実はこの3年間ほど、いけない、いけない、と思いながらも、天守画ギャラリーページの更新を怠(おこた)っておりまして、ブログ記事の方は前回・前々回と【超余談】が続いたこともありますので、この機会をとらえて、天守画ギャラリーページを更新してみたいと思うのです。
で、それに合わせまして、昨年6月9日のブログ記事<創建時の丹波亀山城天守は「懸出し」を片側に寄せた「黒い」板張り層塔型だったか?>でご覧いただいた(下記の色付けの)古写真をもとに、改めて、これを天守画イラストにしておきたいと思い立ちました。
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(※同記事より。創建時の丹波亀山城天守は、窓(突き上げ戸)の不規則な配置から推測すれば、かつては天守直下を銃撃するための「懸出し」を三重目の四方の壁の片側に寄せて配置しつつ、なおかつ壁面は「黒い板張り」だったのではないのか?…と想像してみたシミュレーション画像)
では、これをもとにして天守画イラストを描いていく上では、いくつかの<<復元上の重要な検討事項>>がございまして、今回はそれらを順次、ご説明してまいりたいと思います。
※ ※ ※
<<復元上の重要な検討事項 その1 >>
→ 復元の史料として「馬渕八十兵衛蔵書」を採用すると、天守の初重は萩城天守などと同じ「全周が石落とし」になる可能性が濃厚に!!…
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(※ご覧の図は、城戸久先生の論文=建築学会論文集「丹波亀山城天守考」1944年に掲載された、丹波亀山城天守の各重の規模を示した「各重関係図」です) (※ちなみに、丹波亀山城天守の基本情報としては、古写真の天守は慶長15年1610年頃の完成で、規模は約20m四方、高さ28mで+石垣高6m、などと言われます)
ではまず初めに、丹波亀山城天守の復元のための史料として、上記の古写真とともに、かつて城戸久先生が注目された『高山公実録』採録の「馬渕八十兵衛蔵書」の各重の平面規模を採用しますと、その結果はなんと、初重が二重目よりも「約半間ずつ」四方に張り出した形状!…との解釈が可能になるのです。
しかも城戸久先生は、論文中で「上記古記の寸尺は7尺1問であることも考へられる」と、この天守が「七尺間」で建てられた可能性にも言及されました。
――― そこで上記の「各重関係図」をより分かりやすく見られるように、七尺間の1間四方のオレンジ色+黄色のグリッドと、約半間四方(3尺7寸5分幅)のグリーンの濃淡のグリッドに分けて、略図の下に重ねてみれば…
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という風になりまして、グリーンの初重は二重目よりも「約半間ずつ」四方に張り出した形が一目瞭然で、意味不明の不規則な形状とも見えた各重の逓減(ていげん)には、実は、明確な動機が隠れていたのかもしれません。
と申しますのも、これは私なんぞには、有名な古写真の萩城天守や、昨年に当ブログで申し上げた吉川広家の創建時の米子城天守(四重櫓)を思わず連想してしまうものでして…
【 ご参考 】萩城天守の古写真。一階が石垣よりも半間分、
外に張り出して「石落し」になっていたらしい

昨年の当ブログ記事<吉川氏創建の米子城天守(四重櫓)は、
毛利氏の広島城にならって「大天守が天守台だけだった」から…>より
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といったように、毛利氏ゆかりの西国の二天守(=完成時期は慶長元年頃から13年頃)と同様の工夫があったのかもしれず、そこでこの際、古写真で各階の高さを参照しつつ、立体的な略画に描き起こしてみますと…
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という風になるかと思うのです。
(※ちなみに、この天守の復元においては、現在、各誌に引用されている三浦正幸先生の研究室の立面図には、馬渕八十兵衛蔵書の情報は反映されていないようでして、より規則的に逓減した層塔型天守として復元されています)
※ ※ ※
<<復元上の重要な検討事項 その2 >>
→ そこで俄然、注目される天守台石垣の方はどうなっていたか?と申せば、古写真にはまるで写っていないものの、伝来の古絵図に大きなヒントがあり、その天守台部分をよくよく見れば、中央に「穴倉」??らしきものが…
さて、上記<<その1>>で丹波亀山城天守は、天守周辺への銃撃や直下への「撃ち下ろし」に強くこだわっていた可能性が見えたわけですが、実際にそうであったのなら、天守台石垣の方にも、それに呼応した工夫が不可欠でしょう。
