【冒頭余談 / 引き続き9月8日の追記から】
――― と、まあ、日本のリーダーは一気に若返りが起きそうですが、出馬会見での安保・経済政策の打ち出し方から、「事実上の 第三次 安倍政権」 と世界が見なすだろう 高市早苗総理の誕生(日本初の女性首相)はあるのか? に私の興味が移っていることを心の内で押さえられません……
それにしても 今回の自民党総裁選は、まったく思いがけず、与野党の政権選択に匹敵するほどの「政治路線の選択」になりました。
あの 河野太郎さんは、脱原発論者で 女系天皇容認派で 移民推進論者だそうで、「壊(こわ)し屋」と呼ばれていて、どこが「保守」なのか… という印象ですが、この日本から(イージス・アショアやハンコのように)さっさと 無くしてしまいたい 本当のターゲット は 何 だったのでしょう。 …??…
しかも、イージス・アショアを葬(ほうむ)った「当人」が、ついに こんな発言も。
共同通信 <河野氏、敵基地攻撃で高市氏批判 「昭和の概念、短絡的な議論」>
! ! … まさか この人、隠れた正体は、中国共産党が泣いて喜ぶ「非武装中立論者」ではないですよね。
【 決 定 打 … 】
→ → 河野太郎さんの不可解さの答えは「日本端子」にすべてがある、ということが、その後の情報で見えました。 中国にずっぽりとハマッた(!)太陽光発電などの部品(!)を生産する企業で、弟が社長、父親が筆頭株主、本人も株主で、政治献金を受けていて、いまの米中対立で大きな不利益(アメリカからの制裁)をこうむる可能性もあるファミリー企業だというのですから…。
まるで知らなかったことに身震いがしますし、こんな人物が、日本の総理大臣になったら、本当に、本当に… まずいと思います。――――
【 最 終 追 記 / 新総裁が決定】
… 最大の悪夢だけは回避できて、安堵しました。高市さんには次回に期待しましょう。
※ ※ ※
< 窓と破風(無破風)――ゆれ動いた実用性と「発信力」との兼ね合い>
とても好きになれないものの、建築の実用性と「発信力」とのせめぎ合い、
という観点では、日本史上でもエポックメイキングな構想だったのかも。
思えば 我が国の「天守」も「見せる城」の最重要アイテムの一つだったのでしょうから、こうした問題意識と無縁ではなさそうですし、それはきっと「窓」と「破風」のあり方に集約されたのだろう、と思えてなりません。
そんな点を外国の事情と引き比べてみますと、ちょっと面白い発見がありまして、そこで早速、「窓」の話題から始めますが、前々回ブログの <一階から建ち上がった柱が 最上階まで貫いていた> という古建築のうち、別の意味でも興味深い事例が、昔のチベットにあったそうでして…
中国 甘粛省の甘南チベット族自治州の合作市において、
「九階建て」で再建してしまった米拉日巴(ミラレパ)仏閣 / 合作寺九層殿
合作市でも「文化大革命」では多くの仏閣が破壊された(当時の合作市内)
で、どうして上記の再建建物が「興味深い」かと申せば…
(大岩昭之『チベット寺院・建物巡礼』2005年刊より)
… チベット語の辞書を見ると、先程のスムト(三階建)の他にニト「二階建」はあるが、その他にはグト「九階建」の語彙(ごい)しか出てこない。
もちろんチベットの建物にも四階建も五階建もある。しかしグト「九階建」が出ているのはなぜだろうか。 他のところでも述べたが、古い文献には九層の城砦はよく記述されている。
現在は立て替えられて変わってしまったが、甘粛省合作に合作寺九層殿 [図30] という建物があった。 窓の数を数えると九層なのだが、実際の床は六層である。 九という数字は縁起のよい数字なので、グトももちろん、実際に九階建もあっただろうが、そのように見せていたのもあったのだろう。
現地には歴史的建造物風の額まであるものの、元来は九階建てではなかった…
