
→ → もはや時代は「温暖化対策」ではなくて、「温暖化“適応”社会」「温暖化“適応”生活」を急ぐべき局面なのかも。
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【 ご参考 】
賤ヶ岳合戦図屛風(大阪城天守閣蔵)に描かれた羽柴秀吉。頭にかぶったのは、
狩装束の綾藺笠(あやいがさ)ならぬ、ありきたりな編み笠のように描かれた…
ご覧の羽柴秀吉のすぐ左下には、貼付札に「鳳王ハヲリ」と書き込まれた丹羽長秀がいて、その華麗な孔雀羽根の陣羽織に比べれば、秀吉のいで立ちは(一点豪華主義の「虎皮」陣羽織を除けば)頭には備前風?の編み笠など、ちょっと田舎趣味が強いようにも思えるもので…
いっそう拡大して見れば、秀吉の甲冑の色は、左端の槍を持った長秀の家臣の兜と同じ色で塗られていて、これがもしも「鉄錆地塗り」だとすると、秀吉の基本のいで立ちはますます地味なものになりそう。!……
(【+ご参考のご参考 】綾藺笠(あやいがさ)による典型的な狩装束)

上記と同じことは、より古い作例かと『戦国合戦絵屏風集成』で
紹介された、個人蔵の賤ヶ岳合戦図屏風の場合でも。
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そして長浜城歴史博物館蔵の賤ヶ岳合戦図屏風の場合も。
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<そもそもの疑問。秀吉はなぜ「下賤(げせん)の出」を、
人生の早い段階で隠そうとしなかったのだろうか??
いや、隠すどころか、前半生では、それを
周囲にペラペラと進んで語っていた可能性も。!………>
さて、今回の記事は、前回までの内容を受けまして、羽柴(豊臣)秀吉の「覇道」についてさらに申し上げて行くうえで、絶対に欠かすことの出来ない要素<極端に低かった出自>に対して、本人はどういうつもりでいたのか?…との観点から、いくつか申し上げてみたいと思うのです。
では、いつ頃から「秀吉は百姓出身」との話が世間に出回っていたかと申せば、なんと、大坂城の築城が佳境を迎えていた(=小牧長久手戦の直前にあたる)天正12年の正月、かの安国寺恵瓊が毛利輝元の重臣・児玉元良に送った書状の中に「(秀吉は)乞食をも仕り候て存ぜられ候仁」とあるそうで、もはや疑いようもない話として語られていたようです。
――― ですが、これは考えてみれば大変なことで、多くの大名が大坂城の天下普請に狩り出される中での「乞食」との強烈な表現は、天下人による動員への怨嗟(えんさ)の声を集めそうで、謀反(むほん)すれすれの響きがありましょうし、こんな書状が出るところに出てしまえば、その後の恵瓊の首も危なかったように感じますが、もしかすると、そんな心配をしてもしょうがないほど「百姓出身」は上方で広く語られていたのかもしれません。
そこで、あえて申せば、どうしてそんなに「百姓出身」が知れ渡ったのか、その方がむしろ、私なんぞには不思議に思えてならないのですが、そういう出自を隠そうと思えば、例えば、木下藤吉郎と名乗っていた頃に杉原家や浅野家などを使って名乗りを大胆に変えてしまう、とか、その気になれば、出自をねつ造することも可能であったのではありませんか。

