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譜代大名があこがれた「富士見櫓」は太田道灌の江戸城の「高台」だったとすると…



譜代大名があこがれた「富士見櫓」は太田道灌の江戸城の「高台」だったとすると…

(『金城温古録』第十二之冊「天守の始」より)

武備の為に 高台 を建て威を示し、内に文を修て治道を専らとせしは
太田道灌の江戸城に権輿
(けんよ/事が始まる)す。
是、天守の起源とも謂ふべし。

そして天守のごとく描かれた谷文晁「道灌江戸築城の図」(個人蔵)の富士見櫓

…… いったい何故、関東の譜代大名らは(見栄えもしない! 誠にそっけない)「御三階櫓」をああも関東一円に建て並べたのだろうか? という疑問について、従来は「徳川将軍の江戸城天守をはばかり(ランクを一段下げた?)富士見櫓にならったのだ」というような説明がされて来ましたが、前回の記事では、そこで私なんぞが申し上げてみたい疑問として〈その富士見櫓とは、いつの時代の富士見櫓 なのか〉という点を挙げました。

その過程でご覧いただいた谷文晁(たに ぶんちょう)の絵は、制作が弘化3年(1846年)で幕末のものだそうですが、但し書きには「江戸築城古図により」との墨書があるそうで、思わずグググッと仔細に眺めてみますと、色々と面白い点も見えて来まして、今回はその辺をちょっとだけ補足させていただこうかと思うのです。

ご覧の絵には随所に墨書(書き込み)がありまして、それらのいくつかを、墨書の表記を基本に赤文字で大きく表示し直しますと…

絵の左側部分(遠景は富士山)…「子(ね)城」が城のいちばん北側の最高所に!?

絵の右側部分(遠景は筑波山/つくばさん)

ということでして、後の江戸時代の城とも共通した名称が並んでおり、おおよその所は理解できそうなのですが、よくよく見ますと、どうやらこの絵は(左に南西の富士山、右に北東の筑波山が見えることからも)左右で別々の「視点」と「方角」による景観が二つ(または三つ)合体して!出来上がっているようなのです。

左右の絵は、景観の視点の位置や方角・画角がずいぶんと違っているのかも…

で、こうなりますと、絵の上部に示したごとく、中央の「富士見櫓」は、ひょっとして、左側の絵の「子城」の櫓と “同一の建物” ではないのか? という疑いが頭に浮かんでまいりまして、それは絵の「汐(見)坂門」と「吉祥門」の位置関係や、そして何より絵の「富士見櫓」の真下には「三日月堀」(=すなわち北桔橋門と西桔橋門の間の「乾堀」!!)と墨書されていることから、そのように思えて来るわけです。

ですからこの絵は、富士山と筑波山が両側に見えたという江戸城(静勝軒)のベーシックな情報に忠実な(工夫を施した)構図なのだ、ということが分かって来るのですが、それにも増して、この絵の描写=「子城」は城内でいちばん高い北側の部分という描写も本当のことだとしますと、これはかなり貴重な絵画史料(の写し)なのかもしれません。

何故ならば…

【ご参考】赤い表示→小松和博先生が想定した道灌時代の江戸城

太田道灌の江戸城の構造については、諸先生方が各々の考え方を提示して来られましたが、焦点の一つは、例えば道灌と親交があった僧・万里集九の詩文「静勝軒銘并序」に次の有名なくだりがあって…

「其の塁営の形たるや、曰く子(ね)城、曰く中城、曰く外(と)城と云ふ、凡そ三重なり、二十又(ゆう)五の石門ありて、各々飛橋(とびばし)を掛けたり」

という中の「子城」「中城」「外城」が、それぞれ後の江戸城のどこに当たるか?という観点から、いくつもの解釈が登場しました。
 
 
上の図や赤い表示はその一例で、小松和博先生の『江戸城』1985年から引用させていただいた形のものですが、ここで留意すべきは、小松先生をはじめ、ほとんどの先生方が「子城」については、それは「根城」「第一の曲輪」「詰の城」といった意味であり、場所としては江戸時代に「富士見櫓」があった本丸南端を含む部分だろう、という点だけは完全に一致している点でしょう。

…ところが、どういうわけか、谷文晁の絵では「子城」の位置が城のいちばん北側の奥で、しかも城内の最高所とおぼしき地点になっているのです。

このような「子城」の位置に関しては、例えば『五百年前の東京』の著者・菊池山哉先生も同様のお考えの持ち主であり、著書に掲載の見取り図では「子城」をいちばん北側にしておられていて、いくぶん勇気づけられるわけですが、このように「子城」は城の北部にあったという形で考えを推し進めますと、これまた、かなり意外な “符号” に出くわすことになります。…

以前の記事から/『極秘諸国城図』江戸城(=家康時代)の本丸部分をダブらせた地図

それをさらに小松先生の図ともダブらせていただくと…

ご覧のとおり、このままでは「子城」は江戸時代の富士見櫓を含むエリアですが、ここで試しに、「子城」は谷文晁の絵のごとく本丸の北側部分にあった、という風に想定を変えてみた場合、その結果は、次のような驚くべき状態になると思うのです。

! ! やはり、と申しますか、太田道灌の「子城」と、その後に徳川家康が天下普請で築造した慶長度天守の天守台や天守曲輪(詰ノ丸)は、ほぼ同じ小丘を! 利用していた可能性が生じて来るのです。

これはまさに、前回ご紹介の『金城温古録』の「慶長十一年 御改築 の江戸城御天守」という記述は、本当のことだったのか!?…と絶句してしまいそうな事態を意味していて、この場所に道灌の子城の櫓(富士見櫓)があって、家康はそれを承知の上でその故地に慶長度天守を上げた、という陶然(とうぜん)となりそうなストーリーが浮かび上がって来ます。
 
 
かくして、谷文晁の絵のとおりに考えた場合、この絵の中央にある「富士見櫓」とは、おそらくは、数々の詩文にうたわれた「含雪斎」(=静勝軒の西側にあって富士山をのぞむことが出来、丸窓ごしに富士山の雪が見える様子から “含雪” 斎と名付けられた…)と同じ建築物だと想定することは、位置的に見ても、城内の最高所という点でも、ほとんど違和感が無いのです。…
 

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