「シロ」(城)は「キャッスル」と兄弟関係にあたる外来語! ! ! という驚天動地の異説



「シロ」(城)は「キャッスル」と兄弟関係にあたる外来語! ! ! という驚天動地の異説

前回の真田丸の記事は、当サイトの “天守が建てられた本当の理由” を探りたいという趣旨に反して、この「一回だけ」ということで、天守とは全く関係のない話題にさせていただき、そのうえ <丸馬出しに偽装> などという縄張り研究ではオキテ破りの暴走妄言を申し上げたところ、意外にも、バナーの応援クリックがいつもより多めに頂戴できまして、ちょっと悩ましい状態です。

で、決して当ブログは “天守が建てられた本当の理由” を探る方向性を変えるつもりはありませんが、この間隙をぬって、以前に知人に問われて上手く答えられなかった(天守とは関係が無いものの、どこかで記事にしたかった)一件を、ブログの通算200回目の記事ではありますが、ここで申し上げてしまおうかと思います。
 
 
それは当時、私が城マニアだと知った番組プロダクションの上司が、“中国人の言う「城」には広大な城壁都市も含まれるんだよね” と(さも日本の侍は自分の身しか考えなかったのかという、やや非難めいたニュアンスのある)問いかけをして来た時、“そうでもありませんよ” と反する事例をいくつか挙げたものの、あまり納得した風ではなく、その後になって “…ア、櫻井成廣(なりひろ)先生の話でもすれば面白く受け答えできたかな” と私自身が後悔したという件です。

その櫻井先生の話というのが、いま我々が城を「シロ」と呼んでいるのは、なんと、ポルトガル語に由来した外来語だという説があるそうで、もしそのとおりなら「シロ」は英語の「キャッスル」(castle)とは兄弟関係の言葉かもしれない、というのです。

櫻井成廣著『戦国名将の居城』(1981年)の口絵

(同書所収の「跋」より)

日本語で城郭をシロと呼ぶようになったのは南蛮人が渡来してからで、古い日本語ではキと呼んだ。
キは限るという意味で一定の地域を限って敵の侵入を防ぐ場所を指し、磯城(しき)は石で仕切りをした城郭であり、琉球語のスク、古代朝鮮語のスキと同じ語源だという。

シロというのはポルトガル語の silo が日本語になったのだという説を聞いたことがある。
現代のポルトガル語で silo は穀物を入れる穴倉を意味するが、語源を同じくするドイツ語の Schlos は閉じ込めるという意味の動詞からきた名詞で城郭を意味するから、古いポルトガル語にもそういう意味があったのだろうか。
日本語のキと本来の意味は一致するようである。
Schlos はフランス語の Chateau 英語の Castle と同義語でラテン語の Castellum からきたともいう。

 
 
櫻井先生はいったい誰からこの説を聞いたのか、私はその後も不勉強で把握しておりませんが、これが本当のことなら「シロ」は「カステラ」や「テンプラ」と同時期に来た外来語だった!!という驚天動地の事態となり、上記のごとく「城郭をシロと呼ぶようになったのは南蛮人が渡来してから」とも言い切っておりますから、櫻井先生はこの異説にかなり本気だったのかもしれません。

現在の一応の通説でも、古代に訓読みで「キ」であった「城」が、やはり中世以降に「シロ」と読む(呼ぶ)ように変わったのだそうで、その経緯を例えば内藤昌先生は…

(内藤昌『城の日本史』1995年より)

「城」はもとより音で「ジョウ」と読む。訓では「シロ」であるが、これは「シリ(領)」の古い名詞形と推定されている。
「領有して他人に立ち入らせない一定の区域」を示すわけで、たとえば、苗を植え育てるところを「苗代」(なわしろ/播磨風土記)といい
…(中略)ただここで留意すべきは、中世以降のように「シロ」が城郭を意味しないことである。

「シロ」に「城(き)」を当てるようになったのは、平安京創設に当たって「山河襟帯、自然作城」ところの「山背(やましろ)」国を「山城(しろ)」国に読み変えたのに始まるという(松屋筆記)。
 
