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伝説の「静勝軒」と同じ景勝を…… 関東の「御三階櫓」の建築的条件は富士山や筑波山の眺望のみ?



伝説の「静勝軒」と同じ景勝を……
関東の「御三階櫓」の建築的条件は 富士山や筑波山の 眺望のみ?

「古河市立古河第七小学校」様の公式ブログから引用した綺麗な写真…
校舎の屋上から撮影したそうで、もちろん上が 富士山、下が 筑波山


当ブログではこのところ、何故ああも徳川の譜代大名は関東一円に「御三階櫓」を建て並べたのか?という話題を中心にお送りしていますが、ご覧の写真でお分かりのとおり、関東平野では、ビル群の無い開けた場所なら、どこでも似たような眺望を得ることが出来ます。
 

関東周辺にあった天守と御三階櫓(明暦4年1658年/明暦大火の翌年の時点)

これら古河城をはじめとする城のうち、地形図ではちょっと微妙に思える高崎や水戸でも、空気が特別に澄んだ日であれば富士山と筑波山の両方をのぞむことが出来ますし、このあとの江戸中期に建造された館林城や忍城の御三階櫓からも、同様の眺望が得られたであろうことは申すまでもありません。

ということは、やはり以前に申し上げたごとく、江戸時代、関東の譜代大名の意識の中では、天守の理想像が「太田道灌の富士見櫓や静勝軒」に変わる大転換があり、彼らにとっての天守とは、もはや外観の見事さを競うものではなく、道灌の江戸城をうたい上げた詩文のごとくに、そこから見晴らす四周の「風景」の方が、天守の理想像を形づくる重要な観点になっていたのでは… という疑いがぬぐえないのです。
 
 
そこで注目すべきは、京都五山と鎌倉五山の長老たちが、太田道灌に乞われて詠んだ数々の詩文(漢詩)の中身になるのでしょう。
 
 
ただ、漢文にうとい私なんぞは、どれを例に挙げればいちばん適当なのか解りませんので、見た目のわかり易さで、まずは鈴木理生先生が著書で例示した口語訳を引用させていただきますと…

希世霊彦『村庵稿』より「静勝軒の詩の後題」(部分)

頃(このごろ)聞けり、太田左金吾源公は関左の豪英なり。武州の江戸城を守りて国に功ありと。蓋(けだ)し武の州たるや、武を用うるを以て名と為す。
甲兵四十万、応卒響くが如し、乃ち山東の名邦なり。江戸の城是に於てか在りて其の要に雄拠し、而して堅くその塁を備う。一人険に当れば万虜も進まざる所以なり。

亦乃ち武州の名城なり。矧(いわん)や此城最も景勝を鍾(あつ)むることを。寔(まこと)に天下の稀(まれ)とする所なり。睥睨(へいげい)の隙は地の形勢に随い、彼に棲観あれば、此に台榭(だいしゃ/高台式建築)あり。

特に一軒を置いて、扁して静勝の軒という。是を其の甲と為すなり。亭を泊船と曰ふ。斎を含雪と曰ふ。各々其の附庸(ふよう/支配を受けるもの)なり。
若しそれ軒に憑りて燕座し、四面を回瞻(せん)すれば、則ち西北に富士山あり、武蔵野あり、東南に隅田河あり、筑波山あり。此れ則ち四方の観の一城に在るものなり。一城の勝、又此の一軒に在り。…

 
 
という風に、歴史上に名高い「静勝軒」といっても、唯一の手がかりである詩文の上では、建築の外観について、その意匠や見事さを歌い上げるような表現は一つも無いわけです。!…

詩の中心的なテーマは、もっぱら道灌の江戸城が「景勝をあつめた」「天下に稀」なる城であることで、富士山が見え、武蔵野や隅田川、その先に江戸湾や高橋のたもとの港のにぎわいが見え、さらには筑波山ものぞめる、という「眺望」こそが、名城かつ名建築の由来とされています。

ただし文中の方角(「西北に富士山」「東南に隅田河」)は『五百年前の東京』の菊池山哉先生もつっ込んでいた部分で、実際には、南西に富士山、北東に隅田川や筑波山であり、これは作者の希世霊彦らが江戸を訪れずに詩を詠んで贈ったことによる間違いだそうで、本当に江戸に滞在して詩を詠んだ僧侶は、漆桶万里(万里集九)と蕭庵竜統の二人だけだそうです。

