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近世城郭の「完全否定」で籠城戦に勝てたのが熊本城か


近世城郭の「完全否定」で籠城戦に勝てたのが熊本城か

西南戦争時の熊本鎮台 司令長官・谷干城(たに たてき/かんじょう)少将
籠城前の撮影か          籠城戦の翌年の撮影

前回に続いて「熊本城」についてお話してみたいのですが、やはり熊本は震災のことがありますから、櫓や石垣が崩れ落ちた熊本城に関しても、その「復旧」以外の話題はなかなか話しづらい空気があります。

しかし、だからと言ってこのまま城が復旧する予定の20年後まで、ずっと熊本城を正面から語れない、というのは城郭ファンにとって全く不幸な話ですし、今回のブログ記事はあえて「復旧」以外の話題として、冒頭写真の、西南戦争で熊本城に籠城して西郷隆盛軍と戦った谷干城少将(当時40歳)に焦点を当ててみたいと思うのです。

昭和11年刊行の古川重春著『日本城郭考』掲載の天守台の図

さて、まずこれは前回のブログ記事でもご覧いただいた図で、籠城戦が始まる直前(谷干城が籠城を決意した5日後)の明治10年2月19日、突然、ナゾの出火で本丸の天守や櫓・御殿が全焼してしまい、焼け残った天守台の様子をその後になってから描いたものですが、この上に昭和35年、前回話題の鉄骨・鉄筋コンクリート造の外観復元天守が建てられました。

で、この図と同じように、天守台だけの状態の「古写真」もあるのではないかと、前回記事を書いているなかで探したところ、どの本にもそういう写真は載っておりませんで、一瞬、アレッ?と思ったのですが、それも当然のことでした。

(※唯一見つけたのは『決定版 よみがえる熊本城』掲載の大林組の記録写真でして、大林組は上記のコンクリート天守の建設も手がけ、その前後に天守台の記録写真を多数撮影し、そのことが今回の受注にも役立ったそうです。しかし一般的には…)

絵葉書「熊本百景 第六師団司令部の前」

(※休業中?のアンティーク絵葉書専門店「ポケットブックス」より)

例えばご覧の場所は左端が宇土櫓で、右端が頬当御門の位置であり、この先の本丸周辺は、昭和20年の敗戦までは帝国陸軍・第六師団の司令部が置かれていて、ここから先の天守台のあたりは、まさに司令部の建物の真ん前になり、軍の許可無くしては何人も立ち入れない領域でした。

やはり同じ場所で行なわれた第六師団の凱旋パレードの報道写真

このように、頬当御門を正門とした師団司令部の姿というのは、明治4年の「熊本鎮台」設置までさかのぼる可能性があり、しかも富田紘一先生の研究によりますと、頬当御門の外側(西側)の広大な「西出丸」や「奉行丸」「数奇屋丸」「飯田丸」の櫓や門は、明治10年の籠城戦の開始までにことごとくが撤去され、まさに頬当御門から内側にしか櫓等は無かったそうです。

そんな中で突如起きたのが、前述のナゾの出火による本丸全焼であり、その火災の飛び火で城下町全域をのみ込む大火が発生したうえ、鎮台側も積極的な「清野作戦」を加えたそうで、結果的に熊本城と城下は、開戦前にすでに一面の焼け野原と化してしまい、その城側を写した写真は残っていませんが、おそらく城の高い櫓として見えたのは「宇土櫓」「竹丸五階櫓」のたった二基だけ!!… というトンデモナイ状態で開戦を迎えたのでした。

こんな悲惨な状態で、籠城戦を敢行した司令長官・谷干城の真意とは??

(※当図は富田紘一先生の研究を参考にしながら作成)

このことは、ほぼリアルタイムの明治10年8月刊行の『西南戦争記事』という本でも、その問題の日には「人民の悉(ことごと)く東西に退きしを見て 三発の号砲を相図に城内の天主閣を焼払ふ。時しも西北の風烈しく 見る見る坪井千反畑等の塲家に延焼し」「城の存する処ハ 櫓二棟 土蔵一棟のみ」という有り様で、鎮台側の強権発動の様子がはっきりと伝えられています。
 
 
 
<「放火」という手荒な手段の「城郭改変」が行なわれたのか?…>
 
 
 
現代ではややもすると、<加藤清正の築いた鉄壁の大城砦・熊本城が、西郷軍の猛攻をみごとにはね返した!> などと語られたりすることが多いわけですが、ここまでご覧いただいた現実の熊本城は、そんな話とは雲泥の差でありまして、しかもそこには <加藤清正の築いた鉄壁の熊本城> をあえて否定する明治の軍人たちの行動が、いくつも重なっていたことをお感じになったのではないでしょうか。
 
 
―――では、そんな籠城戦を指揮した「谷干城」とはどういう人かと言えば、土佐藩の上士の出身ながら、禄の低かった父親に「京都の御所の塀にもたれて死ね」と育てられ、幕末の倒幕運動(薩土同盟など)に加担した若者であり、そんな生い立ちから「四民皆兵(国民皆兵)」論者でした。

