続・すぐ東隣りで――。二の丸のすぐ外側は旧御花畑山荘。そして最大のナゾ=城域の東半分が自然丘陵のまま?築城した指月伏見城の驚愕の構想

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一昨年秋、ついに現れた、注目の「石英斑岩」が6割を占めた石垣跡。
その場所はまさに、当サイト主張の指月伏見城の二の丸東南端で。
(→詳細は当ブログの中程で。ご覧の写真は『京都市内遺跡発掘調査報告 令和4年度』より)

( こちらは前回記事より )


さて、前回はご覧のごとき大胆極まりない図解を色々とお見せしましたが、こんな考え方を、私が長年にわたって抱き続け、最終的に強い確信にまで至ったのは、実を申しますと、京都の都市史から首都「伏見」の解明に取り組んでおられる山田邦和先生(同志社女子大)の、「第3期伏見城(豊臣期木幡山城)城下町推定復元図」の“ある部分”が、私の背中を強く押してくれた…と感じた結果でもあります。

同図が掲載された『豊臣秀吉と京都』(2001年刊)の山田先生の論考

ここで山田先生は、世に数多く伝わった伏見城の城下町絵図(→ 世間では、城下の大名屋敷の名がけっこうデタラメ、といった認識の絵図)を総点検して、その結果、中井家蔵『伏見御城絵図』や神戸市博物館蔵『伏見古城并古町図』などを「第一類型絵図」と分類して、これらの城下絵図は、記入された大名の名が「決定的な過誤を見いだすことはできない」うえに「史料的価値を評価することのできるいくつもの根拠がある」とされました。

その根拠の一つが「崖面などの地形の細部の状況」であり、「第一類型絵図のベースとなる地図は、綿密な現地調査によって作成された信頼性の高いものである」と評価したうえで、その第一類型絵図に並んでいる大名の名を、徳川再建後に主に活躍した大名と、豊臣秀吉の木幡山城時代も活躍した大名とにふるい分けて、それぞれの時代の「城下町推定復元図」を作成されたのでした。

そのうちの「第3期伏見城(豊臣期木幡山城)城下町推定復元図」
(上記書の222~223頁を見開いてやや拡大し、赤い輪を加筆させていただいた状態)

ここには秀吉の木幡山城時代の大名屋敷が並んでいて、赤い輪の場所に徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、伊達政宗といった大大名の名が、ちゃんと挙がっている一方で、当サイトが注目している場所の周辺は、なんと、なんと……

空白!…… これは、ここが私の考える指月城時代の「旧本丸」と「旧二の丸(西丸)」に当たるだけに、ただ事ではないぞ、と直感したわけです。

上記のごとく、同図には他にも空白部分はあるため、この件についての山田先生の説明は特にありませんでしたが、私は思わず、これはきっと、当時、大名の側から“辞退者”が続出して?、ここに入る大名がなかなか決まらなかった!……といった異常事態を示した現象ではなかったのか、と。

本来ならば、こんな場所は、亡き関白・豊臣秀次以外には納まるべき人物がいなかったのでしょうが、最終的にはこんな大事な場所が空き地のままでは格好がつかないため、例えば豊臣一門に連なる者が形だけの屋敷を建てたとは思うものの、それだけ、大地震以前の「旧本丸」をめぐる異常事態や政権のあわてぶりが、この「空白」によって、かえって浮き彫りになっているのではないでしょうか。

山田先生のこうした分析が、私が長年にわたって抱き続けた<<指月伏見城の本当の場所>>に対する考えが、強い確信にまで至ったGOサインの一つであったことを、ここに白状しておきたいと思います。
 

【 補記 / 桃山町下野の大規模な「削平」の疑いについて 】

さて、ご覧の図で「旧本丸」に当たる場所(※ちょうど中央の、西側に「崖」表示のある所)は、前回ブログ記事のとおり「崖」に沿って新旧二つの石垣(05SLと01SL)が見つかったわけですが、それらをまとめた下記の図のうち、下三分の一の「南側調査地②」というのは、実は2006年に伏見城研究会が発掘を行った部分でありまして、ご覧のように段差(崖)から東側の広い範囲までトレンチを掘って調査しております。