釈 蕭庵竜統『江戸城静勝軒に題する詩に寄する序』より(部分)

西望すれば則ち原野を逾(こえ)て雪嶺天と界(まかい)し、三万丈の白玉の屏風の如きもの(=富士山)あり。
東視すれば則ち壚落(=宇宙)を阻んで、瀛海(=大海)天を蘸(ひた)し、三万頃の碧瑠璃の田の如きものあり。
南嚮すれば則ち浩々呼たる原野、寛に舒(の)び広く衍がる。

平蕪(=草原)菌布し一目千里、野海と接し、海天と連なるものは、是れ皆、公(=道灌)が几案の間の(=机上でもてあそぶ)一物のみ。
故を以て、軒の南を静勝と名づけ、東を泊船と名づけ、西を含雪と名づく。

(中略)
含雪、泊船の如きは、浣花老人(=唐の詩人・杜甫)が蜀中倦遊の境なり。題扁の及ぶ所にして此の地の此の景と同じきを以て、摘(とり)て以て名と為すなり。
 
 
竜統のうたい上げもすごいですが、なんと道灌自身は、江戸の風景が伝説の「蜀」の国に似ていると感じていたようで、そこから「含雪」「泊船」という扁名を選んだという経緯もあったようです。

とにかく、ここまで「眺望」「景勝」にこだわって江戸城を詠んだ詩文が、これでもかっ!というほどに存在していたのですから、江戸時代、それらが関東の譜代大名の心理に与えたインパクトは、よほど大きかったのではないでしょうか。

築城にのぞんだ彼らの関心事が「伝説の静勝軒と同じ景勝が得られるか」に傾いたとしても不思議では無かったでしょうし、そんな状況から、まるで外観にこだわない「御三階櫓」が続出したとは考えられないでしょうか。(とりわけ関東平野の中心部の諸城において…)

 
 
<一つの疑問 /「静勝軒」と「富士見櫓」に歴史的な “混同” は無かったのか…>
 
 
 
さて、話題の「静勝軒」ですが、どうやら太田道灌の死後も、江戸城が後北条氏の時代になっても、シンボル的な存在の静勝軒(という建物)は残っていたらしく、それは「富士見の亭」とも呼ばれていたそうです。

ということは、ここで思いっきり邪推した場合、この後北条氏の時代に「静勝軒」と「富士見櫓」との混同が起きた、という可能性は無かったのでしょうか??

と申しますのも、諸先生方の復元の考え方には大きく二種類あって、一つは「静勝軒」は平屋建ての御殿建築であり、その奥に詩文で「閣」と称された櫓が別途あったという考え方であり、もう一つは「静勝軒」じたいが楼閣建築であり、屋根上に望楼を載せていて、「静勝」「泊船」「含雪」は、竜統の詩のごとく楼閣の南面・東面・西面を名づけたものだという考え方です。

特に後者の楼閣説では、「静勝軒」は「富士見櫓」と同一の建物だということになり、天守の原形の一つとしてふさわしい形になるのですが、これまで申し上げて来たように、江戸城において、天守建造の理屈の180度近い大転換が起き、そこから「眺望」第一の、外観にこだわらない特有の「御三階櫓」が関東に広まったのだとしますと、やはり「静勝軒」と「富士見櫓」は別々の建築でないと理屈が通りません。
 
 
……で、もし仮にそうだとしますと、混同された建物はそのまま後の時代まで長く残り、やがて江戸初期に、かの土井利勝が拝領して佐倉城に移築した「静勝軒(=銅櫓)」というのは、ひょっとすると、実際には「静勝軒」ではなくて「富士見櫓(含雪斎)」だった!? ということにもなりかねません。

そうした中で、やや細かい点で恐縮ですが、下記の「銅櫓」の古写真と、谷文晁の絵の「富士見櫓」は、最上階の屋根がそれぞれ形式は違うものの、ともに「錣葺き(しころぶき)」になっている点が、どうも気になって仕方がないのです。…

左写真:明治初めの解体工事中の佐倉城「銅櫓」古写真                 

これは「静勝軒」? 「富士見櫓」?

 

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