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ここは土塁つながりで。長篠合戦図屏風の大胆過ぎる情報操作??… 鉄砲隊の位置を疑ってみる

(前回記事より)
合成写真で作ってみた、うっそうとした竹藪の御土居イメージ

前回は京の御土居について、その外観が一般的な総構えとは大違いであった件を申し上げましたが、このように「土塁」に関して思い切ったお話をさせていただくならば、実はもっと他に、申し上げたくて仕方のない独自の仮説もあり、ようやくチャンスが巡ってきたようですので、まことに恐縮ながら、ここは「土塁」つながりで、もう一回だけ、脱線をさせていただきたく存じます。……

一般的な総構えの絵では、両軍の真ん中にあったのは「堀」と「逆茂木」! !


【 ご参考 / 第一次大戦のドイツ軍の機銃陣地の場合 】
 → → 川べりには敵軍の突進を止めるための「有刺鉄線」が。



そして長篠合戦場の跡に再現された「馬防柵」


長篠合戦図屏風(犬山城白帝文庫蔵)より
有名なこの屏風絵では、鉄砲隊はなんと馬防柵の前にまで出ている。
前に出ているのは徳川勢だ。本当なのか…………

 
 
< 長篠合戦図屏風の大胆過ぎる情報操作??…
  鉄砲隊の位置を疑ってみる >

 
 
 
さてさて、土塁に関する「申し上げたくて仕方のない話題」と申しますのは、ご覧のごとき<<矛盾?>>について、言わば長篠合戦の謎といった「戦術上の疑問」ではなくて、もっぱら「徳川大名が描かせた屏風絵による情報操作」といった観点から、そこに実は<<最大の落とし穴>>があったのかも?……というお話になります。

で、ご存じのように『長篠合戦図屏風』は、織田信長と徳川家康の連合軍が長篠・設楽原において、武田勝頼が率いた(戦国最強とも言われた)武田軍を、鉄砲の大量使用で一気に壊滅させた…といった時代の転換点の喧伝(けんでん)とともに江戸時代に数多く制作されましたが、依頼主としては徳川御三家・尾張藩の附家老、成瀬家が有名です。

その一方で、長篠合戦に多少なりとも触れた文献史料の方は、私なんぞの素人には把握しきれないほどの数が存在するようですが、見聞きした範囲で、いちばん気になった記述と申せば、やはり『信長公記』の「身がくしとして」と、『甲陽軍鑑』の「城ぜめのごとくに」でしょう。
 
 
【 いちばん気になった記述 その1 】 『信長公記』の「身がくしとして」…

(『信長公記』三州長篠御合戦の事より)

… 関東衆、馬上の功者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて懸かり来たる。 人数を備え侯。 身がくしとして、鉄砲にて待ち請け、うたせられ侯へば、過半打ち倒され、無人になりて引き退く。
四番に典厩一党、黒武者にて懸かり来たる。 かくの如く、御敵入れ替え侯へども、御人数一首(かしら)も御出でなく、鉄砲ばかりを相加へ、足軽にて会釈、ねり倒され、人数をうたせ、引き入るゝなり。

 
 
ここにある「身がくし(身隠し)」というのは、もちろん「土塁」とか塹壕とかの“陣地”に身を隠して銃撃をした、との意味でしょうが、上記の屏風絵の(馬防柵の前にまで出た)鉄砲隊は、まったく「身がくし」にはなっておりません。

そのうえ「御人数一首(かしら)も御出でなく、鉄砲ばかりを相加へ」というのは、武田軍が馬場隊や山県隊など左右中央に各五隊ずつの波状攻撃で攻めて来ても、織田・徳川の鉄砲隊は、ただの一人も、陣地から出ることなく合戦が終わった(=追撃戦に鉄砲隊は関与しなかった)との証言でしょうから、これは鉄砲隊のあり方を見極める上で、重要な一文でしょう。
 
 
【 いちばん気になった記述 その2 】 『甲陽軍鑑』の「城ぜめのごとくにして」…

(『甲陽軍鑑』品第十四より)

天正三年五月廿一日に合戦有りて、三時ばかりたゝかふて、柵の木際へをしつめ、右は馬場美濃、二番真田源太左衛門同兵部介、三に土屋右衛門尉、四番に穴山、五番に一条殿、以上五手。 左は山県を始て五手。 中は内藤是も五手。 いづれも馬をば大将と役者と一そなへの中に七八人のり、残りは皆馬あとにひかせ下りたつて鎗をとつて一そなへにかゝる。
 
右の方土屋衆と一条衆穴山衆は信長の家老佐久間右衛門がかたの柵の木を二重まで破るといへども、みかたは少軍なり、敵は多勢なり。 殊に柵の木三重まであれば城ぜめのごとくにして、大将ども尽く鉄炮にあたり死する。

 
 
