日: 2009年5月18日

その原資料は七重分が描かれてなかった?


その原資料は七重分が描かれてなかった?

今回は、加賀藩に伝わったはずの『天守指図』の原資料を、なぜ池上右平が大幅に「加筆」してしまったのか、その原因に考えをめぐらせてみます。

結論から先に申せば、そうせざるをえないほど右平を “慌てさせた” 状態、例えば原資料は七重分の階がすべて揃っていないような表記の仕方だったのではないか、という原因が想起されるのです。

と申しますのは、(以下はこれまでにも『天守指図』への批判として指摘されてきた点ですが)「一重目」の天主台の形状や礎石にまつわる問題、「四重目」の吹き抜け空間を渡る橋の問題など、『天守指図』は階によって、検討課題の有る無しの “落差” が大きいように思われるからです。

そこで今回は「一重目」を例に挙げながらお話いたします。

(※『天守指図』はこの階について「いしくら」という表記しかないものの、他の重階と表記を合わせるため、便宜上「一重目」と呼びます)

天主台遺構(グレー)と「一重目」(青)

ご覧のように礎石の位置を合わせて「一重目」をダブらせますと、すでに様々な不整合が生じていることがお分かりでしょう。例えば…

a.天主台内側の石垣(特に西側/図では右側)が現状の遺構とまったく合わない。

b.しかもその石垣が妙な形で二重に描かれている点は、ひょっとすると、右平が文献(『信長記』)の「二重石垣」を表現しようとした形跡が感じられる。

c.石蔵入口の周辺は、おおよそ合致しているように見えながら、その描き方は印象や記憶をスケッチしたような描写であって、現地に則した指図や測量図とは思えない。

d.そして下写真のごとく、石蔵内の土間には、大ぶりな礎石が一面に(一間ごとに)据えられていて、このことから石蔵内は柱が林立していたとも言われるが、「一重目」の描写はまったく違う。

さらに「二重目」を図上にダブらせてみますと、天主台の形状自体が合っていないという、かなり決定的な問題のあることが、すでに指摘されて来たのです。

以上の諸点を踏まえて推測しますと、「一重目」とは、石蔵入口の印象や記憶がしっかり描写されているという、注目すべき特色は備えているものの、それ以外は(あえてハッキリ申し上げれば)この階が “まるごと加筆だった” という、驚天動地の可能性を示しているのではないでしょうか??

石蔵入口の周辺につきましては、右平が何らかの別資料から得た情報を “加味” して、この「一重目」を書き上げた、と考えた方が、あらゆる点が合理的に説明できるように思われるのです。

これは必ずしも極論でないと信じて付け加えますと、『天守指図』の全体についても、場合によっては、七重分の図のうち、原資料にあったのは、三点か、四点だけだった可能性もありうると思われ、そうした安土城天主の解明をめぐる落着点については、回を改めてお話したいと存じます。
 

※ぜひ皆様の応援を。下のバナーに投票(クリック)をお願いします。
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
※当サイトはリンクフリーです。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。