カテゴリー: 秀吉流天守台・伏見城・伊勢亀山城・津城

あえて妄言。戦国時代の堀や土塁は、急傾斜だけで「登れる・登れない」を問う場所ではなかったのでは

Russian cruiser Moskva

(出典 NAVALNEWS)
→ → 艦橋と自慢の対艦ミサイル発射機が吹き飛んだ!?のか …??…


いずれにせよ、この調子では、ロシアに学んだ「中国海軍」は
台湾海峡を渡れそうにないが、それ以前に … …

 
Russian battleship Potemkin

【 予感。 長期化する戦争で、21世紀版の「ポチョムキン号の反乱」が? 】
 
あの歴史的に有名な、帝政ロシアの黒海艦隊の戦艦「ポチョムキン号」の反乱事件は、日本海海戦でのバルチック艦隊の大惨敗から1ヶ月後の、1905年6月14日、オデーサで起きました。
事件は、ポチョムキン号の水兵が一斉蜂起し、艦長を射殺して艦を乗っ取った、というものでしたが、きっかけは昼食のボルシチの肉が腐っていたこと、だとか。…………

※           ※           ※

 
で、なんと、前回ブログで申し上げたとおり、アメリカはぜんぶ予め知っていた! ということを、青山繫晴せんせいが ご自身のチャンネル「ぼくらの国会」で暴露されましたが、ここでは、もう少し引いた目線から申し添えますと……
 
プーチンが始めたウクライナ侵略といい、習近平のゼロコロナ政策といい、<<間違えてしまった独裁者>> ほど 始末に困るモノ はありませんが、個々の伝統文化を支える「民族」に注目してきた当ブログにとって、先日、ふと見かけた『デイリー新潮』の記事「プーチン理論のデタラメ ウクライナ侵攻失敗ならロシア連邦が解体の危機に?」は興味ぶかいものでした。
 
その記事中の
「現在のロシア連邦の領土の相当部分が、かつてモンゴル帝国の支配下にあった。過去の歴史を持ち出すことになれば、トルコ系、モンゴル系のロシア国民の間でも
「歴史的一体性」という概念が登場し、最終的にはトルコやモンゴルなどで暮らす同胞との結束を求める声も出てきてしまう可能性もある」
との指摘は、いったいロシア連邦のどの地域を指すのか、ためしに図示してみたところ…



↓           ↓           ↓

といった地図の上に、モンゴル系民族の居住地 や、トルコ系民族の分布(トルコ系言語を公用語に含めた国や自治地域)を重ねてみれば…

!――― 確かに『デイリー新潮』の記事のとおり、プーチンのバカげた妄想の矛盾がはっきりして来ますが、こうして見ますと、いわゆる「専制国家」の問題を根元から解決するカギとしても、「民主主義」は当然ながら、それにもまして「 民族 」=民族自決やアイデンティティというテーマが(※ウクライナ人にも、台湾人にとっても)大きな決め手になるのだと、改めて感じます。
 
(※この21世紀には、ユーラシア大陸で「共産主義の歴史的精算」があってしかるべき、なのでは? )
 
(※ちなみに、図中の「サハ共和国」とアメリカは、北極海をはさんだ 隣国 同士です )
 
(※ 追記 / 当然のことながら、帝政ロシアと「民族」が無関係! であったことも明らか。
    ロシア帝国の最大版図 / 領土・保護領・租借地・占領地・勢力圏 )

 

※           ※           ※
 
※           ※           ※

 
 
< あえて妄言。戦国時代の堀や土塁は、急傾斜だけで
 「登れる・登れない」を問う場所ではなかったのでは >

 
 
 
……… それは「人間は、急傾斜を登り降りする間は、槍や銃などの武器を構えることが出来ない」という、実に単純な「身体的限界」をねらって、敵を射殺(いころ)したり、刺し殺したりする仕掛けだったはずで…

(『大坂冬の陣図屏風』の真田丸の描写より )




……… つまり(登はん不能の崖や切岸以外の)人造の堀や土塁というのは、守備側が無人であれば、時間をすごく かければ登れる、というもので構わなかったのではないでしょうか。
 
絶対に登れないと言われる「叩き土居」にしても、それは城の防衛上の要所だけで、城を幾重にも土塁がめぐっていた場合、それらをひと雨ごとに 全て メンテナンスできたか、と言えばチョット怪しいのですから、多くは芝土居にせざるをえなかったのでは??
 
したがって 後北条氏の障子堀なども同様であり、武器を構えられずに堀障子を懸命に乗り越える「時間」を長ーく取らせて、その間に仕留めるための仕掛け、という風に説明すべきもの、ではないのかと…。

そんな障子堀の山中城が落城したのは、総勢7万対4千という攻守の極端なアンバランスが、
土塁をはさんで対決する「殺傷メカニズム」を、封じ込めてしまったからなのでは?
人海戦術ならば、城外から土だわらを大量にほおりこんで埋めてしまうことも… )


(※山中城のドローン写真 / サイト「三島市ふるさとチョイス」様からの引用です)

――― 今回の記事は、このところの「天守台」テーマからはちょっと寄り道になりまして、ことにTV業界にいた私なんぞが申し上げると(※歴史番組の演出が最大の元凶かもしれませんので…)山城ファン・土の城ファンの皆様方から総スカンをくらいそうで心配なのですが、実は、先日に観たTV番組がまた、私の長年のギモン(わだかまり)を叩き起こしまして、この際は、一気に吐き出してしまおう、と思い立った次第です。
 

