(中略)
三天門を経てさらに登ると、武当山の頂点に天柱峰があり、そこには金殿・太和宮・皇経堂・古銅殿・霊官殿などがある。
金殿は建物自体が銅で出来ているという特異な殿宇である。このような建築は、五台山などにも見られるが、膨大な費用が必要なためか、それほど多く存在するわけではない。
金殿は天柱峰の頂上に設置され、明永楽十四年(1416年)の建である。中には披髪跣足の玄天上帝像が祀られている。

 
 
これはもう私なんぞには、永楽帝のタワーリング・パレス(立体的宮殿)だろうと想像されてなりませんでして、では何故、これほど永楽帝は「玄天上帝」を特別視したのかと言えば…

上記書によれば「玄天上帝は、関帝と並んで、中国の武神を代表する神と言ってよい」「この神は四神のひとつ玄武をその源流とし」「髪はざんばら髪であり、また靴を履かずに裸足である。足の下に玄武の本体であった亀と蛇を踏みしめる場合もある」そうです。

そして永楽帝の特別な信奉については「玄天上帝の「神助」を強調することにより、自己の帝位簒奪とその挙兵を正当化すること」が重要だったろうと指摘しています。
 
 
つまり、帝位を戦で勝ち取った永楽帝にとっても、また漢民族が元朝(北の異民族)から国を奪回して築いた帝国・明にとっても、北の守護神「玄武」は特別な存在であり、それが人格神となった玄天上帝が、修行を行い昇天したという聖地「武当山」は、膨大な国費をつぎ込んでも宮観を復興すべき場所であったわけです。

さて、それはそうだとして、今回の記事で是非とも申し上げたいポイントは別にあり、それはご覧の武当山の様子と、岐阜城や安土城のグランドデザインが似ている可能性もさりながら、そのうえさらに興味深いのは <玄天上帝は、六天魔王と闘った神である> という基本中の基本の伝説があることです。
 
 
第六天魔王。
 
 
! ! ご承知のとおり、信長は一向宗徒らから仏敵「第六天魔王」と憎しみをもって呼ばれたものの、意外にも本人はそれを気に入っていたそうで、それは武田信玄の書状の「天台座主」という肩書きに対抗したものと解説されますが、その自虐性は信長らしからぬものです。

その点で、ひょっとしてひょっとすると信長は、自らの旗にも名を掲げた「永楽帝」が信奉した玄天上帝は「六天魔王と闘った神である」という事柄に、めざとく気づいたのではなかったでしょうか。…
 
 
いわゆる六天(欲界)の魔鬼というのは、漢民族にとっては「異民族」を意味したであろうことは間違いないでしょうから(二階堂善弘「東北の方角に出現した毒気」)、当時、衰退しつつあった明朝を突き崩しかねない実在の脅威として、六天の魔鬼はまたもや、漢民族の深層心理を寒からしめていたのかもしれません。
 
 
だとするならば、信長の「我は第六天魔王なり」(=我は異民族の大王なり?)という思い切った物言いは、武田信玄の「天台座主」に対抗したドメスティックな意味合いだけではなくて、それこそ大陸の明朝(永楽帝とその末裔)に対する挑戦状にも等しい覚悟が込められた自称であったのかもしれない… などとも思われて来るのです。

おそらく、これも信長お得意の、誰もその真意に気づかぬ “説明なき言動” であって、それは本来、信長の天主(立体的御殿)の最上階には何があったのか? という大問題ともつながるような気がして来て、なんとも落ち着きません。
 

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