!――― と、こんな新旧の建物があるそうで、しかし案の定… 共産党独裁下の中国人は「文化大革命」でこの旧建物を破壊した後に、「九層」仏閣という “通称” につられて、文字通りの「九階建て」で再建してしまった(→ または、それでいいじゃないか、とチベット文化を無視して開き直った?)ということらしいのです。
つまり、元来の九層殿の「窓」というのは、建物の階とは関係なく壁面に並べられたもので、とにかく「九」という縁起のよい数字で外観を飾ることが、最優先になっていたのでしょう。
(※そして現状は実際の九階建てにしたため、窓の数はさらに増えて、もはや「九」で外観を飾る意図は中途半端に失われています)
と、こんな事例に接しますと、日本の城郭ファンとしては、思わず、現存の姫路城天守にも見られる、望楼型天守にありがちな「外観の重数と内部の階数が一致しない場合が多かった」という独特の建て方と、そうして外観のために実用性をやや犠牲にした「窓」の配置を連想してしまいます。
外見はごく普通に窓が配置されているものの…
(これはもう釈迦に説法でしょうが)下記の断面図でも一目瞭然で、
中層階だけ床からの「窓」の位置が 異様に高くなってしまった。
(そして五階は 外から気づきにくい屋根裏階)
という風に、我が国では「望楼型天守」において、<<重階をめぐる外観と内部の造りが乖離(かいり)していても構わない>> という感覚が全面展開されたわけですが、思えばこんなやり方は、仏殿など日本の伝統建築の世界では、後にも先にも例が無い、当時の必要に迫られて出現した、きわめて特殊な「感覚」だったのではないでしょうか。
(※他では唯一、「土蔵」がそんな感覚を含んでいたのかもしれませんが、望楼型天守ほど、乖離に対する割り切り方はありません)
ですから、上記の九層殿のような「外国事情」に触れますと、ハッとして、改めて自国の「望楼型天守」の特殊性に思いが至るのですが、姫路城の場合、あえて逆を申し添えるなら、<それでも五重天守に 普通に 見せることが絶対条件だった> とも言えそうです。
そのような「外見へのこだわり方」において、極上の権威づけを行なうためには、内部構造と外観が多少ちぐはぐであっても構わないし、気にもならない、といった感覚は、かつてはアジアの、とりわけ周辺部の?国々を深く被(おお)っていたのかもしれない… とさえ思えて来るのです。
内部の階や実用性と関係なく、びっしりと並べられた窓(再建九層殿の現状)
そして、さらには……
< 意外!… 欧米での「切妻破風(ゲーブル)」の超マイナスイメージ >
多数のゲーブル Gable がかもし出す、不気味な雰囲気…
ナサニエル・ホーソン作『七破風の屋敷』(初版は1851年)
【ストーリー】
ボストン郊外のセイラムに住むピンチョン家は、200年近く前に、ある男を「魔女狩り」で死刑に追いやって土地を奪い、そこに7つの破風の屋敷を建てたが、この屋敷は今もなお、
死んだ男の呪いがかかっていた。……
かの「セイラム魔女裁判」の治安判事 ジョナサン・コーウィンの旧宅
小説『七破風の屋敷』のモデルになった屋敷で、現地ではウィッチハウス
(魔女の家)と呼ばれる博物館になっている
TV「シャーロック・ホームズの冒険」より「三破風館」The Three Gables
【ストーリー】
三破風館の女主人メアリーは、屋敷に一人で暮らしていた。ある日、不動産屋を名乗る男がやってきて、法外な値段で屋敷を買い取りたいが、その条件として、身の回りもの以外は、家の中の家具から装飾品まで、
一切を持ち出してはならないと言うのだった。……
さてさて、外観を左右する強力な意匠のもう一つ「破風」は、「天守」にとって実に大きな存在でしたが、ご覧のように西洋建築にも古くからあったゲーブル(切妻破風)の多用は、現代の欧米社会では、恐怖(不気味さ)のアイコンのように受け止められていて、なんとも不思議です。