戦国の戦いを検証して来たTV番組においては、長年、攻城兵に扮した役者さんやアルバイトの方々に「急傾斜の土塁や堀を登れずに往生する」姿を、再三再四、番組中でトライしていただいたものの(※私は一度もお願いしておりませんが)やっぱりオカシイなあ… との心象が積もり積もっていたのに、先日もまた、NHK「決戦!源平の戦い」を観てしまいました。

大歴史実験シリーズはいつも楽しく観ておりますので、番組批判などするつもりは毛頭ないものの、ああいう「検証」を何度も何度も観れば観るほど、今回のタイトルのギモン < 戦国時代の堀や土塁は、急傾斜だけで「登れる・登れない」を問う場所ではなかったはず > を、どこかで一度、申し上げてしまった方が良いのでは… と思い至ったわけです。

【 ちょっとした補足 】
堀底からも援護射撃できてしまう?「箱堀」と、援護射撃しづらい「薬研堀」

(→ かく申す私の疑念に沿って考えますと、やはり箱堀よりも、薬研堀(やげんぼり)の方が、はるかに強い防御機能を発揮したような… 気がいたしますが。)

【 補足の補足 】
下記の写真は、サイト「ゼロからはじめる愛知の城跡と御朱印、戦国史跡巡り講座」様からの引用で、火縄銃を下に向けて撃つ演武の姿勢だそうです。

 
 
< かくして戦国時代の「堀・土塁」は重要な決戦の場の一つ、ならば >
 
 
 
いつもは織豊城郭や近世城郭ばかりを気にしている私は、籠城戦の攻防と言えば、どうしても「門」や枡形の周辺にしか目が行かないクセがあって、けっこう重症だと思うのですが、それもこれも、戦国時代は堀や土塁こそが重要な決戦の場――― といった表現が、メディアの中で少な過ぎるのではないでしょうか。

とにかく「堀や土塁は決して無人で守れる場所ではない」との基本的な了解が、もっと世間の人々に知れわたれば、土の城の戦闘とはどういうものか、様々な場でリアルに表現されることでしょうし、それが総石垣(高石垣)の城に変わった時、戦いの様相も一変したことが、人々に理解されやすいように思うのです。

そこで、ちょっと妙な、反面教師のごとき浮世絵をご覧いただきますと…

月岡芳年 作『楠公千早籠城之図』(※サイト「刀剣ワールド/浮世絵」様より)

もちろん、楠木正成の千早城に、こんなに壮大な高石垣や水濠があったわけはありませんので、それを飲み込んだ上でご覧いただければ、これは言わば「源平合戦」と「土の城の城攻め」と「総石垣の城の攻防」がごちゃまぜになった戦いが、一枚に描かれていると思うのですが、どうでしょうか。

絵の右側には、まるで騎馬が川を渡るかのごとくに水堀に!入ってしまう源平合戦風の描写があり、しかし中央では、城門しか主な攻めどころが無くなった総石垣の城の攻防が描かれ、それにも関わらず左下では、あえて水堀を泳ぎきって高石垣も登ろうとする、勇ましい侍たちが描かれております。
(※さらに、仕寄りの築山や井楼櫓も描けば、完ぺきだったでしょう … )

実に逆説的な浮世絵をご覧いただいたところで、ここで忘れてならないのは、

<< 堀や土塁は、守備兵をびっしりと張り付けなくてはならなかった >>

という絶対的条件が突き付けられたことでしょうが、そう考えますと、私なんぞは改めて、築城術の集大成をめざした軍事改革者の「藤堂高虎」のすごみが、際立って見えて来てなりません。…



(※ご覧の銅像を制作した 株式会社 竹中銅器 様のHPからの引用)

 
 

<「堀」が決戦の場でなくなった、広大な水堀 + 高石垣の城。
  それで城の全周を等しく築いた高虎の城は、守備側から見れば、
 「最高に人的コスパのいい城構え」ということになったのでは >

 
 

藤堂高虎の「津城」本丸と、徳川再建大坂城の二ノ丸との比較(※同縮尺)

ご覧の図は、高虎の傑作「津城」本丸と広大な内堀との組み合わせが、大坂城に比べると、どういう比較になるか? との観点で並べてみた図ですが、ご覧のように、津城にかつてあった内堀は、大坂城のあの南側の外堀を上回る! ほどの広大さであったのに対して、その本丸自体は、大坂城の大手門の一角ほどの広さでしかありませんでした。

で、思わずネット上にある模型写真に、広大な内堀を加筆してみました。

本丸には高石垣が築かれ、全周を多聞櫓でびっしりと固める造り(※そのため天守台も多聞櫓台との一体化がより進んだ形…)になっていて、本丸内部の復元に目を転ずれば、言わば「城造りの故事来歴の総 “詰め合わせ” セット」のようにも見えるものでして、結果的に、これは天険の要害以外で、初めて、無人での防御も可能にしていく “人的コスパ最重視の城構え” と解釈すべきものではないでしょうか。

ただ、ここで留意すべきは、そんな津城であっても、二ノ丸や三ノ丸を囲む外堀や岸は「土塁造り」であったこと、なのかもしれません。!!……

『享保期 津城下絵図』より

思えば全国の近世城郭は、三ノ丸や総構えがほぼ例外なく土塁造りで築かれたことは、皆様よくご存じのとおりですが、これは、それぞれの大名家の経済的な理由や、または本丸を石垣で際立たせる、といった政治的理由もあったのでしょう。

しかし今回、私なんぞが申し上げてみたい もう一つの理由 は、三ノ丸などは、家臣団という多くの人員を期待できる場所だからこそ、土塁のままでも良いのだ、との判断が、日本中の近世城郭で通用したから――― なのではありませんか。

言葉を代えれば、土塁とは、彼らが身を立てる働きの場、であったと感じるのですが、どうでしょうか。
 
 

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