中国では古来、兵が蔑視されて来たという『<軍>の中国史』から


中国では古来、兵が蔑視(べっし)されて来たという『<軍>の中国史』から



天皇を迎えに御所へと向かう関白の牛車(『御所参内・聚楽第行幸図屏風』より)

前回まで三たび「聚楽第」の話題を続けてしまい、その中では故・足利健亮先生の「外郭」ラインに説得力が感じられ、そこに当てはめた『諸国古城之図』の「せまい本丸」が豊臣秀吉の築城時の本丸かもしれず、その後に二代目の豊臣秀次が、京大防災研究所が探査した「外掘」と一連のものとして、南北に縦長の本丸(内堀)を築き直したのではなかったか… などという勝手な推測を申し上げました。

これ以上、ここで勝手なことを申すつもりはありませんが、豊臣家による聚楽第の盛事というのは、いわゆる貴種の生まれでない織豊大名らが、戦国の世の勝ち抜きレースに勝った “祝祭” であったことは間違いないでしょうし、その一回目の聚楽第行幸は 天正16年 (1588年) の4月14日に始まりました。
 

映画「七人の侍」1954年公開より

で、突然ですが、日本映画の最高峰とも言われた「七人の侍」は、ご覧の菊千代の偽(にせ)系図をめぐるシーンから、この映画が<天正14年>を舞台にしていたことが分かります。

―――天正14年と言えば、秀吉が小牧長久手で戦った徳川家康をようやく臣従させ、翌年の九州遠征に向けて準備を進めていた頃であり、全国規模での勝ち組・負け組が決しようという状況が、映画の時代設定として選ばれたのでしょう。
 
 
映画はご存じのとおり、主家の滅亡で牢人となった初老の島田勘兵衛をはじめ、仕官や恩賞にもならず、ただ白い飯が腹いっぱい食える、という条件だけで六人(菊千代を入れて七人)の牢人たちが村人に雇われ、山奥の村を野武士から守るべく臨時の防備をほどこして戦い、一人また一人と死んでいく姿を描きました。

現在では私たち城郭ファンは「村の城」や島原の乱で籠城した牢人たちの存在をよく知っているわけですが、黒澤明監督がこの映画を準備していた当時は、こんな話は夢のような “ありえない” 歴史的現象として監督や脚本家の目にうつったそうで、思わずこのネタ(設定)に飛びついたと言います。
 
 
時代の負け組として行き場を無くしたサムライが、おのれの技量に熱中できる場を与えられれば、そこが山奥の人知れぬ農村であっても、命がけでのめり込んでいくという「七人の侍」の特異な人物設定には、日本人として妙な説得力を感じてしまいます。

かく申し上げる私は、我が国の歴史上にサムライの価値観や行動規範があったからこそ、日本が日本たりえたのだと確信している一人でもあります。

その一方で、かの中国大陸には「兵」が蔑視(べっし)され続けた歴史がある、という興味深い新刊本を読み終えたばかりでして、その本によりますと、中国の有名なコトワザ「良い鉄は釘(くぎ)にはならない、まっとうな人は兵にならない」(好鉄不打釘,好男不当兵)は、中華人民共和国の建国(1949年)の頃までは日常的によく使われたそうです。…

澁谷由理『<軍>の中国史』2017年

全体を読み終えた感想としましては、出版社からの執筆依頼の意図(→ご覧の帯のキャッチフレーズ)のせいか、昨今の南シナ海の問題など、中国共産党の「私兵」である人民解放軍について、北京政府が完全にコントロールしきれない状態の “言い訳さがし” を、歴史的にふり返ったようにも見えてしまう点が、やや損なところのある本だなと感じました。

ですが、それにもまして、著者の澁谷由理(しぶたに ゆり)先生が指摘された、中国の歴代王朝は正規の「国軍」を編成し切れなかった歴史の繰り返しであり、そこでは常に「軍閥(ぐんばつ)」のごとき私兵集団が皇帝の直属軍を補完する立場にあって、時に犯罪者や流民・生活困窮者の収容先としての「軍」も機能していて、そんな素性の悪さから「まっとうな人は兵にならない」というコトワザが社会に定着していた、との論述は印象的でした。

(澁谷由理『<軍>の中国史』より引用)

儒学でもっとも重要なのは、家族の結合を基礎においた社会秩序の維持と、それを尊重する為政者の「仁徳」である。家族とは、生計と先祖祭祀を一にする共同体であるから、その永続こそが為政者に課せられた最大の義務である。
(中略)
収穫物をねらう外敵の侵入と農耕地の防衛は、つねにさけられない問題であり、じゅうぶんに安全を確保するためには兵力を増強しつづけるしかない。
兵力増強のためには、兵役従事期間をながくしなければならず、そうすると農地は十全には維持できない――王朝が農耕民からの徴兵にこだわりつづけるかぎり、解決策のない問題のようにおもわれる。
ところが皮肉なことにこの問題は、王朝(ないしは皇帝)が、最終責任を負わなければ解決するのである。つまり、王朝(皇帝)直属の兵にこだわらなければよい。…