自ら「頑癖(がんぺき)」と語り、同じ土佐出身でも華やかなタイプの板垣退助とは犬猿の仲で、かえって長州の山県有朋と馬が合ったらしく、やがて戊辰戦争では新政府軍の一将として転戦し、甲府での仇敵・近藤勇の捕縛や会津若松城の攻撃などに加わりました。

新政府軍の砲撃をうけた会津若松城天守(ウィキペディアより)

戊辰戦争が終わると、薩長や板垣らが権力闘争を始めた新政府からの誘いを断り、土佐に帰って、土佐藩の兵制改革のためフランス軍の砲兵少尉(!)を招くなどしていた点が興味深いところでしょう。

まもなく再び陸軍に加わると土佐出身でただ一人の陸軍少将になり、征韓論をめぐって新政府が分裂すると、四民皆兵論者の谷は当然のごとく政府側に立ち、そんな谷に(後述の神風連の乱など)不平士族の反乱が相次ぐ九州の守り(=熊本鎮台)が託され、陸軍卿の山県有朋は「萬死の中に在るも熊本城は必ず之を保持せざる可らず」と伝えたそうです。
 
 
ですから例えば城南隠士著『谷干城 武人典型』(明治44年刊)という本には、籠城戦を決意した谷の檄文(げきぶん)?が載っておりまして、熊本市民の皆さんにはまたショックな内容が含まれるものの、現場の指揮官の心理をさぐる上では参考になりそうなので、長文ながら引用しておきます。
(※文中の「賊」はもちろん西郷軍のこと)

(『谷干城 武人典型』160頁より)

明治十年二月十四日 熊本鎮台にてハ 鹿児島私学校の徒 暴挙す可きの形跡顕然(けんぜん)たるを以て 此日 谷将軍ハ将校を本台に会して戦略を議すると左の如し

本台防戦の事に於てハ 進んで賊を薩界の険に要撃し 或ハ之を半途に迎撃するの策なきにあらず
然(しか)るに当城の兵 昨年十月 神風黨(しんぷうとう=神風連の乱)不意の襲撃を受けしより兵卒の気魄未だ全く当時の勇悍(ゆうかん)に復する能ハず
而(しか)して賊徒ハ素より強兵の名あり 且つ其怒気の発する処容易に当り難からん
如之(しかのみ)ならず県下の士族 賊に声息を通じ 予謀(よぼう)する所あるものの如くなれば 進んで賊を防ぐの際 別賊 脚下に生ずるの憂(うれひ)なきにあらず
其上 殊死(しゅし)の兇賊を平野に防ぐハ 固(もと)より其必勝を期し難し
一旦城外に迎へ戦ひ 萬一敗(やぶれ)を取る時ハ 兵気沮喪(そそう)して大に賊勢を長ずるに至らん
巳(すで)に沮喪するの兵を以て始めて守城を謀る時ハ 遂に堅守を期し難し
先きに陸軍卿(=山県有朋)ハ余に許する 攻守共に適宜にす可き の命を以てす
此れ本台の存亡ハ西国一般の人心に関するを以て 務めて万全を期するの意に他ならず
余は断然 守城の策を決し 賊を堅城の下に苦め 東京の援軍来るを竢(ま)ち 力を併せて賊を討ち 一挙に之を撈蕩(ろうとう)す可し
是れ実に周亜夫(しゅう あふ)が七国を苦しむるの策なりと

 
 
谷の必死の形相が見えそうな檄文のうち、神風連の乱(しんぷうれんのらん)は前年の明治9年に熊本で起きた士族反乱事件ですが、この時には熊本鎮台の種田政明司令長官が殺害され、その後も鎮台内(熊本城内!)で二日間の戦闘が続き、鎮台側の死者約60名、士族側の死者124名を出して鎮圧した事件でした。

そして鎮圧後に再度(二度目の)司令長官に着任したのが谷であり、上記文書に「別賊 脚下に生ずる」とあるとおり、彼は城外の戦闘では西郷軍に呼応した地元士族のゲリラ攻撃を受ける危険を感じたらしく、九州一円が騒然とする中での、孤立無援を覚悟の籠城であったことが分かります。

現に鎮台兵はそうとうに西郷軍や熊本の士族からバカにされたようで、熊本城址保存会が昭和4年に刊行した『西南役と熊本城』には、鎮台兵の生き残りの証言として「我輩が下宿から馬に乗って兵営に出勤する途中など、町の子供が竹の棒などで馬の尻をベタベタ叩き「くそちん…」と冷笑したものだ。「くそちん」とは糞鎮台と云ふ意味だ」と。
 
 
そんな鎮台兵(徴兵軍)を鼓舞して戦わざるをえなかった谷の心中は破裂寸前でしたでしょうし、この檄文の最後にある「周亜夫」とは、中国・前漢時代の内乱「呉楚七国の乱」の鎮圧に大活躍した将軍だそうで、呉王ほか七国の王が起こした反乱を鎮圧できたことで、その後の漢王朝はいっそうの中央集権化を果たせたと言いますから、この時の谷の情勢判断をうかがわせる一言です。

