【超余談】本当は国際軍事裁判で裁きにくかったから?→ムッソリーニの最期「銃殺&逆さづり」は連合国軍と共産党パルチザンの結託によるもの

( 前々回の記事より )

――― 前回、前々回と、明智光秀の最期は羽柴秀吉による策謀=意図的な落ち武者狩りが功を奏した結末ではなかったか、などと申し上げましたが、これって、どこかでも似たような話( 仇敵の殺害や処刑を、自らは手が下せないために、自分とは立場のちがう者と「結託」して、代わりにやらせた策謀…)があったよなぁ、現代史でも、と私の頭の中であらぬ連想が繰り返された結果でもあります。

と申しますのは……

写真中央の強面(こわもて)が、言わずと知れた、イタリアのファシスト党創設者ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini/1883―1945)。

1922年(※日本では大正11年=関東大震災の前年)に、写真右端のムッソリーニは、警棒を持ったファシスト党員(黒シャツ隊)による大規模なデモ行進「ローマ進軍」を敢行。
それをあえて鎮圧しなかったイタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世(写真中央)から、ムッソリーニは新たな首相に任命され、連立内閣を組閣した。






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この国王の意図は、ストライキや暴動がひん発した世情にあって、ロシア革命でのロマノフ家の末路が脳裏にあったともいうが、ムッソリーニ政権はただちに様々な法律の改定(=25%の得票党が国会議員の3分の2を占められる/非協力的な政党の強制解散/地方選挙の廃止/新聞編集長の任命制/そして国会議員はファシスト党の候補者リストからしか選べない、等々)を次々と成立させ、野党第一党の党首マッテオッティの暗殺もあって、ファシズム(全体主義)の体制がまたたくまに確立されて行った。

またムッソリーニは自国の工業力の弱さから、第二次エチオピア戦争の他は対外戦争に慎重だったが、ドイツ軍の「電撃戦」の驚異的な成果を見るや(同じ驚嘆を得ていた日本と共に)日独伊防共協定を発展させて日独伊三国同盟を締結。

しかし3年後、北アフリカ戦線でイタリア軍が連合国軍に敗北すると、7月19日のローマ大空襲の衝撃もあって、敗戦による王政廃止を恐れたイタリア国王はムッソリーニに見切りをつけ、数日後のファシズム大評議会では党幹部らがムッソリーニの追放を決定。ムッソリーニは首相辞任を国王に報告した場で逮捕、幽閉へ。

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後継首相バドリオの不手際で混乱が続くなか、幽閉先からドイツ軍によって救出されたムッソリーニは、ドイツ軍の完全な傀儡(かいらい)=新たなイタリア社会共和国の元首となるも、南北のイタリア内戦に負けるどさくさの中で共産党パルチザンに捕らわれて銃殺され、ミラノの広場で側近らとともに逆さづりにされてしまう。
 
パルチザン側は、これは1年前にこの場で銃殺刑になったパルチザン同志の復讐である、と言明していた。





写真右側は銃殺の場に居合わせて殺された、ムッソリーニの愛人クララ・ぺタッチ。







遺体安置所に移送されたムッソリーニとクララ・ぺタッチの遺体。このあとムッソリーニの頭部に対する、無残な暴行・遺体損壊がここで行われた。

 
――― といった激動の経緯を、ただ単に「独裁者の末路」「正義の鉄槌」などと言ってしまうのは、歴史の実像とはかなり違ったものになる危険性が濃厚でありまして、そこには、殺害者の共産党パルチザンやその黒幕に肩入れした、欺瞞(ぎまん)的なプロパガンダが介在しているように思えてなりません。

かく申す私は、伝統文化を大切にする「保守」こそ最上の生き方だろう、と確信している者でして、伝統文化の破壊をめざす左翼思想には断固、反対してまいりましたが、ただし、ファシズムの語源「ファッシ」=「束ねる」から分かるように、国民を<<固く束ねること>>しか眼中になかったファシズム(全体主義)も大嫌いであって、したがって、共産党独裁!などという隣国はまさに地獄の刑場にしか見えません。

