カテゴリー: 豊臣大坂城・石山本願寺城・徳川再建大坂城

 

有名な家康の西ノ丸天守が描き込まれたのかも……『大坂市街図屏風』の不可解な描写

【前回余談の付け足し】
今回の戦争は、独裁者の妄想=ロシア民族性とか中華民族とか 独裁者の勝手な民族解釈の恐ろしさ。 これに話は尽きるのでしょうが、その一方で「情報戦と日本人」という観点では、今後の大問題として、旧軍の大本営発表と ウクライナIT軍との “あまりの落差” が気がかりでなりません。
 
何故なら IT軍とは、語弊(ごへい)を恐れずに例えて申せば、あの 一色正春 元海上保安官が 30万人いる 国際的ネットワーク、ということにもなるのでしょうから…………

そういうケタはずれの事を 日本が国際的に組織できるか、呼びかけ出来るのか、と思うと、暗澹(あんたん)たる気分になるのですが、さらに「情報戦」で申せば、プーチンの進攻を言い当てたアメリカは、絶対に、<<ロシア軍のひどい準備不足 = プーチンのはったり戦略>> も、ちゃんと 見抜いていたはず(だが 黙っていた)――― と思えて来てなりません。

弾薬が誘爆して、乗員は 瞬時に 灰 になったはずの ロシア製戦車。
誘爆で砲塔が吹っ飛ぶのは、ソ連戦車にもよく見られた惨状のようで、
つまり上から叩くジャベリンは これを ねらって開発されたわけで……

【 情 報 戦 としての「リメンバー・パールハーバー」】
 
ではここで、あえて 軍人・武人の感覚 に成り変わって申しますと、「リメンバー・パールハーバー」とは、アメリカ太平洋艦隊の本拠地が、仮想敵国の軍にまんまと奇襲攻撃されてしまったという “情けない事態”! … に対して、当時のルーズベルト政権が、その危機を政治的に覆い隠し、挙国一致や反転攻勢につなげるための「一大政治キャンペーン」だったのだと感じざるをえません。
 
そしてその中で、日本人は宣戦布告を遅らせて不意打ちをした卑怯(ひきょう)な奴らであり、そんな奴らをやっつけずして、アメリカ魂はどこにあるのか――― と国民を奮い立たせることに成功したわけで、しかも、先に銃を抜いたのは奴らなのだから、どんな復讐をしてもいいのだ、と、そこで倫理的なタガが外れてしまったこともあったのでしょう。

ですから、現代において、米国の政治家が、国民を奮い立たせるべき重要な場面で「リメンバー・パールハーバー」という政治用語を使うことは大いにありうるのでしょうが、そのことと、実際の真珠湾攻撃がどういう作戦だったか(※もちろん軍事拠点のみが攻撃目標)という客観的な事実とは、それぞれが別の次元の話でしょうと、この際、申し上げておきたいのです。 その証拠には……

戦中から戦後まで、奇襲攻撃をゆるした責任を 問われ続けた キンメル司令長官
Admiral Husband Edward Kimmel (1882-1968)

――― で、今おきているのは、21世紀の「情報大戦」なのでしょう。
これが20世紀のベトナム戦争や 中越戦争・ソ連のアフガン侵攻とどう違うのか…… 攻められた側の強い「情報」発信や、当事者ではない大国の抑止的「情報」発信が、世界を巻き込んで、一斉に侵攻国を制裁して弱体化させる、という新しい処方箋(しょほうせん)が出来つつあるのかもしれません。

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まるで福井城みたいな 四重天守 が描かれた『大坂市街図屏風』(個人蔵)




(※よくよく見れば、破風の配置は福井城天守とも少し違うようで…)

さて、前回の、徳川再建天守の独自イラストをご覧いただいたブログ記事では、そのラストで、次のような「補足」を申し上げまして…

(※ 補 足 / 今回の話題の天守については、世間で「元和期大坂城天守」という言い方が広まっておりますが、元和年間はちょうど大坂城に “天守が無かった時期” に当たるため( あったのは焼け残った豊臣の天守台?…)聞いていて違和感を感じますので、当ブログではそう言わずに、また「復活」という意味を込めて、再築でもなく、徳川再建天守 と申し上げております)

と、「元和年間の大坂城」というキーワードが出ましたので、せっかくの機会ですから、私がずっと以前から気になっていた『大坂市街図屏風』の 不可解な描写 と、そこから読み取れる ある可能性(=ゲスの勘ぐり)を申し上げてみたいと思うのです。
 
 
 
< 有名な家康の西ノ丸天守が描き込まれたのかも……
 『大坂市街図屏風』の不可解な描写 >

 
 

