いまこそ「歳入庁」創設、のはず。なのに…… 】
今後は「五公五民」を超えて!?―――各種の税金や社会保険料を、色々な役所がバラバラに徴収して、全体が無軌道にふくれ上がる、という恐ろしい「国民負担率の急速な増大」をストップさせる特効薬は、要するに、
<<国税(庁)を財務省から分離して、それを年金や健康保険や地方税等と一体化させて、全体の徴収を一体的にコントロールしていく ! !「歳入庁」の創設 >>
という「歳入庁構想」なのは明白なこと。
ところが、国税(庁)を絶対に手放したくない財務省の“ザイム真理教”に日々、洗脳され続ける議員が多い自民党・公明党の連立政権では、この「構想」が実現する可能性は皆無(かいむ)、0%だろう。
(※※なぜ財務省は国税(庁)を手放したくないか………それは自らを「税を集めて」「配るだけ」の役所と思っていて、それこそ権力の源泉だと考え、すでに巨額の国債発行という信用創造で日本経済を支えながらも、そのマクロ経済には責任を持とうとせず、国債は「(余計な)借金だ」などという念仏を唱えて「集めて」「配るだけ」の権力に縮こまっていたいから、なのだろう。)
キシダ政権はそういう無責任な負担増政治のド真ん中を走っていて、日本はこの先、「六公四民」「七公三民」「八公二民」と足早に進んで、日本経済は極端に縮小し、国民は“政府が配給した指定物品だけ”で生活する一方、財務官僚は巨額の政府資産をもつ公的機関を天下りして富豪化していく、という貴族的「財務省」独裁国になるのかも。(恐)と?………………
(※誠に勝手ながら、これは、Morley.JP様からの引用画像です)
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< 道灌余談。当サイトの斎・軒・亭の想定や
地元民の直感で探る、有名な高閣「万秀斎」の所在地 >
さてさて、これまで当サイトが勝手に申し上げてきた<天守の黎明期の、山頂の御主殿の屋根上に「天守」望楼が後付けされた状況>というのは、当然のことながら、いわゆる中世山城ではなくて、例えば千田嘉博先生の「戦国期拠点城郭」論や三島正之先生の「山城運用ドクトリン」論が対象にした、山頂などに広い主郭ができた「戦国山城」でのことと想定して来ました。
その点では、前回までの太田道灌時代の江戸城「静勝軒」のブログ記事は、<台上にそびえる武用の高台(高閣)>という、天守の発祥…とも取れる状況をご覧いただけたものの、それは山頂の御主殿の屋根上に…というケースではありませんでしたし、
結局は、初めから天守や櫓として建てられたのではない「含雪斎」を、天守の発祥と見なした『金城温古録』の特殊事情を説明するような形になりまして、このままでは<御主殿の屋根上に「天守」望楼>云々の始まりは、依然として見えない、という結果になっております。
そこで、多少なりとも、その可能性のある城や屋根上の「天守」望楼の候補を挙げるべきかと思いまして、この【道灌余談】でトライさせていただきます。
まず、いの一番に挙げられる候補としては、太田道灌の登場後に、周辺地域の城館に次々と建てられた高閣として知られる、関東管領・山内上杉顕定の鉢形城の「隋意軒」、道灌の父・太田道真の太田氏館の「自得軒」、そして山内上杉氏の重臣・大石定重の居館(=高月城?柏の城?それとも○○○城?)にあった「万秀斎」の三つでしょう。
で、当ブログの手前勝手な!「斎・軒・亭」の想定から申し上げる場合、「軒」が名称についた「隋意軒」と「自得軒」は、たとえ見晴らしの良い二階建てであっても、それは一階の屋根上に後付けの望楼という形ではなくて、重層化された御殿の類いではなかったでしょうか。(※もちろん、その上に「天守」望楼をさらに載せた、との可能性もありましょうが…)
その一方で、三つ目の大石定重の居館(=高月城?それとも?)の「万秀斎」は、含雪斎と同じ「斎」が使われていて、注目すべき存在だろうと私なんぞは感じているものの、しかしこの高閣、いったいどの城にあったのか?…近年はかつての高月城説がグラグラと揺れておりまして、いまや逆に、真の所在地が城郭ファンの興味を引くテーマにもなっています。
