年頭別談。美濃金山城→出土遺構(内向き石垣)を「天水井戸の跡」と仮定した場合の大胆復元案

【 冒頭余談 】
日本人に多い漢字二文字の苗字は、
1300年の伝統に裏付けられたものです。

 
(※写真は前々回の記事より)

日本

漢字二文字のファミリーネーム(鈴木、柴田、大森、等々)

どこの誰であるかを示すための名づけ方

(※最も精緻(せいち)な「戸籍制度」の完成に寄与)
 
※ ※ ※
 
中国・朝鮮

漢字一文字のファミリーネーム(劉、李、趙、等々)

血族のつながりを示すための名づけ方

 
では、日本は何故こうなったか…と申せば、約1300年前の奈良時代・和銅6年(西暦713年)に、日本全国の地名を縁起の良い漢字二文字にせよ、という「好字二字化令」が発令されて、その後、日本人は自らの苗字(ファミリーネーム)を地名から取ることが多かったために、苗字は漢字二文字のものが多くなった、という歴史的な経緯があります。
 
(※結果的に、日本人の苗字は、『日本苗字大辞典』によれば30万種類!にも及ぶとされていて、これは日本ならではの国柄を示すものの一つです)
 
つまり日本人は、それだけ詳細に、我が家の者(家族)はどこの誰であるかを苗字(ファミリーネーム)に込めてきた、という伝統をもっているわけで、いま「選択的夫婦別姓」を政治的な取り引きのために立法化しようという企ては、そんな1300年間の日本の歩みに、泥(どろ)を塗る行為!……であろうと、言わざるをえません。
 
入り婿(むこ)であれ、嫁入りであれ、そこに入って来た者は、そこの苗字を名乗るべきだ、という理屈を、日本人は社会の平穏のための知恵として来ました。

※           ※           ※

【 緊急追記 】

なぜ中国人高齢者に10年ビザなのか → 売国奴・岩屋毅外相の最大の動機は、地元・別府市の「医療ツーリズム」への便宜供与だった!?
岩屋に政治献金した「毅と医療を考える会」の届出住所=「別府市野口元町1-3 富士吉ビル2F」とは、ご覧の「岩屋たけし事務所」と同じビルの同じフロア ! ! ! → 結局、同じ部屋?であり……… こんなにセコくて、あからさまな便宜供与のために、外務官僚の制止にも激怒しつつ、一人で勝手に「売国行為」をしたのか…と呆れるしかない男である。


 
※           ※           ※
 
※           ※           ※
 
※           ※           ※

< 年頭別談。美濃金山城→出土遺構(内向き石垣)を
 「天水井戸の跡」と仮定した場合の大胆復元案 >

 
 
 
さて、昨年中は春からずっと「伏見城」の話題が続きまして、内容的にはまだまだ終わりそうにない状態ですが、このあたりで「年頭別談」として、別の城や天守についても取り上げてみたいと思いました。

私自身はこのところ、youtubeの「歴史探訪レキトビラ」が面白くて、片っ端から観ているような感じでして、おなじみの三浦正幸先生はこの中で、城郭番組の解説者キャラとして新境地を見せておられるようで、嬉しいかぎりです。

で、すでに一年ほど前に公開された回ではありますが、「天守」を話題の中心とする当ブログとしては、上記スクショの「美濃金山城 天守はあの国宝犬山城の天守だった」を参考にしつつ、当ブログなりの突出した復元案をお見せしてみたい、と思い立ちました。
 
そこでまず、美濃金山城と言えば、有名な「金山越(かなやまごし)」の伝承(→ いずれも江戸時代の二次史料だそうですが、関ヶ原合戦後に犬山城主になった小笠原吉次が、破却した美濃金山城の建物を犬山に移したという、双方の地元に伝わる伝承)を踏まえて考えざるをえません。

これまでの城郭研究でも、古くは戦前の昭和10年1935年に、安土城天主の復元図などでおなじみの土屋純一先生・城戸久先生のお二方が、実測調査を行ったうえで、主郭の「東端」に犬山城天守(の二重目まで)が建っていて移築されたのだと発表し、その後、今日に至るまで、何人もの郷土史家の方々などが同様の主張をされ、またそれに対する反論もありました。

