カテゴリー: 秀吉流天守台・伏見城・伊勢亀山城・津城・長浜城

一瞬の寄り道。聚楽第を先取りした空間とは?…長浜城の本丸をめぐる補足説明をさせて下さい

【 直言 】辺野古沖の抗議船の転覆事故で、いまだに女子高生の遺族に直接の謝罪もせず、「テンゴクカラフタリノコエガ…」などと言いだし、地元住民も「相手にしたくない」との本音をもらす「沖縄の反基地団体」というのは、基地反対だけが生きがいになった集団らしく、すでに<<危ないカルト教団の域>>にも達しているようです。
 
→ → このまま野放しにしていると、いつか、いつか、ガイアナの集団自殺や、オウム真理教のサリン事件のような、最悪の結末が、沖縄で起きるのではありませんか。………

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【 前回記事より 】長浜城の本丸というのは、
後々の「聚楽第」を先取りしたような空間だった??
…てなことは。(合成写真によるイメージ画)


(※上記の城絵図は『長浜町之絵図 万延元庚申年五月写之』(滋賀県立図書館蔵)より)

さて、前回の記事では<<豊臣秀吉の伏見城>>をめぐる一連の記事のうち、いよいよ「指月伏見城」の最終章として、手始めに「真一文字に城下に正対した城構え」こそ豊臣秀吉の好みであった件を申し上げました。

その説明の中では、上記のごとき<築城時の長浜城の本丸は、後々の「聚楽第」を先取りしたような空間なのでは?>との自説を申し上げ、合成写真によるイメージ画もご覧いただいたわけですが、これがけっこうインパクトが強すぎたようです。

そのため、このまま素通りして伏見城の話を進めるわけにもいかない気配があり、この際は、落ち着いて指月伏見城の最終章に向かうためにも、今回だけ“一瞬の寄り道”として、長浜城の本丸をめぐる補足説明をさせていただきたく思います。
 
 
で、皆様ご存じのとおり、長浜城の本丸というのは、天正13年の「天正地震」の被害や再建工事もあってか、地形的にはかなり大きな変遷(へんせん)があったようで、それを大まかに分類すれば…

1.羽柴秀吉による築城当時(天正3年~)
2.天正地震後の山内一豊による再建(天正13~)
3.徳川幕府の天下普請による内藤信正の時代(慶長11年~)

といった三つの段階に分かれそうで、それでは早速、秀吉の築城時から、補足説明をさせていただきましょう。
 
 
 
< 羽柴秀吉による築城当時を推定。肝心の「中嶋」の広さとは?? >
 
 

長浜町之絵図 万延元庚申年五月写之(滋賀県立図書館蔵)
他の絵図との比較では、舟入堀が最も複雑に描き込まれたこの絵図こそ、
秀吉の築城時にいちばん近い描写なのでは。

(※下記の石碑と比べやすいように「北」を上にして表示し直しました)


ならば、肝心の「中嶋」の実際の広さはどれほどか??
→ 例えば「中嶋」の至近に設置された「山内一豊屋敷跡碑」には…



( 同石碑の絵図に赤文字「字中島」を加筆してみました )

ご覧のように、石碑が引用した「明治6年の長浜町地籍図」等を踏まえますと、実際の「中嶋」というのは(上記「長浜町之絵図」の描き方よりもずっと広くて)一町四方!=109m四方ほどの広さはあったことが確実のようです。

「一町四方」とは、他の城で申せば、例えば諏訪湖畔の高島城の本丸とか、伊勢の神戸城の本丸とか、平城の近世城郭としては「けっこう狭いな」と感じる広さですが、砂地の琵琶湖畔に石垣造りで築き上げたものとすれば、コスパ的には妥当な線の築城ではなかったでしょうか。

そしてさらに「長浜町之絵図」との比較で申し添えるなら、秀吉の築城時は「中嶋」の周囲には「本丸大池」がしっかりと幅広くめぐっていたものの、のちにそれらが埋め立てられて行って、ついには中嶋の東隣りに「伊右衛門屋敷」=山内一豊時代の城主の屋敷地が出来上がった……という歴史的な変遷(へんせん)も見えて来るように感じます。