そこでここからは、有名な「万秀斎」はどこにあったか? という件に焦点を当てて、八王子在住が半世紀と少々という“地元民”感覚から、少々申し上げさせていただこうと思うのです。
これまでに大石氏に関連して名前の挙がってきた城館は、
現在の八王子市から志木市にかけて分布するものの、異論が噴出している…
山内上杉氏の宿老にのしあがった大石氏の支配領域というのは、南は相模国の座間、北は武蔵国の所沢の周辺にまで及んだ、とのことですが、本拠地は二宮城→浄福寺城→高月城→滝山城と、代々のうちに新しい城館を築いて移った、とされて来たものの、近年は滝山城が(後北条氏による築城として)抜け落ちるなど、論争が続いています。
で、注目の「万秀斎」を記録した文献は二つあるそうで、一つは道興准后(どうこうじゅごう)の『廻国雑記』(かいこくざっき)の文明18~19年1486~1487年の(「万秀斎」命名と同じ年の)記述であり、もう一つは、前回までの記事にも登場した万里集九の『梅花無尽蔵』で、それぞれ、どういう風に「万集斎」が記録されたかと言うと…
(『廻国雑記』より)
ある時大石信濃守といへる武士の館にゆかり侍りて、まかりて遊び侍るに、庭前に高閣あり。 矢倉などを相かねて侍りけるにや。 遠景勝れて、数千里の江山(こうざん=山河)眼の前に尽きぬとおもほゆ。 あるじ杯取り出して、暮過ぐるまで遊覧しけるに、
一閑(いっかん)興に乗じ屡(しばしば)楼に登る
遠近の江山幾州を分(わか)つ
落雁(らくがん)霜に叫び風颯々(さつさつ)
白沙(はくさ)翠竹(すいちく)斜陽幽(かすか)なり
この「大石信濃守」は大石顕重(あきしげ/定重の父)と見られていて、その「庭前に高閣」のある「館」とは、近年では「柏の城」=志木市柏町三丁目の市立志木第三小学校の周辺が有力とされるようです。
(志木第三小学校の校舎と長勝院旗桜)
一見して、微高地を含む平地に築かれた城と分かりますが、しかし道興准后はこの地を実見した上で「遠景勝れて、数千里の江山(=山河)眼の前に尽きぬとおもほゆ」??って、どういうこと、と地元民としては感じざるをえません。
この城の場合、いくぶん眺望が開けたり、多少の霧が発生したりする可能性があるのは、「西側の」柳瀬川沿いになるはず……という点を押さえつつ、次の二つ目の文献をご覧いただきたいのです。
【 ご参考 】 万里集九の銅像(下呂温泉)
そして同じ長享元年(=文明19年/1487年/=道灌暗殺の翌年!であり、山内・扇谷の両上杉家の抗争「長享の乱」勃発した年)に、大石定重からの依頼によって、万里集九が問題の高閣に「万秀斎」と命名したわけですが、『梅花無尽蔵』にはその経緯として…
万秀斎詩、叙見別巻、武蔵目代大石定重請之、命画工図其斎
(万秀斎の詩、叙は別巻に見ゆ、武蔵目代大石定重之を請い、図工に命じて其の斎を図す)
との一文があり、つまりは万里集九は現地で高閣そのものを見たのではなく、定重が高閣からの眺めを絵師に描かせて、その絵をもとに万里が「万秀斎」と命名したのだ、との経緯が分かります。
したがって、万里の詩文から得られる「判断材料」は、四方の眺めだけ?ということになりますが、これがまた地元民の感覚からすると、大変に気になって仕方のない描写なのです。
――― どういうものかと申せば、別巻の『梅花無尽蔵』第六の「万秀斎詩序」にこんなくだりがあります。
(『梅花無尽蔵』第六「万秀斎詩序」より)
武蔵刺史之幕府、有爪牙之英臣、是曰大石定重、廼木曽源義仲十葉之雲孫也、武之二十余郡悉属指呼、忠義貫日、始終一節、規勝地於武蔵、頗設塁壁之備、邇来築亭子、其兌封而富士千秋之積雪、震封而煙霞眇茫、離之爻有平野松原、涼度風動、則写自然曲於無絃琴上、艮位則湖水双村、筑波之数峯 …
武蔵の刺史(関東管領)の幕府に、爪牙(そうが)の英臣あり、是を大石定重という。 廼ち(すなわち)木曽源義仲の十葉の雲孫なり。 武(武蔵国)の二十余郡悉(ことごと)く指呼(しこ)に属す、忠義は日を貫ぬき、始終一節。
