<新設の当ブログ引越し先にようこそ!!>

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引越し先はご覧のごとき形でありまして、出来るだけ旧ブログと似た感じに…… とは思ったものの、ワードプレスにあるテンプレートの、引越しサイトを受け入れる機能を、あれこれ比較した結果の選択です。

まだまだ過去の記事のリンク先などは、旧「のブログ」記事のままである箇所も多々残ってはおりますが、正月31日までに随時、切り替えてまいります。

……… で、そんな引越し先の開設作業のさなかに、ふと本屋で以下の新刊本を見つけまして、いわゆるムック本以外で「天守」に焦点を当てた本は久しぶりの登場であり、思わず購入したところ、これがなかなかに周到な情報収集と取材で「天守」の最新の知見まで網羅しており、ここまで色々と詰め込まれていると、けっこうな読みごたえがありました。

萩原さちこ『城の科学 個性豊かな天守の「超」技術』(2017/11/15)

(同書「おわりに」より引用)
最近は中世の山城ブームだそうで、私も山城に関する執筆・講演の依頼を多くいただくようになりました。
そんなブームと逆行するように天守に特化した1冊を書いたのは、「中世の城こそが本物!」「中世の城に行かずして城は語れない!」という煽り文句を散見し、“中世の城をめぐっている人が本物の城ファン”と評価する風潮に小さな違和感を覚えたからです。

今どき、どうして「天守」で新刊本を? というそもそもの疑問(動機)について、著者はこう書いておられて、へぇー、そういう感覚でいまの城郭の分野を見ている方々(世代)もいるのかぁ、といくぶん驚いたのですが、しかも著者は「取材を通して驚いたのは、あまりに謎が多いこと。それなりに天守を理解していたつもりでしたが、とんでもない!」とも白状しておられます。

で、結局、<そういう複雑怪奇な「天守」って、いったい何だったの??> という巨大な謎については、これだけ多岐にわたる情報や知見を並べても、ついに解き明かされず… というあたりが、天守の天守たるゆえんではないかと、私なんぞには思えて来てなりません。

同書の第7章「丸岡城の最新調査・研究事例」より
… 当初は最上階の「廻り縁」が無かったと判明した、「望楼型?」の代名詞・丸岡城天守

著者の萩原さちこ先生も思わず白状されたように、天守(天守閣)がいかに謎の多い存在か、ということは、私たち日本人全体がまったくと言っていいほど認識していない状態にあるわけですが、この点で、私なんぞはいつも(中世の山城ブームに対しても)<それならば、世界の城や城郭ファンはどうなのか?> という観点が気になって仕方がありません。

世界の城郭研究の状況については、なかなか良く分からないものの、例えば手近なところで英語版ウィキペディアの「Castle」を、「このページを翻訳する」をクリックしてグーグル翻訳で日本語に直訳してみますと、多少おかしな訳語が出て来ても、全体としては、世界の英語圏の人々の「城」に対する認識ぶりを感じとることが出来ます。

それをザッと見ただけでも、我が国の「天守」というものは、世界の城において、ほんとうに特殊な存在なのだ、ということが痛いほど分かっていただけるのではないでしょうか。

ちなみに現在は英語版ウィキペディアに「Tenshu」という項目も登場していて、その内容は(グーグル翻訳では天守が「天照」になったり「テンシュウ」になったりと散々な状態ですが)言わんとしている中身じたい、(最悪のケースに比べれば)かなり的を射ていて、日本特有の歴史的土壌のなかから出現したものだ、という大前提は踏まえられている感じであり、まことに有り難いことです。

ですから、当サイトで何度となく「天守」と「ドンジョン」はまったくの別物である、と強く強く申し上げてきた危惧は、少なくとも英語圏の人々に対しては、そう心配しなくてもいい状態になりつつあるようです。…

ドンジョンの好例として写真がある、キャッスルライジング城(イングランド)

(英語版ウィキペディアからの直訳)
ドンジョン(Donjon)は、12世紀の城の建築における変化の中心にあった。 中央の塔が増殖し、典型的には厚さ3〜4m(9.8〜13.1フィート)の壁を有する正方形の計画を有していた。 その装飾はロマネスク様式の建築にならい、教会の鐘楼に見られるような二重窓を組み込んでいることがあります。
城主の住居だったドンジョンは、より広々として進化しました。ドンジョンのデザイン重視は、機能的なものから装飾的なものへの変化を反映するように変更され、景観に軽い力の象徴を与えました。 これは、時には表示のために防御を損なうことにつながった。

確かにご覧のとおり、一見、ドンジョンと天守は似たものと間違えやすいものの、ご覧の説明文で言えば、天守の発祥の一つである安土城天主が、我が国固有の建築様式「書院造り」を縦に重ねた「立体的御殿」として考案されたという“出自”からして、両者はまったくの無関係の間柄だと言わざるをえません。

Earthen ramparts(土製の城壁)と紹介されている二連木城の土塁

(※ご覧の写真は、鉄器時代の砦のキャンプ要塞などを連想させるrampartsとして紹介された疑いも?)

さて、その一方で、英語版ウィキペディアの「日本の城」を見てみますと、そこには、現在の山城ブームを感じさせるような内容は“ひとかけらも無い”状態でありまして、中世の山城は“castles that have been left in ruins”(=遺跡として残った城!!)という訳文でわずかに触れられる程度であり、それらが中世から近世にかけて機能した「土の城」である、という積極的な説明文にはなっておりません。

しかも「日本の城」は現状について、昭和6年に再建された大阪城天守閣のあとは「日本の残りの城の多くは再建されていますが、そのほとんどが鉄筋コンクリート製の複製物です」…複製物(原文steel-reinforced concrete replicas)レプリカ !!――― などとアッサリと書かれてしまっているあたりは、山城ファンの目も意識しますと、コンクリート天守の問題を申し上げてきた私としては、二重の意味で、遺憾きわまる状況です。

正直申しまして、コンクリート天守の「歴史」を堂々と語る方々の感覚が、私なんぞには到底、理解不能です。そのような感覚は、世界の人々には通用しない、とだけ申し上げておきましょう。
 

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※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。