【 ご参考 】 金山城跡山上部全体測量図
滋賀県立大学人間文化学部/論文「美濃金山城跡の再検討」からの抜粋 )


赤い表示を加えた範囲が、土屋・城戸説で示されていた天守の位置

ところが、上記の動画の中で三浦先生は、
・主郭(本丸)の大手門のすぐ脇に天守があった事例は、日本中のどの城にも無い。
・主郭唯一の虎口主郭御殿と進んだ先の主郭西端こそ、天守にふさわしい。

との理由から、これまで言われてきた「主郭東端」ではなくて「西端の角地」こそ天守にふさわしく、これが発掘調査等で検証されて欲しい、と話しています。

現地の案内板でも、犬山城にそっくりの天守が「主郭東端」にあるものの…


三浦先生は赤い楕円の位置=主郭西端の角地を、天守のあるべき位置と考える

私なんぞも、これには是非とも「賛成」をさせて頂きたいと思っておりまして、それは第一に、当サイトの持論「織豊政権下の天守は、二の丸以下や城下から見た時に、本丸・詰ノ丸の<左手前の隅角>になる位置に建てるのが作法だった」にかなう場所ですし、
さらに平成29年~令和元年の発掘調査で判明した「主郭東端の内向き石垣」の実態( そこには礎石や柱穴が無かった!)を踏まえますと、もはや主郭東端に天守の存在を考えることは不可能だと思えるからです。

ただ、三浦先生は、主郭西端の角地にかつては犬山城天守が「ほぼそのまま建っていた」とお考えのようで、それは上記の発掘調査から申せば、私なんぞは「必ずしも、そうではなかったのかも…」と思えてならず、その辺を是非とも、大胆復元案としてご覧いただきたいわけです。
 
 
 
< それがある程度の規模であれば、
  礎石や柱穴がまったく無い天守「穴倉」など、ありえないこと。>

 
 

【 穴倉とは 】
先ごろ「やはり天守はあった」との新史料が見つかった、福岡城天守台の穴倉。

→ 礎石上の土台の上に立っていた「柱」が、重い天守の荷重を支える主体だった…

いまさら城郭ファンの皆様に申し上げるまでもなく、安土城をはじめ、天守台穴倉の中に礎石が規則正しく並んでいる様子は、各地の城で見られるものですが、美濃金山城もそうした姿を想定して発掘調査が始まったものの、平成29年~令和元年の調査を担当した、おなじみの中井均先生が、『美濃金山城跡主郭発掘調査報告書』の「第4章」「第2節 総括」でこんな風に書いておられて、事の経緯や思わぬ結果の事情がよく分かります。

( 同報告書の「主郭調査区位置図」)

(同報告書より)

調査の大きな目的のひとつにこの主郭東端部に天守が存在した可能性が高く、その痕跡を明らかにすることにあった。古くより現在の犬山城天守は美濃金山城の天守を移築したものだと伝えられており、その伝承に何らかの答えを出すことも大きな目的のひとつであった。調査にとりかかってすぐに東端部の石垣内面が掘り下がることが判明し、石垣の内面から内側に面を持つ石塁が検出された。つまり主郭北端が半地下構造となる天守の存在した可能性が俄然高くなった。
このエリアは現代になって烏龍神社が建立され、地下遺構の残存状況が懸念されていたが、遺構面は破壊を受けることなく残存していることが判明した。ところが遺構面を検出したにも関わらず、礎石、掘立柱建物の痕跡は一切認められなかった。本報告では「伝天守」として復元も試みたが、決定的要素には欠けると言わざるを得ない。

( 同報告書の「Ⅰ区 東側整地面検出状況(西より)」→ ここに礎石や柱穴が無かった )

という風に、まったく困ったことに、東西幅が約12mもの広さがある「半地下構造の穴倉?」の中に、柱を建てた痕跡がまるで無かったとわかり、金山越の伝承そのものに対する人々の受け止め方までグラついたわけですが、もう少し厳密に事の次第を見極めるため、分かりやすい図解をご覧いただきますと…

