このままトランプ氏が米大統領に返り咲いたら、任期中に「米・日・台」合同軍事演習を始めるつもりのようだ。 しかも、防衛費を倍増させたキシダフミオはこれに必ず「YES」と言うはずだ、と固く信じているらしい。
で、そうなったら、本当に、キシダフミオは「YES……YES!」と答えるのかも。(笑)――― 彼は米民主党に心酔しているわけではなく、ただ単に米大統領や米政府が恐いだけ、なのだから。
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聚楽第天守(御三階) 当サイト独自の推定復元
さて、ご覧の前回イラストのねらいを考えますと、これとの対比の意味で、下図の天主最上階の「浄闇(じょうあん)」の件を、ここで是非とも申し添えておくべきと思うのですが、そちらの話に進んでしまうと、今回ブログの話題を切り出すチャンスを逃しそうなので、先に「京の御土居」の件をお話させていただくことにします。
< イラスト余談。京の御土居(巨大な竹林の防壁)は、
一般的な総構えとは見た目が大違い。何故? >
ご覧のとおり前回イラストの遠景には、天正19年に築造された「御土居」を描き込んでおりまして、実は私自身、御土居の“当時の姿”について、これまでほとんど意識したことがありませんで、今回のイラスト化で初めて「あれっ?」と感じる気付きがありました。
それはすなわち、御土居は城の「総構え」の一種とされているものの、そもそも、こういう姿では、
<<守備兵と攻城兵との間の「戦闘」じたいが、行えなかったのではないか??>>
という、御土居に対する一般の認識を“ちゃぶ台返し”するような疑問です。
/ 左側に写っているのが、現在に残る御土居の一部
(※ご覧の美しい写真はサイト「京都旅屋」様からの引用画像です)
御土居の史跡案内の一例
土塁の上には、わざわざ「竹」が植えられていた!!…
【 ご参考 】それでは、土塁上に延々と竹が植えられた様子とは?
→ → 洛中洛外図屛風の御土居の描かれ方を見てみる
(萬野美術館蔵の場合)
(神戸市立博物館蔵の場合)
(高津古文化会館蔵の場合)
(林原美術館蔵/池田本の場合)
(個人蔵の場合)
(個人蔵/中には丁寧に「堀」まで描き込んだ作例も)
このように当時の人々は、押しなべて、御土居の外観を<巨大な竹林の防壁>としか見ていなかったようでありまして、これでは、総構えをはさんだ戦闘そのものを行えないようにした「緩衝(かんしょう)地帯」ではなかったのか?…とさえ感じられて、築造の目的が、ちょっと分からなくなって来たのです。
そこであえて、私の余計な「絵心」を発揮させますと…
【 簡単な合成写真で作ってみた、うっそうとした御土居のイメージ 】
で、このような当時の状況については、「御土居」研究の第一人者と言われる中村武生先生も、著書の中で「不思議だ」とおっしゃっていて、同じく「竹」を植えた総構えが、一部分、金沢城や姫路城にもあることを踏まえて、御土居築造の真の目的を模索しておられます。
(同書より)
金沢の総構えが最初につくられたのは、慶長四(一五九九)年だ。 関ヶ原の戦いの前年で、京都の御土居堀構築より八年遅い。
(中略)
注目すべきは京都同様に竹が生えていたことだ。 翌慶長十六年の史料に、「惣構之土居之竹」と出てくる(『加賀藩史料』のうち「慶長以来定書」)。 豊臣家滅亡の「大坂の役」以前だ。 まだ東西不穏で、「太平の世」ではない。 竹が生えていると土塁の上に櫓など建物を建設しにくく、戦闘には使いにくい。 不思議だ。
後述するが、江戸時代の播州姫路では、有事を想定した城下町防衛計画があったことが知られている(兵庫県立歴史博物館蔵「姫路城防備布陣図」、第三十三話参照)。 実はその姫路の惣構の土塁にも竹が植えられているのだ。
そうすると平時には土塁に竹が植えられていたとしても、有事にはこれをすばやく伐採して櫓を建設、防備に備えたということも考えられないではない。 史料不足の感はあるが、ここではその可能性を指摘するにとどめておきたい。
このように中村先生が、不思議な「竹」植林の動機について、あれこれと模索されるのも当然のことで、われわれ城郭ファンの常識としての「総構え」というのは、例えば、皆様おなじみの「超入門!お城セミナー」様の画像を引用させていただくなら……
「総構え」は城兵が“ビッタリと”張り付いて守備するもの、として描かれる
また『大坂冬の陣図屛風』でも、土塁上の城兵と、堀際に迫った軍勢とのにらみ合いが。
まさに「総構え」とは、籠城戦の最前線となるべく構築されたはずのもの、というのが、半ば常識化した考え方でしょうが、しかしここに、いわゆる「かざしの松」等ではなくて、「竹林」が延々と植えられてしまうと、事情はがらりと変わります。
――― そこで、私なんぞの頭に浮かぶ植林の動機は、「御土居堀」に深い愛着をお持ちの中村先生のお考えとは、まるで、正反対のイメージになるのです。………
(前出の中村先生の著書より)
さて築造目的であるが、別の視点も提示できる。「見た目」である。 土塁(御土居)に竹が生えているとどういう景観になるのだろう。 竹の育成が図られていたわけだから、適宜間伐などを行っていたはずで、みにくく鬱蒼(うっそう)としていたと思えない。 かなり見栄えのよい竹藪だったと思われる。 いわば竹林公園のように、美しい竹林がミヤコをぐるりと囲んでいたという感じではなかっただろうか。
【 … 中村先生には大変に申し訳ない、私の「竹」植林動機のイメージ 】
手入れをせずに放置した、竹藪(たけやぶ)の恐ろしさ。
人は容易に入れず、これを切り開くのは一日仕事……
(※ご覧の写真はサイト「みたすくらす」様からの引用画像です)
切った張ったの戦いばかり考えている城郭マニアの性(さが)でしょうか、上記写真のごとき無残で恐ろしい竹藪も、防御の観点から見れば、実に“頼もしい存在”に見えてならないのです。
竹藪とは、言わば「放置すればするほど頑強なバリケードと化すもの」のようでして、これが思いきり繫茂しますと、城攻めの寄せ手にとっても、また同時に、城を守る側にとっても、そうとうな難物になります。
それが(御土居のとおりに)奥行き20m前後もあったならば、突破口を開くにもかなりの時間を要するでしょうし、まごまごしていると火矢を射かけられ、集中砲火を浴びてしまう、という「コスパ」最強の城壁(トラップ地帯?)になったのではないでしょうか。 枯れ竹に火がつくとバチッバチッと破裂して、修羅場の中の恐怖心も増大しそうです。
最後にまた「コスパ」の観点で付け加えますと、聚楽第の次の主になった関白の豊臣秀次は、領国の尾張清洲の石高が100万石と言われまして、その動員可能兵力で御土居の総延長の約22.5kmを守備する形に(※与力大名や京都所司代の助勢も多少はあったでしょうが)なったはずであり、その一方、御土居の手本になった小田原城の総構えは、約9kmと半分以下の長さでした。
で、そこを本拠地にした後北条氏の総石高が200万石から250万石とされるのですから、実は、全周に対する動員可能兵力の比率で言えば、「御土居」はそうとうに分が悪い(→ だから竹藪)と言わざるをえず、本来の比率では圧倒的な差(=数倍の差?)があったようです。
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