こうなりますと、「旧本丸」の何らかの遺構や遺物があってしかるべき!…とお感じかもしれませんが、この時の調査報告書(『器瓦録想 其の二 伏見城』)によれば、桃山町下野という現在の地名のもとになった、江戸時代の松平下野守忠吉の屋敷にまつわる遺構や遺物でさえも、それと断定できる明確なものは、何も出土しなかった!―――という現実があります。
 
(※この件は、一昨年の発掘調査の『京都市内遺跡発掘調査報告 令和4年度』の87頁でも触れられていて、屋敷の敷地内部においては、例の新旧二つの石垣(05SLと01SL)と、それに取りつく石段が新たに見つかった以外は「これまで多数の調査が行われているが」地表下の-65cmでも「造成土や地山を確認するのみである」という“嘆き節”が書かれております)
 
となれば、考えられるのは、この一帯が江戸時代の伏見城廃城から現代までのどこかの時点で、大規模に「削平」された整地作業の疑いでしょうし、そこであえて申せば、当サイト主張の指月伏見城本丸の上段や天守台などは、それ(削平後の現状)よりも一段と高い位置にあったのかもしれず、この件は、是非とも申し添えておきたいと思うのです。
 
(※ちなみに申しますと、前出の調査報告書(『器瓦録想 其の二 伏見城』)の方は、城郭マニアの方はお気づきかもしれませんが、例の「指月伏見城は存在しなかった」騒動の火付け役になった本です…)

 
 

では、前回記事からの続きに戻りまして―――

【 二の丸 】 南北に細長い二の丸(西丸)は御殿が建ち並び、中央から南が対面所や秀吉の御座間など。北側が「西の丸様」淀殿と秀頼の御殿か



【 写真3 】


【 写真4 】


【 発掘写真A 】

さて、前回からの記事での各曲輪の名称は、便宜上、加藤次郎先生の復元図での名称を使ってまいりましたが、ご存知のように「二の丸」は伝来の城絵図では「西丸」と墨書され、「治部少丸」も「治部少輔曲輪」などと書かれております。

したがって二の丸の実際は「西の丸」であり、「三の丸」も側室の三の丸殿(織田信長の娘)にちなんだ名称であって、結局、伏見城には通常の二の丸や三の丸は無くて、本丸の周囲を側室たちの曲輪が取り囲み、その外側に石田三成や増田長盛ら側近(いわゆる五奉行)の上屋敷が配置されたのだ…との理解が不可欠なのでしょう。
 
 
そんな中で、二の丸=西丸は(※本丸が前回記事のような性格の曲輪=天守と櫓のみと思われるだけに)まず間違いなく、曲輪いっぱいに各種の御殿が建ち並んだはずであり、第一には対面所など武家儀礼の場や秀吉自身の御座間などが必要でしょうが、それと同時に、当時「西の丸様」と呼ばれた淀殿と秀頼の屋敷もここにあったはず、と考えて行かざるをえません。

しかも【写真4】でご想像のとおり、南北に細長い二の丸は、城下側の西面にズラリと「石英斑岩」の?石垣を見せつけた造りとも思われ、場合によっては、大坂城の千畳敷御殿のような「懸造り」のダイナミックな建物が、白い石垣の上にせり出していた可能性も……あったように感じるのですが。
 
 
では、そんな二の丸(西丸)を実態をうかがう上で、たいへん参考になる新たな発掘調査が、一昨年から昨年にかけて、二の丸の東南端や、二の丸のすぐ西側の地点でも行われていて、当時の意外な姿が見えて来たようなのです。……