という描写を素直に読めば、要注意なのは「柵の木三重まで」あったことで「城ぜめのごとくにして」結果的にどうなったか?と言えば、そのせいで「大将ども尽く鉄炮にあたり死する」ということでして、これをよくよく考えますと、
<<通常の城攻めで、侍大将の討ち死にが特に多い、ということはありえない>>
わけですから、これはとどのつまり、城壁のごとき「柵の木三重」にさえぎられて野戦の進軍が止まってしまい、馬上の侍大将だけが(鉄砲の的として)妙に目立つ状況が生まれてしまった!…という風に読むべき部分なのではないでしょうか。

ですから、間違いなく、その場で武田の全軍が銃撃で“なぎ倒された”わけではなくて、悪くても「過半」が鉄砲傷を受けて引きのいたのであり、織田・徳川軍が特別編成した諸手抜(もろてぬき)の鉄砲隊というのは、あくまでも、
<<接近阻止>>
が唯一の目的であって、彼らは言わば「オール狙撃兵」であったと、私なんぞには思えてならないわけです。
 

名和弓雄『長篠・設楽原合戦の真実』(初版1998年・第二版2015年)
→ → 名和先生が注目した「分業三人組 弾丸込め法」は、場所を全く動けなかった!

さて、このような私の疑問に関連して、実に興味深い指摘があったのは、ご覧の故・名和弓雄先生の本でありまして…

(同書より)

射手一名に、三人の薬込役(くすりごめやく)がつく、鉄砲構え(鉄砲陣地)の中で行う装填方法で、便宜上、その方法を「分業三人組 弾丸(たま)込め法」と名づけておく。 この「分業三人組 弾丸込め法」を日本国内で使用して、鉄砲集団の威力を発揮したのが、紀州雑賀の鈴木孫市の鉄砲衆である。

という風に紹介された撃ち方は、いわゆる“三段撃ち”の不合理さをおぎなって余りあるものでしょうし、これで連続射撃を実現すれば、狙われていると感じた侍大将に馬を降りる時間を与えなかったのかもしれませんし、そのうえ私なんぞが思いますに、文献上に千挺とか三千挺とか伝わる鉄砲数の「あいまいさ」は、実は、ここから生じたのではないか――― とも感じられて興味深いのです。

と申しますのは、鉄砲の保有数は、近年の研究ですと、軍役人数から割り出せば両軍とも同水準の保有だった!との驚きの指摘(平山優先生 → つまり両軍の火力は兵数に等しい割合で、使い方だけが異なっていた…)がありましたが、それなのに文献上には、織田軍は千挺とか三千挺とか非常に大づかみな数字ばかりが伝わったのは、すなわち、全体では何挺の鉄砲が使われたのか、現場では<<誰にも良く分からない使い方>>がなされたのかも!……と考えますと、四人で最大四挺をぐるぐる手渡ししながら撃つこの方法は、さもありなん、と思わせるからです。

(ふたたび同書より)
欠点としては、前進、後退、移動ができ難いことである。

そしてこの一行が、名和先生の本でいちばん重要な指摘であるように、私なんぞには感じられまして、以上の論点を総合して、是非ともお目にかけたいのが、次の「加工」画像なのです。
 
 
 
< 屏風絵の意図的な情報操作を疑う。
  恐縮至極ですが、犬山城白帝文庫蔵の屏風絵を引用しながら、
  それを「加工」した画像で、分かり易く説明させていただきますと… >

 
 

長篠合戦図屏風(犬山城白帝文庫蔵)のオリジナル状態


本当は、こういう風に描くべき戦闘だったのでは?


オリジナルどおりの六曲の屏風ではなく「七曲の屏風」という変な形になってしまいましたが、その点はご容赦いただくとして、まず「馬防柵」について申しますと、この描き方は、名和先生の本に、阿部四郎兵衛忠政の『三州長篠合戦記』の中に「三十間か五十間に一箇所、出入口があった」との記録が紹介されていたことに基づいたものです。

そして、上記のごとき「加工」画像をご覧になれば、すぐさま、火縄銃の有効射程(=50mから100m程度)が気になる方もいらっしゃることと思いますが、その点に関しては、織田・徳川の鉄砲隊が陣地を築いた(はずの)舌状台地「高松山」の布陣を推定してみますと…


【 ご注目 】
台地の縁から「100m」エリアを赤く表示してみれば、
例えば、再現された馬防柵までは50~60mほどで、
効果的な射程範囲のうち、と分かります…

!!―――ご覧のとおり馬防柵(空堀付き)と台地上の土塁がセットになった陣地の構築で、武田軍の<<接近阻止>>をなんとか実現できたのだと思われますし、さらに重要なのは、『信長公記』には信長が手勢を「段々に御人数三万計」「敵方へ見えざる様に」配置したとあって、そもそも土塁陣地には三万人も入れませんから、その他はすべて「伏兵」=追撃用の部隊として、背後に、ぎっしりと隠していた、ということなのでしょう。