【 あえて推定 】築城時の本丸の複雑な舟入堀を地図上に表示すれば…

かくのごとく「一町四方」の本丸が、大手門を進んだ先の正面の池中に守られるように存在していて、その周囲は、実に複雑な形の舟入堀が縦横に掘られていたように思うのですが、ここで私なんぞが一番気になるのは、「中嶋」が本当の本丸とすれば、それでもなお、湖側にわざわざ舟入堀が(別に)設けられたのは何故か?という点です。

湖側と陸側の「二つの舟入」に分岐するルートがあったように見える

これは何故なのか?…と考えた時、真っ先に思い浮かぶのは、この時期、琵琶湖には織田信長じまんの、かの「大船」が、湖を占拠するかように悠然と水を切って走ったことでしょう。

( 今回も合成写真のイメージ画で。安土城考古博物館の復元模型をもとに作成 )

【 大船とは… 】元亀4年1573年、信長が佐和山城下の松原内湖で建造した「大船」は、長さ三十間=約54m、幅七間=約13mと『信長公記』に記されました。 これは7年前の記事でご紹介したジャワ島「ドゥマク王国」の巨大装甲ジャンク船には及ばないものの、すでに豊臣時代の朱印船「荒木船」=長さ49.1mを上回る世界最大級の船であり、坂本を母港にしていたとか。

そんな「大船」を長浜にも迎える舟入堀が用意された!?…と考えるのは、決して奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)な話ではないでしょうし、しかもその舟入堀は長浜城の「最も湖側に」設けられた、というのなら、そこから導かれる結論は、こういうことになるのではないでしょうか。

<< 羽柴秀吉の築城時を推理。>>

!――― こういう風に考えれば、全く“とりとめの無い”“求心性に欠けた”長浜城本丸の描写も、それなりの納得できる解釈が成り立ちましょうし、例えば徳川幕府の天下普請を経て「字本丸」との地名が伝わった最も湖畔の部分は、このように、秀吉の築城時は主君・織田信長のための御成御殿だった、と考えるのが、いちばん自然な結論のつけ方なのではないでしょうか。

ただ、皆様ご存じのとおり、肝心の「大船」は、長浜の築城が終わった天正4年に信長が「大船いらず」と言い出して、早舟十艘に造り替えられてしまったそうですから、秀吉のせっかくの構想は、未完に終わった、ということなのでしょう。

そして絵図に「天守跡」とあるのも、これも、徳川の天下普請を経た状態のことであって、他の史料に天守台の規模が「十間 十二間」とあるのは、いかにも徳川氏ゆかりの天守らしい数値(駿府城とか福井城とか)であり、また、かつて彦根城の西の丸三重櫓が小谷城→長浜城→と移築されたもの、とした伝来も解体修理の際に否定されましたから、たぶん秀吉の築城時は、それほど強固で立派な天守は無かったのではないでしょうか。

しかし、しかし、信長の御殿の池泉回遊式庭園に「楼閣」があったのなら、それはもしかして、もしかすると、岐阜城の「四階建て楼閣」!の<模倣>であった可能性も捨てきれないように感じます。
 
 
 
< 天正地震後の山内一豊による再建を推理。湖畔は半ば「放棄」状態か >
 
 

さて、前出の石碑の地図のごとく、「中嶋」のすぐ東隣りには「伊右衛門屋敷」という地名が残るように、中嶋は江戸時代にかけて、しだいに周囲が埋め立てられていったことが古地図から明らかでしょう。

長浜城は天正12年1585年に豊臣大名・山内一豊に与えられ、翌年1月には秀吉の命令で天守を破却したとのことで、この「天守」は前述の「楼閣」と考えれば、やはり一豊臣大名の城にふさわしい姿に改造されつつあったところに、11月の天正地震が襲いかかり、城は全壊、一豊の息女が死亡した、とのことです。

そうした中で、現に「中嶋」の東隣りに「伊右衛門屋敷」=山内一豊屋敷という地名が現代まで伝わったということは、
< 埋め立ては地震後の再建工事によるものではないのか >
という気がしておりまして、そうして整備された城主屋敷が「中嶋」の東隣りに出来たのなら、「中嶋」じたいは新たな御成御殿とされたのかもしれません。