その点ははっきりと申し上げたうえでも、ご覧のムッソリーニの最期については、やはり<仇敵の殺害や処刑を、自らは手が下せないために、自分とは立場のちがう者と「結託」して代わりにやらせた策謀…>が強く感じられてなりませんし、しかもそれはいま話題のICCや国際軍事裁判の問題ともからむテーマですので、今回の記事では、そんな【超余談】を是非とも申し上げさせて下さい。……
 
 
 
<【超余談】本当は国際軍事裁判で裁きにくかったから?
  → ムッソリーニの最期「銃殺&逆さづり」は
  連合国軍と共産党パルチザンの結託によるもの >

 
 
 
なぜ「結託」などと言えるのか、そこを明確にするため、もう一度、1943年に北アフリカ戦線でイタリア軍が連合国軍に敗北したあたりから、時系列をたどり直してみますと…

【 ご参考 】連合国軍のイタリア上陸作戦

1943年9月3日、シチリア島に上陸していた連合国軍は、イタリア半島の南端に上陸。
イタリア王国(バドリオ政権)は連合国側に非武装中立国となる秘密協定を進めていたものの、いきなり米軍がイタリアの無条件降伏受諾を発表したため、驚いたドイツ軍は一気にローマを占領。たまらずバドリオと国王は南部に逃走しました。

そこから1945年5月2日までの1年8ヶ月間、連合国軍はイタリア半島の北半分を占領したドイツ軍と戦いながら山岳地帯を北上する、という難しい作戦を強いられることになったのです。

そしてその間に、上記の共産党パルチザンによるムッソリーニの「銃殺&逆さづり」が、終戦間際の1945年4月28日~29日に“駆け込み”的に実行されたわけですが、その処刑の根拠とされたのは…

実際にあった連合国軍とイタリア共産党パルチザンの結託=「ローマ議定書」

1年8ヶ月間におよぶ連合国軍の北上作戦が延々と続くなか、1944年12月7日にこの議定書が締結されると、連合国軍からパルチザンへの資金提供がなされ、治安維持を兼ねてパルチザンを野放しにする方針が決定。
そのため以降は、連合国軍が北へ移動した後の町々では、パルチザンがムッソリーニ政権の支持者に対して報復的な虐殺を繰り広げる、という混乱状態におちいりました。

イギリス製の短機関銃などを携行したパルチザン兵


一説には「1944年4月時点でパルチザン部隊は推定1万3500人、そのうち48%が共産主義者で構成されていた」「それが1945年3月末には8万人に跳ね上がり、4月には13万人に達した」「地域に潜伏していたファシストは、その80%が、1945年4月から終戦の5月までに殺害された」という話も。

銃殺&逆さづりを実行・主導したパルチザン幹部、ヴァルター・アウディージョ
Walter Audisio 1909―1973

ご覧のアウディージョこそ、自らの手でムッソリーニを銃殺し、それを妨げようとしたクララ・ぺタッチも合わせて殺した、と進んで喧伝してはばからなかった人物であり、翌日のミラノの広場での「逆さづり」も彼が主導したものでした。

そしてその「逆さづり」は、翌日の午後2時頃になって、ミラノに到着した米軍当局がやおら遺体を降ろすことを命じた、という、茶番劇のようなタイミングであったと言います。!!…

(※ちなみに戦後、アウディージョはクララ・ぺタッチの遺族から提訴されたものの、裁判所は当時のイタリアはドイツ軍の占領下にあり、そこで行われた殺害は審理不能との立場から「無罪」を言い渡したとか。 そしてアウディージョはなんと、1948年にイタリア下院議員に!当選し、三期つとめた後、1963年には上院議員にも選出されました)

検死解剖後のムッソリーニの遺体

……… かくして“ファシズムの巨魁”との印象が定着したムッソリーニはあの世に葬られたわけですが、重要なのは、その時点=1945年4月28日~29日の時点では、来たる国際軍事裁判(ニュルンベルク裁判)をどういう形で行えばいいのか、その構想もまだ定まっていなかった、という時系列の問題でして、例えば…

・「平和に対する罪」→これは一言で申せば「領土的野心による侵略戦争を開始した罪」と申せましょうが、当時、侵略じたいを国際法違反として刑を執行したためしは歴史的に一度もなく、これを強く要求したのは、日本の真珠湾攻撃を機に参戦した米国でした。