そこで例えば、亀岡市文化資料館蔵「丹波国桑田郡亀山城之図」を参照いたしますと、図中の天守(台)の横には「天守台 十一間四方」と墨書されていて、平面規模が良くわかるのですが、この絵図ではなんと、天守台の中央に「穴倉」??があったようにも描かれていて、大注目なのです。
同図の本丸や天守台部分を拡大して、上下(南北)を反転してみたもの
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ご覧の絵図が描かれたのは、亀岡市文化資料館のサイトの説明文によれば…
この絵図は、蓬左文庫(愛知県名古屋市)所蔵の「丹波亀山城図」と、ほぼ同じ構図である。 蓬左文庫の絵図は享保元年1716年に描かれたことが記されており、この絵図も、同じ頃の亀山城の様子を表していると思われる。
とありまして、その享保元年頃の丹波亀山城と言えば、青山忠重・俊春・忠朝らの青山氏が城主の時代であって、天守台上には五重天守がしっかりと健在のはずですから、穴倉をわざわざ“透視して”見せた意図は何だったのでしょう。
しかしまぁ、いずれにしましても、当絵図には「天守台 十一間四方」とあるのですから、素直に飲み込んで平面規模はそうだったとしても、天守初重の石落しへの対応はどうなっていたか?と申せば、ここでちょっと、解釈に悩むことになります。 何故なら…
城戸先生の解釈方法 → 石垣は1間が6尺であったと想定することで合致。
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一方、天守初重には全周に石落しが巡っていた、と解釈する場合には…
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という両案が浮上しまして、下の方の解釈は、結局のところ1間が七尺でも、六尺でも、また京間であっても、全体が統一されていれば問題は無いわけですが、当ブログの方向性としては、城戸先生の「七尺間」言及はありがたく拝領しつつも、<初重石落し対応版>の方でお話を進めて行きたいと思うのです。
【 大胆仮説 】丹波亀山城天守の天守台は「穴倉のある二段式石垣」であり、
上段の天端は「八間半四方」、下段は「十一間四方」となっていて、
下段に侵入した敵兵は、初重周囲の石落しから散々に銃撃されたはず。
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※ ※ ※
<<復元上の重要な検討事項 その3 >>
→ 以上のような「丹波亀山城天守は天守直下への撃ち下ろしに強くこだわっていた」との観点からは、記事冒頭の「懸出しを三重目の四方の壁の片側に寄せて配置して」も実に重要でしょうから、ためしに上記略画の上に古写真の「壁面と窓」をトレースしてみると…
さてさて、ようやく今回の冒頭で申し上げた「懸出し」の件に戻って、さらにお話を続けますと、古写真のごとくこの天守の三重目と四重目の「窓」の位置は、妙に片側だけに寄せられていて、かなり変則的な位置に設けられていたことが明白です。
それは何故か?と考えた時、私なんぞの頭に浮かぶのは例えば『戦国合戦絵屏風集成』で紹介された個人蔵の「戦国合戦図屏風」でありまして、ここに描かれたような「懸出し」が撤去された後の状態こそ、古写真の、窓が妙に片側だけに寄せられた様子なのではないでしょうか。
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では、あくまでも「古写真」に残された「窓の位置」を再確認する意味で、ここまでご覧いただいた略画の上に、ぴったりと壁面をトレースしてお目にかけますと…
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という風に、結果はそうとうに「変則的な」配置であって、これはもう一枚の有名な古写真(二の丸の二の門ごしに撮影されたもの)でも同様の結果ですから、取りも直さず、かつてはこうなっていた事の傍証(ぼうしょう)なのではないのか、と。
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【 今回の結論として… 】
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(次回に続く)
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※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。
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