<< 天正地震後の山内一豊による再建を推理。>>

つまり「伊右衛門屋敷」=山内一豊屋敷こそが、この時期の事実上の本丸であって、四角い旧本丸は(新たな天下人・秀吉の御成りにそなえた)御成御殿となって、曲輪の位置づけが玉突き状にスライドしつつ、旧来の御成御殿(=地形が激変…)は半ば放棄された形になり、結局のところ、山内一豊は、長浜城の規模を縮小して整備を急ぐことに主眼を置いたのではなかったか…と思えてならないのですが、いかがでしょう。
 
 
 
< 徳川幕府の天下普請による内藤信正時代を推理。四重天守か?… >
 
 
 
さてさて、長浜城はその後、天正18年に山内一豊が転封になると、豊臣政権下では城主が置かれず、代官による支配などが続いたものの、関ヶ原合戦の翌年、徳川家康の異母弟・内藤信成が長浜藩の初代藩主となり、その家督を継いだ長男の内藤信正とともに支配を行いつつ、天下普請による城の修築が行われました。

この内藤信正と言えば、当ブログでは4年前の記事「有名な家康の西ノ丸天守が描き込まれたのかも……『大坂市街図屏風』の不可解な描写」で取り上げた武将でありまして、長浜藩の二代藩主から高槻藩主、伏見城代を経て元和5年に大坂城代となり、その頃にひょっとすると、有名な『大坂市街図屏風』を注文してそこに徳川家康の西ノ丸天守を描き込ませたのでは??…といった私なんぞの勝手な推測を申し上げた人物です。

『大坂市街図屏風』


内藤家の藤紋「内藤藤」


(同屏風に描かれた天守)

ということで、前述のように長浜城での天下普請において「十間 十二間」という規模の天守台が築かれ、天守も上げられたのなら、父・信成の家康との関係性も含めて想像力をふくらませますと、湖畔はふたたび家康のための御成御殿に戻されて、天守も“家康ゆかりの四重天守”ではなかったのか、と。

<< 徳川の天下普請による内藤信正時代を推理。>>

徳川家康ゆかりの四重天守については、2012年度リポートでも引用しましたが、かつて松岡利郎先生が『歴史と旅』誌上において…

(松岡利郎「大坂城天守閣」/『歴史と旅』平成3年7月号所収より)
… 天守は一般に外観が三重か五重にするのが普通で、四重は「死」に通ずる意味ゆえに嫌われるものだからである。 しかるに家康の関与した城に四重天守を建てた例が多く見出されるのは、なぜか示唆的である。 関ヶ原合戦の終わった翌慶長六年(一六〇一)、家康は大津城の代わりに膳所城を築かせたが、その天守が四重である。
(中略)
しかも膳所城主戸田一西が没した後を継いだ氏鉄は、夏ノ陣の鎮まった元和三年(一六一七)尼崎へ移封し、居城を築いて四重天守を建てている。
さらに氏鉄は寛永十二年(一六三五)大垣城へ転じたが、これまた四重天守で因縁めいている。大垣城は関ヶ原合戦において石田・宇喜多・小西勢が立て籠って落城した所で、天守があったが元和六年(一六二〇)松平忠良がこれを改築している。 戦災で焼失するまで残った四重天守の唯一の遺構であった。

(中略)
ちなみに家康の二男結城秀康も関ヶ原合戦後、福井城を拡張して四重五階建ての天守を建てている。これら四重天守の系譜が示すところは、家康が天下を取ったといっても、右大臣秀頼と淀君をめぐる豊臣方を押さえつける施策のもとになされたと考えられる。
 
 
という風に述べておられ、例示の福井城天守も初重「十間 十二間」なのは偶然の一致と思えませんし、かくして長浜城の内藤父子もまた四重天守を城内にいただく形になったとすると、なんと、織田信長の四階建て楼閣と、徳川家康ゆかりの四重天守とが、ここ長浜城でつながった!…ことにもなりかねず、私なんぞは気持ちが落ち着かないのです。

それでは、次回はふたたび「指月伏見城」の話題に戻ります。
 

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