・「人道に対する罪」→これも一言で申せば「(ユダヤ系ドイツ人を念頭に)自国民に対する平時からの残虐行為を裁くこと」と申せましょうが、戦争犯罪(=占領下の他国民に対する残虐行為など)を裁いたことは第一次大戦以来の経験があったものの、自国民の平時のケースを戦勝国側が裁いたことなど、人類の歴史上一度たりともありませんでした。
しかも米国は当時、国内に人種問題を(あえて申せば日系人の強制収容も)抱えたままで、またソ連も国内に政治的粛清や少数民族の問題を抱えていたため、両国は「人道に対する罪」の範囲を極力限定して、それが国際的な侵略戦争に結びついた場合だけ(=ナチスドイツ)としたほどです。
 
 
で、ようやく裁判の骨格となる「ニュルンベルク憲章」をフランス・ソ連・英国・米国の4カ国が合意したのは、ムッソリーニの死の翌月の5月から8月にかけてであって、それを強烈に後押ししたのは、やはりドイツ敗戦(5月8日)とナチスによるユダヤ人虐殺「ホロコースト」の驚くべき実態が世界に知れ渡ったこと、と言わざるをえないでしょう。

たとえ仮に時間をさかのぼってみても、第二次大戦の勃発後にドイツ占領下の国々でおきた残虐行為を各国の亡命政府が非難したとか、それに呼応して米国ルーズベルト大統領と英国チャーチル首相がドイツに対する非難声明を発した、といった動きはあったものの、要するに、

<< イタリアは、追及の対象としても、また時期的なタイミングとしても、国際軍事裁判で裁かれるような立場にはなりにくかった >>

と申し上げても構わないように思うのですが、いかがでしょう。

【 しかし… 】アメリカ国内での戦意高揚ポスター

 
 




では何故、ムッソリーニは上記三人の中で、いちばん悲惨な死に方を世界中の人々の目にさらすはめになり、ファシズムの断罪にとっては、これ以上ないような「材料」にされてしまったのでしょう。

(→ 例えば、例えば、もしもムッソリーニの逆さづりが起きなかったとしたら、その後の世界はどういう納まり方をしただろうか?と考えますと、その分の代償が、最後の「日本」に向けられた可能性があったかも、との想像は、決して荒唐無稽なものではないと感じます)
 
 
ですから、上記のごとき米国の戦意高揚ポスターから申しまして、このように三つのターゲットを挙げてしまった以上は、1944年秋から1945年春頃のイタリア戦線の状況というのは、言わば、ムッソリーニという最初の獲物(えもの)が、完全にドイツ軍の手中にあったため、

<< せっかくの「まな板」の上から逃げてしまいそうな情勢 >>

が出来つつあった、という風にも言えたのではないでしょうか。
 
 
で、もしもそんな心配が現実化したら、戦後に莫大な賠償金を取れるような時代ではなくなっていた中で、わざわざ日本に真珠湾攻撃を仕向けるような圧力をかけて参戦した米国政府(ルーズベルト大統領)は、とたんに米国民の支持を失いかねず、ドイツの降伏まで半年、日本の降伏までは一年近くあったなかで、戦争遂行の行方が分からなくなる危険性が垣間見えたと思うのです。

だからこそ、連合国軍の総合的な判断として、< 仇敵の殺害や処刑を、自らは手が下せないため、自分とは立場のちがう者と「結託」して、代わりにやらせる策謀 >をあえて取らざるをえなかったように、私なんぞには思えてならないのです。


 
※           ※           ※
 

では最後に、一言だけ付け加えますと、ファシズムは、故エリザベス女王が少女時代にナチス式の敬礼をした写真が残っていたり、英国王エドワード8世が一時はナチスの支持者であったりしたように、ある時期まで、ファシズムは<<共産主義への刺客>>として欧米で期待されたことも歴史的な事実ですから、逆を申せば、共産主義の側がファシズムへの憎悪や復讐にことさらに燃え上がったのも当然の行動かもしれません。

で、実はそれが、21世紀の今もなお、世界中で、ごうごうと音を立てて燃え続けているのではないのか?…… などと今の世を見るのは、可笑しいことでしょうか。
 

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