【 大前提 】 犬山城天守の一階平面図。数多くの柱が天守を支えていた…

天守の移築というのは、極めて特殊な事例(大和郡山城→二条城→淀城への移築)の他は、部材を利用した「改築」になるのが常のこと、と重々わかったうえで…
試しに、上記の平面図を赤く表示しつつ、美濃金山城の問題の箇所(内向き石垣)にダブらせてみますと、両者はどうにもこうにも合致しない!ことが(今更ながら)分かりまして、季節外れの“冷や汗”が出てまいります。
(※下の3図では、うすい青色で示した部分が「内向き石垣」の範囲)



 

 

!――― という感じで、実際の測量図どうしをダブらせると散々な結果になりまして、そうとうな「改変・改築」が無いことには、美濃金山城の主郭東端→犬山城への天守の移築というのは、そもそも不可能だったのだと分かります。(→ 同じ釘穴に釘を打ち直せば…といった話も無理、ということに。)

仮に、この場所にどうしても(礎石を置かずに)天守を建てるとしたら、内向き石垣を完全に栗石や土で埋めて、押し固めて、その上に改めて、礎石や土台を置いて建物を組み上げるしか方法は無かったはず、と思うのですが、そのような痕跡は一切、報告されておりません。……
 
 
 
< 犬山城よりも、ずっと巨大だった ! !?美濃金山城天守を想像する。
  → 内向き石垣を「天水井戸の跡」と仮定した場合の大胆復元案。
  それは日本で唯一無二の、天水「自給」天守だったのかも…… >

 
 
 
さて、こうした事態を踏まえて、城郭ファンの一人として即座に連想するのは、備中松山城、伊予松山城、岐阜城など、いくつかの(本当は数多くの?)山城・平山城に実在した「天水井戸(溜め井)」に他なりません。

現に、美濃金山城においても、東腰曲輪の西側に深さ1.4m・幅1.5m・長さ2.5mの「天水井戸」が、戦前までは完全な形で残っていたそうですから、これがより重要な「主郭」内にも設けられていた、と考えるのは、なんら不思議なことではないでしょう。

東腰曲輪の「天水井戸」現状(ウィキペディアより)

そこで今回、是非とも申し上げてみたいのが―――

<< 基本的な考え方 >>


――― という風に、内向き石垣の実態をむしろ積極的にとらえ直すことで、美濃金山城には、天水井戸を建物内に取り込んだ(日本で唯一無二の)天水「自給」天守!…を考えられるような気がしておりまして、その姿はさながら、飛騨高山城の本丸建物群(天守御殿)と、福知山城天守とを、足して二で割ったような建物ではなかったのか、と。

具体的には、発掘調査で出土した礎石から考えますと、主郭には段差が1~2mの上段と下段があったとも言えそうですから、注目の城主・森忠政が(豊臣政権下で)それまであった上段建物に加えて、新たに下段建物を増築するような形で、「天守」望楼をもつ巨大な主郭御殿を出現させたのだろう、と想像しています。

したがって「金山越」については、その巨大な主郭御殿を(伝承どおりに関ヶ原合戦後に)解体して運び出したのでしょうし、ひょっとすると「天守」望楼だけが「そのまま移築」になったのかもしれず、それは犬山城天守の部材に残る問題の枘穴(ほぞあな)=2間×2間半の「何か」を示した痕跡こそ、犬山の方の当初の望楼だったのかも……という風にも考えております。

(※追記。→ 現状の犬山城天守は、他の望楼型天守に比べて、望楼部分が「やや過大(頭でっかち)」に感じるのは、私だけのことでしょうか?…… )

で、森忠政が増築した下段建物の方には、ここにこそ本物の「穴倉」=鎌刃城にも似た土造りの穴倉が設けられていて、発掘調査では、その穴倉の底までは掘り下げておらず、周囲の土塁上の礎石だけを確認したのではなかったのか……などと、虫のいい想像をしているわけです。

<< 規模の比較 / 左右の並びは同縮尺。福知山城以外は同方位 >>
美濃金山城               犬山城            福知山城


美濃金山城                    飛騨高山城    

――― 以上のような美濃金山城天守の独自仮説は、あくまでも内向き石垣を「天水井戸」と仮定した場合の、私の想像に過ぎないものですが、こうした比較を添えてみますと、これらは同じ織豊大名の天守や主郭御殿として、非常に似た発想が感じられる結果にもなりまして、いかがお感じでしょうか。
 

※当サイトはリンクフリーです。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。