まずブログ冒頭の写真でもご覧いただいた「二の丸の東南端」の方ですが、ここでは調査区の4区【発掘写真A】で、注目の「石英斑岩」が石材の6割を占める(→ 報告書によれば「石英斑岩が25石(60%)、花崗斑岩が11石(26%)、チャートが1石(2%)、泥質砂岩が1石(2%)、頁岩~粘板岩が4石(10%)」という、明らかに見栄えを意識した造りの石垣が見つかっております。

これが例えば、泰長老の丘の石垣では、石材が「砂岩」「チャート」「頁岩~粘板岩」が三分の一ずつであったことと比べますと、当時は石垣の仕上がりや印象においてかなりの違いがあったはずで、ここがまさに、本丸とは二の丸の帯曲輪をへだてただけの、指月伏見城の中枢の南面の石垣であったことを(白い「山科石」?が我々に)強く、強く訴えかけているのではないでしょうか。

そして……
 
 
 
< 続・すぐ東隣りで甦(よみがえ)り。
  二の丸(西丸)のすぐ外側は庭=旧御花畑山荘?だった >

 
 

二の丸のすぐ西側での調査結果をまとめた「郭復元図」(『伏見城跡発掘調査報告書』PDFより)

 
これが当ブログの「指月伏見城」で言えば、どの辺りか?と申せば…
 


!!…… この発掘調査は私の長年の確信に対して、新しい示唆や補強を与えてくれたものでありまして、ご覧のように調査範囲の右下=東南隅の「L字状の塀」「塀を構成する柱穴」こそ、当ブログが申し上げている二の丸と、現在の下板橋通とがぶつかる地点(=北大手門か?)に突き出たスペースの隅角部分、と考えられるようなのです。

そこで、もう一度、郭復元図の方をご覧いただきたいのですが…

→ → これは正直申しまして、右下の塀や左下の掘立柱建物を除けば、
その他の大部分は、<<斜面を利用した回遊式庭園の一部>>
私なんぞには見えてならないのですが、どうなのでしょう。



( 調査地の北端を南西側から見上げたところ / 背景の住宅は当ブログの写真4と同じ )

といった状況であり、しかも調査報告書では、ここから出た出土遺物について―――

(上記報告書PDFより)

遺物の種類は土器・陶磁器類、瓦、金属製品、石製品がある。 時期は伏見城期、江戸時代後半(廃城後)が大半を占め、伏見城以前の遺物は、古墳時代の土師器・須恵器、中世の土師器が造成土や近世の遺構からわずかに出土したのみである。 伏見城期の遺物については、当該期の遺構から出土したものは少なく、大半が廃城後の遺構や整地土から江戸時代後半の遺物とともに出土している。

というのですから、ここは遺物が実際に使われた建物の敷地ではなく、自然地形に近いまま、庭木が生い茂るような<<斜面を利用した回遊式庭園の一部>>と見るのは、極めて妥当なところではないでしょうか。

そうなりますと意外なことに、指月伏見城は二の丸のすぐ北西側が「広大な庭」だった、という驚きの実態が見えて来たようで、ここでもまた、当記事タイトルの「すぐ東隣りで甦(よみがえ)り」が実行されたのかもしれません。!……

しかも「御花畑山荘」とともに、当ブログで過去に指摘しております、豊臣大坂城~肥前名護屋城~伏見城に一貫して設けられた「シャチホコ池」についても(※小型の指月城版から大型の木幡山城版へと)クルッと東西に反転するような形で、同様の作業が行われたのが、ご愛嬌のようです。

――― こうなりますと、二の丸(西丸)の北部というのは、当時の様子を想像しますと、北面石垣の上から眼下に旧御花畑山荘の斜面の庭を眺めつつ、その向こうに、京の都を見晴らす“絶景ポイント”になっていたようでありまして、そのため、ここが淀殿と秀頼の御殿ではなかったか?…との私の想像力の源泉になっています。
 