 
内藤先生の説明は言い方が逆のため、ちょっとこんがらがりそうですが、要するに、日本人が城を「シロ」と読むようになったのは、平安時代に「山背(やましろ)国」が「山城(しろ)国」に変わったことの影響だろうというのです。

現状ではこの説明が一般的ではあるものの、西ヶ谷恭弘先生は「山背国が平安遷都により山城国にかわったことに由来するのではないようだ」(『戦国の城』)と否定的でありまして、西ヶ谷先生は、古代山城の岩座にあった神の憑代(よりしろ)や社(やしろ)の「シロ(代)」が、中世山城や戦国山城の、威力や霊力のこもった防御空間に見立てられたのではないかとしています。

そして三浦正幸先生は、やはりこの件での言及は著書の中に見当たらないようですから、どうやら、我々がいま「城」を「シロ」と呼んでいる由来や契機は、実は、よく解っていない(!!)という、お城ファンとしては、かなり意外な状況なのです。
 
 
ですから櫻井先生の驚きの「外来語」説を、ただ一笑に付しているわけにも行きませんで、ここは冷静に「外来語」説を一旦そのまま受け取ってみますと、そこにはちょっと意外な “光明” が見えて来るのかもしれません。

四角い 都城制の城壁都市 の姿を残していて人気の中国・平遥(この右側に碁盤の目の町家)

何を言いたいのかと申しますと、欧州の「Castle」「Chateau」は当然のごとく、ご覧の中国などの都城制の城壁都市は含まない概念ですから、もしもそうした「キャッスル」等と「シロ」が兄弟関係にあったのだとしたら、いま我々が日本の「城」を訓読みで「シロ」と読むとき、それは本来的に、都城制の城壁都市は含まない呼び方なのだ、ということが言えてしまうのかもしれません。
! ! …

となれば、冒頭でお話しした日本の「城郭」の説明をめぐる面倒な問題は、例えば××城の読み方を「××ジョウ」ではなくて「××のしろ」と訓読みに変えるだけで、瞬時にクリアできるのかもしれない、ということにもなるのでしょう。

そのようにして日本中の城を、あえて「古代からのキ・ジョウ」と「中世以降に限るシロ」とで、もっとずっと意図的に呼び分けるなら、そこから先は、まさに名は体をあらわす状態になって、すっきりしそうです。
 
 
(※ただ、櫻井先生の「城郭をシロと呼ぶようになったのは南蛮人が渡来してから」という記述については、ポルトガル人の種子島来航が天文10年~同12年1543年の間とされるのに対して、古語大辞典(角川書店/昭和62年版)にこんな文例が載っているそうで興味津々です。
 
「谷のしろへつめ候とて、どしめき候き。さうとよりしろを手をあはせ、みなとりまはし候由申候」(祇園執行日記/天文3年)
 
この日記文に基づけば、タッチの差で「しろ」の使用がポルトガル人来航よりも早かったことになりますが、このあたりはそもそも微妙な話であり、ポルトガル海上帝国がマラッカを占領したのは、30年も前の永正8年1511年のことで、ちょうどその前年に、鉄砲が大陸から日本に伝来していたという話が『北条五代記』にあったりもしますから、実態の解明は まだまだ先のことではないでしょうか … )

 
 
で、最後に、いつもどおりの暴走妄言を付け加えさせていただきますと、天下の府城として碁盤の目にならった城下町を「惣構え」で囲った伏見城、豊臣大坂城、江戸城などはそのままとしても、それら以外の中世からの城については、例えば八王子城は「はちおうじじょう」と呼ぶのではなくて「はちおうじのしろ」、滝山城は「たきやまのしろ」という風に、呼び方(読み方)を変えていく方がいいのかもしれない…

本居宣長のやまと言葉の研究ではありませんが、この21世紀、近隣諸国(とりわけアノ国など)からの観光客がどんどん増えていく時代にあっては、漢字の使い方(日本語としての読み)について、事前の理論武装をおこたらない方が、ひょっとすると、何かといいのかもしれないと、「外来語」説の思わぬメリットに目がいってしまうのです。…
 

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