 
 
ということで、農耕民を兵役につかせる「兵農一致」は古代の前漢時代に早くもほころび、その後は国防を「豪民」など様々な私兵集団に補完させる政治が繰り返されたそうで、そんな中では、かの曹操(そうそう)が、画期的でありながらも皮肉な結果をまねく政策を打ち出したようです。

(『<軍>の中国史』より引用)

「兵農一致」を維持しようとすれば財政破綻の危機があり、それを回避するために皇帝直属軍を削減すれば内乱をふせぎえないという、古代中国におけるジレンマは、かの『三国志』で有名な、曹操(一五五~二二〇)のとった「兵農分離」政策により、出口を見いだすことになる。
(中略)
曹操は自軍を安定させるために、兵士とその家族を「兵戸(へいこ)」として、一般民(「編戸」)とは別のあつかいにした(独身の兵士にはむりやり妻帯させてまで「兵戸」をつくった)。
彼らに生活保障をあたえ徴税を免除するかわりに、永代(父子ないしは兄弟間でかならず欠員をうめる)の兵役義務を課し、兵士が逃亡した場合、あるいは反乱をおこしたさいには家族全体に重罰をくだすことにした。

(中略)
しかし特別な待遇をあたえられた「兵戸」も、けっして特権層にはなっていかなかった。一般人とは戸籍が区別され、生まれながらに家族もふくめて戦闘要員として拘束され、農耕定住民になれないかれらは、特殊な境遇ゆえにかえって蔑視(べっし)されるようになる。
 
 
という風に、曹操の政策は、兵の安定供給には役立ったものの、兵士を一般の農耕社会から遠い存在に追いやってしまったようです。

ちなみに「兵農分離」と言えば、それを日本で最初に断行したのか?していないのか? と議論の的になっているのが織田信長ですが、本日の話題から申せば、少なくとも信長の家臣団は、恐れられたとしても “蔑視された” 形跡は無いようですから、日中間の「兵」をめぐる環境は(実は…)天と地ほども差があったのかもしれません。
 
 
ならば、それはいったい何故?? という疑問が、日本人としては当然、気になるわけです。

我が国も古代の律令制下では国軍を編成できたものの、土地の私的所有が進んで律令制が崩れ始めるとそれも難しくなり、やはり私兵集団の「武士」が、各地で軍事的な要求に応えて跋扈(ばっこ)し始めました。

ご承知のとおり「武士」の厳密な起源や定義については、学問的にはいまだ議論のただなかにあるようで、そんな中では、山本博文先生の「政争に平氏や源氏の武士団が私兵として使われるようになると、最初は利用したつもりだったのでしょうが、次第に武士団の軍事力が天皇や上皇の権力を圧倒するようになります」(『歴史をつかむ技法』)という解説が解りやすかった記憶があります。

すなわち、平安時代の王朝国家において、皇位の継承をめぐる「皇統」のあらそいという、日本社会ではそれを上や横から仲裁できない “雲の上の紛争” が起きてしまった時、それを軍事的に “決着させる手立て” として「武士」団(→具体的には保元の乱の平清盛ら)が日本社会にとって欠かせない立場を得たのだ、という山本先生の解説でした。
 
 
そのうえ「蔑視」云々では、ざっくばらんに言って、マニュアルどおりに軍務に従事すればいい国軍兵士と、プロフェッショナルな家業の技で敵方と闘う武士(場合によってどちらの味方にもなりうる存在)との違いだろう、という感触が私なんぞにはありまして、では、どちらが尊敬の念を得られるかと言えば、やはり武士の方が、例えば那須与一(なすのよいち)のごとき、あっぱれな武芸で、人々の共感を得やすいというアドバンテージがあったのではないでしょうか。

那須与一像(渡辺美術館蔵/ウィキペディアより)

―――であるならば、例の織田信長が掲げた「天下布武」という謎の文言のうち、「天下」の語意については近年の議論があるものの、一方の「布武」はどうなのかが気になります。

基本的に儒教の体系のなかにある『春秋左氏伝』の「七徳の武」を使って、かつて立花京子先生は「布武」を解説されましたが、本当にそういう中国流の「武」だけで「天下布武」を解釈して大丈夫なのでしょうか?

これには信長自身が「武士」社会に対してどういう態度を取っていたのか、という基本的な事柄を含めて、今回申し上げた話題のとおり、単純な中国語の引用だけで「布武」を考えますと(→日中間の「武」の違い?/「武士」はすでに天下の裁定者?) けっこう大きな間違いをおかす危険があるようにも思えて来たのです。…

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