ただ、ここで留意すべきは「桓武天皇陵」のことでありまして、上記の発掘調査の延長線上で考えれば、斜面の庭は現在の桓武天皇陵の地点をも取り囲むように広がっていた、と考えるのが、ごく自然な結論でしょう。

しかし実は、この桓武天皇の柏原陵については、当記事の冒頭でもご登場いただいた(※その分析から私が全幅の信頼を寄せている)山田邦和先生が、本来の研究分野を踏まえて、この上なく大胆な見解を述べておられまして、それが真実とすれば、われわれ城郭ファンにとっても、思わぬ意識改革を迫られるのかもしれません。
 
 
 
< 最大のナゾ=城域の東半分が自然丘陵のまま?築城した、
  指月伏見城の驚愕の構想 >

 
 

桓武天皇柏原陵とは、清少納言が『枕草子』に「うくひすのみささぎ、かしはぎのみささぎ、あめのみささぎ」と書いたほどに、中世貴族社会では三大天皇陵の一つという風にも言われたそうですが、南北朝から室町時代にかけて、朝廷の陵墓祭祀が衰退するとともに所在地が忘れられて行き、その後は谷口古墳や仏国寺石槨、幕末の山陵学者・谷森善臣による現在の桓武天皇柏原陵など、いくつかの候補地が挙げられて修築されて来た、とのことです。

しかし山田先生が『別冊歴史読本 歴史検証 天皇陵』2001年刊などに寄せた論考では、そもそも『延喜式』諸陵寮に書かれた桓武天皇柏原陵の規模は、はるかに巨大なものであり、そのとおりに考えれば(江戸時代の山陵学者・蒲生君平や松下見林も主張したように)木幡山伏見城が築かれた桃山丘陵全体が(!!!)それに該当しそうで、そうなると、木幡山城では本丸と二の丸(西丸)が異様に広くなった原因が注目され、またそれ以前に、朝鮮出兵と前後して築かれた「伏見城」の意味合いも、大きく変わって来そうなのです。

で、ラストの図解をご覧になれば一目瞭然ですが、これはたとえ桜井成廣先生の泰長老(たいちょうろう)の指月城であっても、受けるインパクトの大きさは全く同じ………という点が見逃せません。

( 上記書所収 / 山田邦和「桓武天皇陵」より )

『延喜式(えんぎしき)』諸陵寮(しょりょうりょう)は桓武天皇柏原陵を「平安宮御宇 桓武天皇。在山城国紀伊郡。兆域 東八町。西三町。南五町。北六町。如丑寅角二峯一谷。守戸五烟」としている。 つまり、桓武天皇陵の兆域は一辺一一町(約一・二キロメートル)の範囲に及ぶ巨大なものであり、陵の本体はその中央やや西寄りの場所に位置していたことが知られるわけである。
(中略)
ここで注目されるのは、前述したように、文永一一年(一二七一)に柏原山陵が盗掘された際、事後処理におもむいた朝廷の役人が「件山陵登十許丈、壇廻八十余丈」と報告していることである。 桓武天皇陵の規模についてのこの情報はかなり信憑性が高いと見てよい。 つまり、この報告からは、桓武天皇陵は周囲から一〇丈(約三〇メートル)以上高い丘陵上にあり、その周囲は八〇丈(約二四〇メートル)以上もあったことが知られるわけである。
(中略)
桓武天皇陵の本体の候補地としては、現在の明治天皇陵の西北、伏見城二ノ丸跡にあたる丘陵の頂部(標高一〇〇メートル)をあげることができると考える。
 
 
えっ、木幡山の二ノ丸ですか? と思わず声が出たものの、これは伏見城にとっても「目からウロコ」であって、

最大のナゾ=城域の東半分が自然丘陵のまま?築城した、
指月伏見城の驚愕の構想

このような、指月伏見城の本丸以下の絶妙の配置や、全体の驚くべき構想。 思わず、伏見城とは、どういう城だったのか、現代人は「ここで初めて」見たようではないか、とも。……

(※次回に続く)

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