そんな疑問については、一方で、秀吉お得意の軽口…という風に受け止められる逸話として、上記の安国寺恵瓊の件の6年後、小田原攻め直後に、鶴岡八幡宮で秀吉が語ったという<有名な文言>をよくよく考えますと、そこに秀吉の前半生を解き明かすような大切なニュアンスがあった気もしてまいります。
それは『川角太閤記』にある話で、末社の白旗の宮(白幡神社)を訪ねた秀吉が、源頼朝の木像に向かって「貴殿よりもわしの方が優れている」と言い放ったというものですが、これは延宝8年1680年に編纂の『武辺咄聞書(ぶへんばなしききがき)』にも同じ話があって…
(※『武辺咄聞書』第二二話より)
小田原落城して後、秀吉公は直に奥州へ御動座被成。其砌(そのみぎり)鎌倉御見物。鶴か岡八幡宮へ参詣、白旗の宮へ御参。御戸を開かせ頼朝の御像を見給ひ、秀吉公社檀へ御上り、頼朝木像に向て
「微少成る身にて天下を切平け、四海を手の裏に握る事、本朝にては御身と我也。乍去(さりながら)御身は多田満仲の後胤にて王氏を出て不遠(とおからず)。
殊に頼義義家東国の守護人にて、 諸人皆其馴染(そのなじみ)深し。其上(そのうえ)為義義朝猶以(なおもって)関東管領したる故に、頼朝流人と成ても諸人是を慕ふ故に、義兵を揚(あげ)るとひとしく関東皆属従し、天下一統手間不入(いらざり)き。
我は元卑賎にて、氏も系図もなき身成るに、ケ様(かよう)に天下を取たる事、御身より我(わが)功勝れり。乍去(さりながら)御身と我は天下友達なり」
とて、頼朝の木像の背中をほとほとと御たゝき被成。誠に濶気なる御大将なり。
源頼朝像(鶴岡八幡宮の白幡神社蔵)/ 秀吉が右利きならば、
この肩から背中をポンポンと叩いたことになりそう。
(※ご覧の写真はfacebook「国宝の旅」様からの画像引用です)
我は元卑賎にて、氏も系図もなき身成るに、ケ様(かよう)に天下を取たる事、御身より我(わが)功勝れり。= わしは卑賎の身から天下を獲ったのだから、貴種の生まれの貴殿よりも、わしの方が上だ。
秀吉がこう木像に語りかけたのは、小田原城を開城させ、事実上の天下統一を成し遂げた直後のことですから、高揚感も手伝ってのことかもしれませんが、ここに私なんぞは、日本史や(前回に申し上げた)武家の成り立ちをも“やぶにらみ”するような、秀吉自身の下剋上の本音が、どす黒く、横たわっていたように感じられてなりませんで、それこそが<秀吉の前半生のエネルギー源>だったのではないのか、と。
しかもそれは、いま話題沸騰中の「山崎の戦い」=秀吉は実際には両軍激突の場に遅参していた!?との新説を踏まえますと、『フロイス日本史』のさらに大胆で露骨な戦況描写も手伝って、秀吉の覇道の実相(→ 明智光秀の討ち取りは、苦肉の策の「計画的な落ち武者狩り」に期待するしかなかった最終状況!…)が見えて来そうなのです。
< 秀吉の覇道の実相(→ 明智光秀の討ち取りは、苦肉の策の
「計画的な落ち武者狩り」に期待するしかなかった最終状況)と、
下賤の出を隠そうとしなかった秀吉が、とっさに演じた、
民衆を動員した<<下剋上の権化>>による天下獲り。>
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さて、話題の中京大・馬部隆弘先生による「山崎の戦い」の新説は、すでに歴史ファンの皆様には周知の事柄でしょうから、詳細は省かせていただきますが、例えば、下記のサイト「本能寺の変考察ブログ」様の6月13日の「山崎の戦い布陣図」を参照いたしますと、赤=秀吉軍の摂津衆ら先手の軍勢、青=明智光秀の本隊と先手の軍勢、という形で両軍が山崎のせまい地形の中で激突し、その後、高山右近らの猛反撃で明智軍の戦意はくじかれた、との解釈が有力のようです。