さて、両軍の兵力は、記録によって差があるものの、前出『西南役と熊本城』によれば、鎮台守備兵の合計3318名(野砲6門、山砲13門、舊砲7門)に対して、西郷軍の合計2万9100余名(山砲28門、野砲2門、臼砲30門)とあって、しかもなんと、西郷軍の中心人物・桐野利秋(きりの としあき)は熊本鎮台の初代の司令長官でもあり、その桐野が鎮台攻略を強く主張して戦闘が始まりました。

すっかり様変わりした熊本城に桐野は驚いた(拍子抜けした?)ことでしょうが、いざ攻めてみると、激戦は最初の二三日だけで、とても攻めきれない、と西郷軍は判断します。

それも『西南役と熊本城』の藤津参謀長の談によりますと、政府の援軍の来襲に備えたのか「(西郷軍が)攻城に用ゐた数は四千人位に過ぎまい」というのが実態らしく、「守城軍には野砲六門と山砲臼砲を合せて二十四門あるに引代へ、薩軍は僅(わずか)に六門」「そして内四門の砲は花岡山、島崎、安巳橋、長六橋と云ふ方面に据ゑ、二門は予備」「斯かる堅固なる熊本城を屠(ほふ)るのに僅に砲六門とは情ない」という風に、西郷軍は、持てる大砲の十分の一しか! 鎮台攻めに投入しなかったそうなのです。

それはいったい何故か、よほど熊本鎮台を甘く見たのか、甘く見えてしまったのか、それとも逆に、西郷軍の限られた弾薬において、暖簾(のれん)に腕押しの、底なしの徒労感に嫌気(いやけ)がさしたのか―――

【追記】赤紫の囲い文字が鎮台側の砲兵陣地
(※『西南役と熊本城』による/ →近世城郭の縄張りとは無関係に分散させていた!!)

 
 
 
<谷干城がねらったのは、たとえ城櫓が焼け落ちても、それは「落城」ではない、
 というコペルニクス的な一大転換だったか>

 
 
 
このあと西郷軍の主力は、有名な田原坂の戦いなどに転戦して行き、その後の50日にわたる熊本鎮台の籠城戦の方は、ナゾの本丸全焼でうっかり糧食も焼いてしまったことによる「飢え」との戦いに終始しました。
 
 
さて、これまで当サイトでは、江戸初期に「天守」の時代の終焉(しゅうえん)宣言を行なった人物として、奇しくも会津若松城主の、保科正之という人に注目してまいりました。

が、ここでもう一人、近代戦における戦術上の緊急性から(※明治維新の政治的なパフォーマンスではなくて)「近世城郭」に積極的な終止符を打った軍人として、谷干城という人物が、もっと注目されてもいいように感じます。

と申しますのも、会津若松城攻めに加わった谷が、砲撃の的として天守や高い櫓ほど格好のものはない、と感じたのは疑いないでしょうし、白虎隊の例からしても、砲撃によって黒煙をあげる城の姿は、味方に「敗色」を感じさせることこの上ない…(とりわけ徴兵の鎮台兵にとっては)と痛感したのではなかったでしょうか。

そこで谷が決断したのは、ならば開戦前にそんなものは全部無くしてしまえ、という大胆極まりない行動であり、良く言えば、城櫓が焼け落ちてもそれは「落城」ではない、というコペルニクス的な一大転換がはかられ、そこから近代戦での籠城戦勝利をねらったのではなかったか、と想像するのです。

ご参考)近代戦での砲撃に備えて、砲撃目標を無くした「稜堡式築城」の五稜郭

かくして、開戦前の突然の本丸全焼というのは、これはもう、谷らの意図的な「放火」によるものであったのは、ほぼ間違いないだろうにも関わらず、それが今日までずっと “ナゾの出火” とされて来たのは、ひとえに谷自身が(その後の政界での活躍等は『谷干城遺稿』他でつまびらかなのに)問題の出火の原因だけは、ついに一言たりとも語らなかったためでしょう。

本来ならば、日本史上(城郭史上)に残る輝かしい戦歴なのですから、これを自慢のタネにしてどんどん語ってもよかったはずなのに、出火の経緯については一切、口をつぐんでしまったのは、何故なのか。

……… 今回の記事では何冊もの本を参照させていただき、その中には『熊本城を救った男 谷干城』という文庫本もありましたが、以上のとおり、谷は熊本城の名城としての「名」は救ったかもしれませんが、城そのものは大いに破壊し、焼き尽くし、城下も焼け野原にした “張本人” と言わざるをえません。

おそらく谷は、東京に無断で「鎮台」に放火したのであり、そのことと西郷軍の火力(実際の大砲の数)を過大評価してしまったことが、その後に、出火の経緯について口をつぐんだ動機だろうと想像するのですが、自ら「頑癖(がんぺき)」と語った谷が、もとは土佐出身の勤王派だった、ということが、色んな面から、熊本城天守の焼失につながったように思うのです。

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