勝地(地勢にすぐれた土地)を武蔵に規(はか)り、頗(すこぶ)る塁壁の備を設け、爾来(じらい)亭子(=居館)を築く。
其の兌の卦(だのけ=真西)にして富士に千秋の積雪、震の卦(しんのけ=真東)にして煙霞眇茫(えんかびょうぼう=果てしなく霞が漂う)、離の爻(りのこう=正南)にして平野に松原あり、涼渡り風動く。
則(すなわ)ち自然の曲を無絃の琴上に写す、艮位(ごんい=うしとら/北東)は則ち湖水双村、筑波の数峰 …
という風に、長享元年=文明19年の1487年に、嫡男「大石定重」の「亭子(居館)」にあった「其の斎」に、万里集九が「万秀斎」と命名した、という点だけは100%確実 ! ! ―――なのでしょうが、その四方の眺めで注意すべきは、「兌の卦(だのけ)」という方角の呼び方でしょう。
「兌の卦(だのけ)」とは易経の八卦の一つであり、方位では「真西」、十二支では「酉(とり)」などを意味する言葉で、同様に震の卦(しんのけ)は真東、離の爻(りのこう)は正南ですから、この詩文の場合、必ずしも「そちらに見えた」という意味ではなくて、方角的にはそうだ、という意味でしかないのかもしれません。
【 ご参考 】 八卦(乾兌離震巽坎艮坤)
ただ「艮位(ごんい=うしとら/北東)」の「湖水双村、筑波の数峰」は、やや具体的な景色のニュアンスがあるため、これは実際にそう見えた可能性もありそうです。
――― それにしても、真西に富士山、などというのは、前出の地図でもご想像いただけるとおり、大石氏の城館は、実は、どれもこれも、当てはまらない!!…という実態が明らかでありまして、つまり絵師は「絵の上で」真西に富士山を描き、正南に松原を描いていた、ということではないのでしょうか。
実際に富士山が見える方角は…
そしてここで、地元民の感覚として、どうしても見逃せないのは、真東に「煙霞眇茫(えんかびょうぼう」=果てしなく霞が漂う!とは、いったい、どういうことでしょう。
果てしなく霞が漂う?……
これが、まずもって首をかしげる部分であり、志木市の辺りから八王子市中央の平地までで「真東に果てしなく霞が漂う」なんて風景を見ることは、まず、ありえない、と。
この辺りは霞がとどまるような地形ではありませんし、出てもすぐに風で飛ばされてしまうためですが、50年以上住んでいて、ここから都心方面の東側に「果てしなく霞が漂う」なんて景色は、一度たりとも見たことがありません。
ただひとつ、あり得るとしたら、それは高尾山など、八王子の西側のある程度高い山地に登った場合なら、それは大いにあり得ることで、例えば高尾山に登った日の夕方から日暮れにかけて、ものすごい濃霧!に囲まれた経験は、子供時分から何度となくありました。
(※ご覧の写真は「lucky-takenokoのブログ」様からの引用です)
(※高尾山から北側を眺めた写真とのことで、これに加筆をさせて頂くと…)
(※写真右側が東の東京方面、左側が西の甲府方面で、八王子城や富士見台が雲海の上にあり、
そのすぐ向こう側が「浄福寺城」の城山ですから、きっとその山頂から眺めても、同じ雲海が
東側一面に広がっていたに違いありません)
しかも前出の『梅花無尽蔵』の「万秀斎詩序」には、なぜ「万秀斎」と名づけたかの理由(意図)として…
所謂万里壑争流、千岩競秀者乎、不多譲也
所謂(いわゆる)万里の壑(がく=谷や溝 ! ! )は流れを争い、千岩は秀を競いて、多く譲らざるなり
という風に、谷や溝、千の岩が美しさを競う四方の眺めから「万秀」と名づけたのだと、ハッキリと書かれておりまして、これはもう平地ではなく、明らかに山間地の景色が高閣のまわりを囲んでいたはず、と言い切っても良いのでしょう。
(あくまでもイメージ。… 至近にある檜原村の神戸岩)
< ひょっとして「浄福寺城」こそ山頂に高閣「万秀斎」があった城??…
との手前勝手な想定がもたらす、大石定重の“動機”について。
また齋藤説のとおりに「浄福寺城=由井城」ならば、地政学的にも
機能的にも、本来あるべき場所の「元祖・八王子城」なのかも >
浄福寺城 / 実際は「由井城」か。もしくは「城福寺」城?
