その天守は山崎「天王山」城から
→近江八幡城→石垣山城→淀古城→指月伏見城へと ! !?…
さて、ご覧の浮世絵『新撰太閤記 石垣山一夜城』豊宣(安政6年-明治19年)筆は、天守はおろか、石垣山城がどんな城かも分からない中で描かれた節(→ 絵の前提は、豊臣秀吉と徳川家康の二人が小田原城を一緒に見下ろした伝承のみ)を感じさせるもの。
(※下記CGはNHK「歴史探偵」2022年3月2日放送分からの画像引用です)
………… ご覧のごとく石垣山城の天守というのは、出現した当時、絵図等にも全く描かれないまま、アッという間に!姿を消したためか、姿形がまるで世に伝わっていない天守でありまして、かつては五重天守としてイラストに描かれたりもしましたが、近年では三重程度の天守として描かれるケースが多いようです。
で、前回のブログ記事では、そんな「アッという間に!姿を消した」原因(=天守だけの儀礼的な破城?)について、天下人の秀吉を批判した落首の
石普請 城こしらへも いらぬもの 安土小田原 見るにつけても
との文言を手がかりに検討してみたわけですが、その結論からは、姿形が全く伝わらなかった状況がますます納得できそうですし、その中では唯一、壁の「色」だけが今日に伝わっているようです。
この件については、かつて西ヶ谷恭弘先生が、著書『秀吉の城』1996年刊において、天正十八年の石垣山築城を以下のごとく紹介しておられます。
(同書より)
築城は昼夜兼行で行われ、四月二十八日付の秀吉が柴山宗勝宛に出した書状には「御座所も早や石組も御殿も来月中には出来候」とある。
五月十四日発給の秀吉が政所(まんどころ)に宛てた手紙には、
「心やすく候へく候、はや御ざどころ(座所)のしろ(城)も、いしくら(石蔵)でき申し候間、大ところ(台所)でき申、やがてひろま(広間)、てんしゅ(天守)たて申すべく候……」
とある。
(中略)
一夜城といっても約百日間近い工事を、昼夜兼行、しかも一日六万人に近い員数を投入して築きあげたのである。
(中略)
同年六月榊原家政が大坂城で留守役をしている加藤清正に宛てた手紙には、
上様の御陣城は、高山の頂上に十丈餘に磊(いしがき)を築き、上は雲を穿(うが)ち、箱根連山は放(敵)城を直下に御覧(ごらんじ)られ候、御屋形の造の様子は広大で野を分けて成る。凡(およ)そ聚楽・大坂にも劣らずがたしと相見え候。其の外、一手一手(各武将の部隊)陣城を構え、天主・矢倉は白壁が天を輝(てら)し、陣屋陣屋は悉(ことごと)く土を塗り籠め、……
ということであり、西ヶ谷先生が紹介された関係者間の手紙を信じるならば、五月には石垣や台所が完成し、六月末(二十六日?)には早くも「天主・矢倉は白壁が天を輝(てら)し」と、白壁の天守や櫓が完成していたことになります。
ここで例の「白壁は紙を貼りつけた」云々の話も登場するのでしょうが、当時も今も、人々の関心の的はやはり<<驚異的なスピードの秘密は何なのか>>にあったわけで、秀吉と言えば、中国大返しとか賤ヶ岳の戦いとか、進軍のスピードが(真偽はどうであれ)世間の話題をさらって来た人物ですし、さらには「金の茶室」なども、プレハブという意味では、秀吉の<<スピード>>を物語る逸話の一つなのかもしれません。
そもそも「天守」の建造には、二年から二年半を要した、というのが様々な記録から判明している事柄ですが、石垣山城の場合、豊臣の大軍が山中城を攻略して箱根周辺を平定した四月一日から数えれば、なんとその後、三か月弱で!!天守の完成までこぎつけたわけですから、尋常な話ではないのです。