上図ではその大量の「伏兵」を左側に描き込んでみましたが、こう考えますと、織田・徳川の各隊は、諸手抜きの鉄砲隊とその他の追撃用の伏兵とに、完全に二手に分けられていたように思えてならず、図中で(滝川)などと( )付きで表示したのはすべて鉄砲隊の側だけ、と考えております。
 
 
そして一方の武田軍は、総大将の武田勝頼は丘の上に陣したものの、それ以外の諸隊はすべて平地に降りて陣していたと思われますし、その最も北側に馬場信春!、最も南側に山県昌景!を配置したのは、申すまでもなく、馬場と山県もしくはそのどちらかでも、織田・徳川軍の背後にまで回り込んで突入し、大混乱におとしいれる、との作戦であったのは一目瞭然でしょう。

しかし、ご覧のごとき「大量の伏兵」がそこに待ち構えていたとしたら、武田の作戦は、すでに信長が考案した布陣によって封じられていたのかもしれません。
 
 
で、実際にこの戦いは、武田軍15000人のうち10000人以上が戦死したという「大惨敗」に終わったわけですが、その直接の端緒は、8時間に及ぶ波状攻撃でも馬防柵の三列目が突破できず、また背後の鳶ヶ巣山砦が陥落すると、突如として、穴山信君や武田信廉といった武田の親類衆が(パニックを起こして?)戦場から離脱・敵前逃亡したことであり、そこから武田軍の総崩れと敗走が始まりました。

ここで私なんぞが強く思うのは、武田の親類衆が起こしたパニック?には、
<<そこに至るだけの「プロセス」が、着々と、積みあがって来ていた>>
と感じられてならない事実関係があるのですが、それをかいつまんで申しますと…
 
 
【 事実関係その1 】 信長がわざわざ馬防柵の陣地を築いた動機とは
それは前年の「明知城の戦い」での苦い経験があったからに他ならない。 下記の写真は、信長が後詰めで着陣した鶴岡山の「諏訪ケ峯陣城」から見下ろした明知城。 この戦いは、こんな所に後詰めをしても、戦上手の山県昌景隊に自らの退路を断たれてしまうだけだ、と信長自身が思い知った戦いでもあった。


(→ ご覧の写真はサイト「とんかつおやじのブログ」様から引用の、みごとな写真です)

 
【 事実関係その2 】 明知城の戦いを真逆に評価した、武田宿老と勝頼側近
明知城の戦いでは、信長の後詰めの陣に山県昌景隊が迫る一方で、明知城内に裏切りが出て城が陥落すると、信長は付城の処置だけして岐阜城に引き上げた。
この展開を踏まえて、長篠合戦の際に宿老の馬場信春は、長篠城さえ落とせば織田・徳川軍は撤兵していくはずと主張した(甲陽軍鑑)ものの、逆に長坂・跡部ら勝頼側近は、長篠城を力攻めで落したら信長はまた逃げてしまう、と考え、長篠城をそのままにして軍を前に進める、という大博打(おおばくち)を勝頼に選択させた。
 
 
【 事実関係その3 】 武田の総大将・武田勝頼の心理状態は…
勝頼は家督相続後、破竹の勢いで東美濃十八城や高天神城を攻め落としたものの、いまだに武田全軍に「撤退」を命じたことが一度も無かった。 しかも設楽原の合戦前に、勝頼が「楯無」鎧に勝利の誓いを立てた、というのが本当ならば、その時、武田の命運は勝頼の心理状態しだい、という形だった。
 
 
……… かくして、8時間の波状攻撃でも馬防柵を突破できないまま、背後の鳶ヶ巣山砦が陥落して、にっちもさっちも行かなくなった状況で、ついに、武田勝頼(の性格?)をよく知る親類衆がパニックにおちいり、勝頼との心中を拒否して、勝手に戦場を離脱していったのだろう、と私なんぞには思えてならないのです。
 
 
ですから長篠合戦の武田方の大惨敗(惨劇)というのは、それが起こる「プロセス」が、織田・武田の双方にきっちりと積みあがっていたから起きたこと、と言わざるをえないのでしょうが、ところが、ところが、事はそれだけでは終わらずに―――

これでは「あまりにも卑怯(ひきょう)」と思われることを
徳川家臣団の屏風絵依頼者たちは強く恐れたのかも……


↓      ↓      ↓

…………… 歴史の転変は奇々怪々と申しますか、有名な長篠合戦図屏風は、このように何もかも封じ込めるかのように、はるか後世まで「大胆過ぎる情報操作??」をし続けているのではないでしょうか。

それは徳川家臣団の側にしてみれば、江戸時代には旧武田家臣も相当数いたことを踏まえますと、こうした描写は勇猛さの強調だけでなく、「徳川の鉄砲隊は馬防柵の前にまで出て、危険をおかして武田勢と戦ったのだ」という形にでもしないと、どこか、おさまりが付かなかったのかもしれません。………

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