この件はいま話題のテーマですから、私のごとき者が軽々に口をはさむとロクなことにならないのでしょうが、結局のところ、秀吉自身が油断して13日の先手衆どうしの激突の時刻に(12kmも後方の)摂津富田で織田信孝と合流する形になっていたのは、それまで明智軍が平地にとどまり、天王山を占拠するでもない中途半端な態勢を見せていたため、秀吉が「これは勝竜寺城の包囲戦になる」と決め込んでしまったから、なのでしょう。
しかし『フロイス日本史』に書いてあるのは、もっと大胆かつ露骨な戦況描写でありまして……
(『完訳フロイス日本史3』第五八章(第二部四三章)より)
(最初の激突で高山右近が明智勢の二百人を討ち取ると)明智の軍勢はたちまち動揺をきたし、混乱した。この最初の衝突が終ると、ジュスト(※高山右近)と間隔を置いて併進して来た二人(※中川清秀と池田恒興)の殿たちが到着した。
そこで明智方は戦意を喪失し、背を向けて退却し始めたが、敵方がもっとも勇気を挫かれたのは、信長の息子と羽柴が同所から一里足らずのところに、二万以上の兵を率いて到着していることを知ったことであった。
だがこの軍勢は幾多の旅と長い道のり、それに強制的に急がせられたので疲労困憊していて、予想どおりには到着しなかった。
という風に『フロイス日本史』は、高山右近の反撃によって明智軍はかなり崩されたとともに、山崎まで一里の距離に到着した秀吉軍本隊の二万人も、すっかり「疲労困憊」していて、実は、戦闘どころではなかった??…という状況を暗に伝える文面になっています。
それが真実に近いことは、続く文面が、勝竜寺城を脱出した明智光秀の一行を追撃する描写ではなくて、勝竜寺開城の一日をおいて、いきなり地域一帯の家々での残党狩りが始まった描写になるからです。
(同書より)
明智は夜明けになって坂本城に向かって歩き、そこで再起するつもりであり、ほとんどひとりで進んだが、話によればいくぶん傷ついていた。だが晩までにそちらへ到着できなかったので、付近に身を潜めていた。
翌日になると、ただちに、掠奪と斬首の勢いがすさまじく、信長が殺された場所へは、初回分としてだけで一千以上の首級がもたらされた。
(中略)
哀れな明智は、隠れ歩きながら、農民たちに多くの金の棒を与えるから自分を坂本城に連行するようにと頼んだということである。
だが彼らはそれを受納し、刀剣も取り上げてしまいたい欲に駆られ、彼を刺殺し首を刎ねたが、それを三七殿(※織田信孝)に差し出す勇気がなかったので、別の男がそれを彼に提出した。
ということで、これは明らかに、残党狩り・落ち武者狩りがにわかに地域一帯で“推奨されて”実行されたことを物語るものでしょうし、最終的に光秀の首を取った者は、それを織田信孝に「差し出す勇気がなかった」ということは、少なくとも武家ではない、何よりの証拠なのでしょう。
かくして『フロイス日本史』の描写も加味して山崎の戦いを見直すならば、中国大返しを実行した秀吉軍は、実は、山崎の地に姿をあらわすだけで精一杯であって、それ以上の戦闘は、高山右近らの摂津衆が味方して戦ってくれなければ、どうにもならなかった――― という状況で、
だからこそ「二万以上」という「数」で明智軍を圧倒したあとは、残党狩り・落ち武者狩りを意図的に策動させて、最終的な光秀の「首」については、それに期待するしか秀吉には手が無かった……という風にも言える状態かもしれなかったのです。
それを含めて、すべてが
<民衆を動員した覇道(天下獲り)>であったのかも?

(※ご覧のAI画像はサイト「AI Historia (AI歴史ドラマ)」様からの引用です)

(※ご覧のAI画像はサイト「日本史散歩」様からの引用です)

(※ご覧のAI画像はサイト「戦国ジャーナル」様からの引用です)
ご覧のように、ひょっとすると、秀吉の「築城狂」ぶりについても、民衆の動員、というキーワードから別に読み解くことが出来るのかもしれませんし、それまでの「下剋上」とは、あくまでも武士階級の中での上下の入れ替わりを意味していたはずなのが、下賤の出を隠そうともしない秀吉の出現によって、時代は大きく様変わりしたのではなかったでしょうか。
さながら<<下剋上の権化>>を演じることに成功した秀吉は、本当に、源頼朝よりも「強く」社会を動かすことが出来たのかもしれませんし、また、そんな秀吉が天下人として対外戦争に乗り出したならば、それが即「総力戦」になってしまうのも、当然の成り行きだろうと言わざるをえません。
ところが、ところが、今回の話題を踏まえて申せば、朝鮮出兵には水夫の大量徴用の話などは伝わっているものの、それ以外の「民衆」動員は(太閤検地や刀狩りという“間接的な”戦争協力のほかは)間に日本海!があったために、物理的に、動員のしようがなかった――― ということが、けっこう大きな「落とし穴」であったように思うのですが、いかがでしょう。
(さらに次回に続く)
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