そこで昨今は、西股総生先生が「後北条氏の降伏時点では天守も櫓もまだ完成していなかった」説を提起される状態なのですが、天正十九年銘の瓦の件は前回ブログで申し上げたとおりでしょうし、徳川氏が天守の建造を引き継いだ?……というのは、下手をすれば豊臣政権への謀反(むほん)とも見られかねず、当時の家康の立場からすると、そんなことをしている場合ではなかったのではないでしょうか。
ですから、この際は、石垣山城天守は超・驚異的なスピードで建造されて、なおかつ絵図等にも全く描かれないまま、アッという間に解体撤去されて姿を消したのだ、との前提で考えてみて、そんなことを実現できる手立て(スキーム)はありうるのか―――と言えば、大胆極まりない話で恐縮ですが、
<< ひょっとして「秀吉の移築専用天守」でもあったのだろうか >>
と考えますと、色々と腑に落ちる点もあって、興味をそそるのです。
< その天守は山崎「天王山」城で創建されたのち、
→近江八幡城→石垣山城→淀古城→指月伏見城へと、
秀吉の成功体験を積み重ねた「吉兆の移築専用天守」だったのかも >
さて、ここからはかなり「妄想」の類いにもなりましょうから、どんどん話を進めてしまいますと、これは所詮、ミステリー小説の探偵が頭に描いた「仮説」や刑事の「筋読み」に類する話に過ぎませんので、松本清張の『点と線』風に、それらしい城の「点と線」を強引に結んでご覧に入れますと……
( やっぱり1958年版の映画が面白かった『点と線』)
<<<点と線でつなぐ妄想ストーリー>>>
【1.山崎「天王山」城の築城において「その天守」は創建された? 】
(※ご覧の浮世絵は歌川豊宣筆『新撰太閤記 秀吉』より)
天正10年6月27日、山崎の戦いに勝利した秀吉は、清洲会議にのぞむ。
(同年) 7月17日、秀吉は山崎城の築城を開始(天守の完成時期は不明)
天正11年4月、秀吉は賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を撃破。
天正12年3月、山崎城は天守を解体撤去しつつ廃城に。
(『兼見卿記』今朝山崎之天守ヲ壊チ取ランガ為、奉公罷リ越ス )
⇩ ⇩(早速、その天守を移築か)⇩ ⇩
【2.安土城を「破城」させて築いた近江八幡城に「その天守」を移築? 】
(※ご覧の浮世絵は芳幾筆『太平記英勇傳 豊臣秀次』より)
天正13年8月、秀吉は甥の豊臣秀次に近江八幡43万石を与えて、築城を開始。
天正18年、やがて秀次を尾張清洲など計100万石に加増・移封させた。
⇩ ⇩(早速、その天守を移築か)⇩ ⇩
【3.天下統一へ。小田原攻めの陣城・石垣山城に「その天守」を移築? 】
(※ご覧の浮世絵は歌川豊宣筆『新撰太閤記 石垣山一夜城』より)
天正18年4月1日、秀吉は箱根山に本陣を移し、石垣山城の築城を開始。
(同年)6月26日、早くも石垣山城は完成し、本陣を早雲寺から移す。その10日後の7月5日には北条氏直が降伏を申し出た。
そしてその7月中には北条氏政・氏照兄弟の切腹から、小田原城の開城や秀吉の入城まで、矢つぎばやに進んだため、結局、昼夜兼行で完成させた石垣山城天守は、一か月程度しか、この世に存在しなかったのかも。…………
⇩ ⇩(早速、その天守を移築か)⇩ ⇩
【4.鶴松が誕生した中世以来の守護所・淀古城に「その天守」を移築? 】
(※ご覧の浮世絵は豊原国周筆『淀君 河原崎国太郎』より)
天正17年3月、秀吉の弟・豊臣秀長が、秀吉の側室・茶々の産所とすべく淀古城を改修。
同年5月27日、秀吉の嫡男として鶴松が誕生した。
天正19年8月5日、しかし鶴松は数え三つで死去。前年に移築された?「その天守」は、しばらくは放置状態か。
文禄3年4月16日、鶴松の死から3年後、淀古城の天守と櫓は解体されて伏見城に移されたと『駒井日記』が記す。廃城は翌4年。ちなみに、秀吉の新たな子・拾丸(豊臣秀頼)は文禄2年8月に生まれている。