(※城の東南東にある下恩方秋葉神社の参道から眺めた様子)
山麓にある浄福寺の本殿
浄福寺境内の石垣
(すべてが後世に積まれた石垣だとは思うものの……)
そして齋藤慎一先生の『中世東国の道と城館』
――― かくして、私なんぞは地元民の直感から「万秀斎」はきっと「浄福寺城」にあったはず!…と思えてならないのですが、この城、近年では、齋藤慎一先生が著書『中世東国の道と城館』で論述された「浄福寺城=由井城」説によって、一気に注目度が高まって来た城です。
その説とは、例えば永禄4年の上杉謙信の来襲時に滝山城が機能した形跡が無いこと(=未築城!)や、少なくとも16世紀前半の八王子地域の中心都市「由井」の存在を踏まえれば、「従来の通説である大石氏本拠変遷説が想定し得なかった地域像が存在する」として、浄福寺城こそ、大石氏の固定的な本拠地「由井城」であった、と主張されたものでした。
浄福寺城の城下を貫いていた案下通(あんげみち)から見えた八王子城
そこで齋藤先生の論述を踏まえて申せば、浄福寺城の方は、案下通(あんげみち/陣馬街道)という甲州方面との重要な幹線道が、城の足元を通っていたわけですから、もしも浄福寺城が山頂の主郭や中腹の「城館」以外にも、いくつかの広い曲輪を削平できたなら、場合によっては、後の八王子城の築城は必要なかったのかも??…とさえ思えて来る、貴重な城です。
ただ、今回の【道灌余談】は<<山城としての浄福寺城の魅力>>をご紹介するのが目的ではありませんので、そのあたりは上記画像の八王子城公式ガイドホームページの「浄福寺城探訪ツアー 津久井城との竪掘り比較」などにお任せしまして、同ツアーのYouTube映像「戦国山城浄福寺城探訪」も是非ご参照いただきたく存じます。
また、香川元太郎先生のイラストレーションも大変に参考になるものです。
(先生ご自身のXより)
(※ちなみに「浄福寺城」という名称に関しては、八王子市ホームページのPDF「第3章 八王子の歴史文化の特徴」の中に「大永5年(1525年)に大石道俊が「城福寺(浄福寺)」を再興し、奉納した棟札があることから…」との一文があり、当時も「城福寺」という名の寺は存在したようです)
前出の案内看板より
山頂周辺を拡大(※図左下のスケールバーを同縮尺で合成)
では最後に、以上のごとく仮定して来ますと、ならば、大石定重の「意図」は何だったのか、という点が非常に気になってまいります。
当時の定重を取り巻く情勢(→ とても遊興にひたっていられる状況ではなかった)を思えば、古くからの居城・浄福寺城の山頂に、後付けで!「天守」望楼を掲げた動機とは……… やはり<<前年の太田道灌の死>>が決定的な動機となったのではないでしょうか。
そういう重大局面で(両上杉家の動揺や互いの衝突、迫りくる後北条氏への対策として)宿老の大石氏が、自らの領国支配だけは死守しようと、その意思(→ 戦国大名化?)を周囲の諸勢力や家中・領民に示すために、山頂に我が国初?の「天守」望楼を上げたのだ―――という風に考えますと、いろいろと納得できるようにも感じるからです。
※当サイトはリンクフリーです。
※本日もご覧いただき、ありがとう御座いました。