おそらく『七破風の屋敷』が決定的であって、以来、ゴシック小説やゴシックホラーの影響が社会に浸透した結果なのでしょうが、本来、屋根に「破風」を多用することは「豊かさ」の表現でしょうし、アジアの建築においては、それがすなおに「豊穣」「繁栄」「繁殖」のアイコンとして社会に通用して来ました。
【おなじみの彦根城天守】
切妻破風が8、入母屋破風が6、唐破風が4と、現存天守では最多の破風が。
【類例】タイの首都バンコクのワット・ラチャナダラム(鉄の寺院)
【類例】中国では破風やうだつ等の妻壁一般を「山墙」と呼んでいる
少年画家としてデビューした頃の濱口瑛士の作品「貧しい人は幸いである」
(公式ホームページ「濱口瑛士の世界」より)
そしてご覧の絵は、濱口自身のHPに「すばらしい繁栄は貧しい人々の犠牲の上に成っている」とのコメントが添えられていて、やはり、屋根がいっぱいあることは「繁栄」のイメージなのだなぁ、と感じるものですが、このように豊穣・繁栄・繁殖を外観に示す手段が「破風の多用」だったとしますと、天守の歴史には、ちょっと困った経緯(紆余曲折/うよきょくせつ)がまだまだ隠されているのかもしれません。…
< 破風と「無破風」―― ゆれ動いた実用性と「発信力」との兼ね合い>
いわゆる「無破風」の天守(嶋原城廻之絵図に描かれた島原城天守)
2年前の記事より / 全方位に並べた狭間や銃眼からの「弾幕」イメージ
と申しますのは、ご覧のとおり「層塔型天守」とは、一つに、狭間や銃眼を最大限かつ全方位にムラ無く並べて、圧倒的な「弾幕」を張りめぐらすことが、デザイン上のねらいでもあって、その結果、しだいに「破風」が 射撃をさえぎる構造物と見なされるようになったようです。
で、私なんぞは、天守の歴史が望楼型から層塔型へストレートに進化したとは思えませんが、こうして「破風」がどんどん邪魔になったのだとすれば、そこにはもっと複雑で 予想外の紆余曲折があったのではないでしょうか。 すなわち…
【またまた手前勝手な妄想を / 世の中が合理性だけで進んだのなら… 】
→ → 当時、「層塔型天守」が全国に普及するとともに、本当であれば、
天守の「破風」は、消滅するはずの存在!!… だったのではないのか
これは例えば、江戸城や名古屋城など徳川の(千鳥破風等を多用した)巨大天守群が もしも無かった(!)としたら、天守の歴史はまるで別の道を歩み出し、江戸時代の諸大名の居城は <100%近い「無破風の層塔型天守」ばかりに!> という状況が生じたのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
ところが、実際の歴史は そうはならなかったわけで―――
ご覧の様子(=破風の総数22)には、おそらく徳川家の豊穣・繁栄・繁殖をねがう強烈な発信力が仕込まれていて、それが天守の防御力という実用性を(現に)乗り越えてしまったのであり、こんな結果になったのは、当時の徳川一門が抱えていたはずの心理(→ 豊臣との下克上に対する反動への警戒心)によるのでは?… と感じられてならないのです。
かくして、天守の「破風」においても、実用性と発信力との兼ね合いが グラグラと ゆれ動いた歴史が、裏に隠れていたのではないでしょうか。
そこで最後に、ちょっと蛇足的に申し添えますと、豊臣大坂城に肉迫して築かれた徳川家臣団の城のうち、いちばん前で「先鋒」のように建った彦根城天守に、かくも 多くの 破風が飾られたことは、今回申し上げた事柄(徳川家による ゆり戻し)と決して無関係ではなかったと思うのです。…
おびただしい破風は、井伊家の 安泰を願う心情が勝(まさ)っていた証拠か
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