⇩ ⇩(満を持してその天守を移築か)⇩ ⇩
【5.明の使節を迎えるべく大改築した指月伏見城に「その天守」が? 】
(※ご覧の浮世絵は歌川貞秀筆『真田昌幸・賊ヶ岳七本槍』より)
文禄3年、指月伏見城の工事が始まり、3月18日には天守の工事(天守台の準備?)に着手。それを追うように4月、淀古城から天守や櫓を移築した。
同年10月、殿舎が完成。
文禄4年7月、破却された聚楽第からも建物を移築し、8月1日、ひととおり完成した城に秀吉が移った。
文禄5年(慶長元年)閏7月13日、しかしその一年後、慶長伏見地震によって天守は上二層が倒壊するなど、城には甚大な被害が出て、明使の接遇は大坂城に変更を余儀なくされた。
といった波乱万丈の妄想ストーリーが、いちおう各城の「築城」「廃城」「天守移築」の期日を縫い合わせることで可能になり、これらをトータルに申せば、まさに、秀吉の成功体験を積み重ねた「吉兆の移築専用天守」ではなかったのか、と。
「吉兆」をもたらす、との意味からか、一族を継ぐ者(秀次や鶴松)への祝儀や贐(はなむけ)としても使われた(と思しき)点が面白いかぎりですが、その天守は、常に部材等を補充・修繕しつつも、石材や瓦などは“強力な現地調達”という手段もあったはずでしょうから、石垣山城天守の<<驚異的な建造スピード>>は、これでかなりの説明がつくのではないでしょうか。
それにしても、何故、こんな大それた「妄想の類い」をわざわざ申し上げたか―――という私の思惑を白状してしまいますと、この結果、一切ナゾのままの石垣山城天守の「姿形」について、わずかながらも手掛かりが得られるかもしれない、との希望の道筋が見えたからに他なりません。
それは30年以上も前に本の片隅で見かけて、ずーっと気になってきた絵図が、ここからもっと注目されるのではないでしょうか。
山本眞嗣『京・伏見 歴史の旅』1991年刊
同書84ページより
(キャプション →「古地図に見られる伏見城天守閣/若林春和堂所蔵」)
ご覧の絵図については、若林春和堂様がお持ちの原本を確認できてはいないのですが、どうやら、徳川再建の伏見城という想定で古地図に描き込まれたもののようでして、その意味では参考にならないものの、しかし当ブログは、徳川再建の伏見城天守はそっくりそのまま二条城に移築された五重の寛永度天守のはず、と申し上げて来ていて、上記の絵図とはまるで合致しません。
一方、古地図の天守の方は、移築しやすい?三重天守であり、
なおかつ、三重のうち二重目が「十字形八角平面」になっている…
(→ これは例えば、白河小峰城の御三階櫓をさらに徹底させたようなデザイン )
このように「十字形八角平面」を史上最も!?強調したようなデザインは、実に見逃せないものがあり、何故なら、これが秀吉の移築専用天守であれば、きっと「建物内部は何も出来ていなかった」可能性が濃厚でしょうから、この天守は、三重ながらも、外観だけが勝負!!……という、かなり特殊な天守とも考えうるからです。
「十字形八角平面」というのは<<四方の眺望>>に最大の力点を置いたデザイン・形状であり、それで地域一帯に(…天下にも)にらみを利かせる効果があったはず―――との論点は、当ブログで繰り返し申し上げてきた事柄ですし、それがここでまた俎上(そじょう)に上がって来たことに、我ながらちょっと驚いております。
これは是が非でも、天守画イラストで描いてみたいもの、と気持ちがウズウズして来たところです。………
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