描き込まれた城の全景部分

冒頭からご覧の『大坂市街図屏風』六曲一隻(※大阪城天守閣で常設展示?)は17世紀前半か中頃の作品と見られて来たもので、屏風全体の左側に淀川(大川)が流れ、中央から右側に大坂城や城下(かなり立派な二階家を含む市街)が描き込まれていて、徳川の治世のもとで、大坂夏の陣で破壊された町や城が復活する姿を伝えたもの、と言われて来ました。

しかし、私なんぞは、まずもって 天守が「四重」である点が 不可解に感じられてなりませんでしたし、より詳しく城の描写を見て行きますと、さらに不可解な点(→ 描かれた景観の時期がもう少し早いのでは?)が色々と見つかるのです。

どういうことかと申しますと…

毛利家文庫『大坂築城地口坪割図』

これは前々回の記事でもご覧いただきましたが、元和6~8年の徳川幕府による第一期の再建工事において、二ノ丸の西・北・東部分の石垣工事の 諸大名への分担を示した図(※中央の本丸は豊臣時代のまま)であり、この図を大坂市街図屏風と同様に「西北西から眺めた状態」に変形させてみますと…

といった感じになりまして、ここで、徳川幕府による再建工事は、南側=図中では右端の外堀の石垣工事(※実に壮観な高石垣の連なり)が いちばん最後に、言わば 最も後まわし! で行なわれた、という歴史的な経緯を踏まえたうえで、二つの絵図を上下に並べてみれば…

!! という風に、あまり気づかないものの、城の南側の建物群は どの屋根も板葺きでしかなく、どこか “粗末な感じ” に描かれていて、もしも そこが大坂冬の陣後に “破却されたまま” 取り残された領域で、自然発生的に建物群ができた状態… という風に仮定した場合、図の「豊臣時代の位置の本丸大手門」は、門の向きなど、まさに「本丸は豊臣時代のまま」という元和年間の大坂城に ぴったり なのです。

つまり『大坂市街図屏風』とは、元和年間から寛永初期までの、再建工事の途中段階という、非常に限定された時期の大坂の景観なのかもしれない… と思えて来たわけです。(→ そうなると当然、本丸には天守など無かったはず )
 
 
 
< なぞを解くヒントは二つ。「消えかかった貼り紙」と「藤紋の幕」>

 

内藤家の藤紋「内藤藤」

さてさて、屏風には 二つのヒント があるようでして、その一つ目はご覧の藤紋の幕であり、これはまず間違いなく、元和5年から寛永3年まで 初代の大坂城代を務めた内藤信正 の家紋ではないでしょうか。

→ → 内藤信正(永禄11年-寛永3年)の肖像画は こちら
(※新潟県村上市の藤基神社(ふじもとじんじゃ)に伝来の「内藤家歴代当主肖像画」より)

信正は、ご承知のように父の信成(※徳川家康の異母弟とも言われる)が関ヶ原合戦後に駿府城や長浜城の城主となった一族で、徳川将軍家からの信頼も厚く、信正自身は伏見城代などを経て、大坂城の再建工事が始まる時に大坂城代となり、前回イラストの徳川再建天守の完成直前に、寛永3年4月、城内の城代屋敷で死んだ、という武将でした。

となれば、内藤藤が描かれたこの屏風じたいが、内藤家の注文で制作された可能性も濃厚と言わざるをえないのでしょうが、当ブログの関心はあくまでも「描かれた景観年代」の方にあります。

――― 想像をめぐらせば、信正が城代として大坂にいた時期というのは、初め「城」そのものは焼け跡同然でもあったはずで(→ 例えば大坂陣の直後に入府した松平忠明は、城下に屋敷を設けて、そこで大坂の復興を進めたのですから)そこから城代として再建工事の進捗を見届けて、最後は天守の完成間近までを見ながら死んだ…… にしては、「四重」天守!! というのが、どうにも合点がいかないからです。

ならば、ひょっとして、屏風の制作が信正の死後ずっと後、というケースを考えてみますと、内藤家は代替わりとともに陸奥棚倉藩5万石に移封、また宝永2年に駿河田中藩へ、そして享保5年に越後村上藩に転じて明治維新を迎えたそうですから、想像をたくましくしても、その後の内藤家の居城の天守が描き込まれた… などという可能性は、ほとんど考える必要が無さそうです。

?? では、全然別のどこかの城の天守を、絵師が参照して描いただけなのか…… といった考え方も、せっかくの大坂城代の事績を “描き上げた” 屏風としては、ちょっと情けない話ですので、何かもっと別の事情があった可能性は? と考えますと…

<その期間の本丸は、途中まで 焼け跡同然に近かった>

という点に思い当たります。

………… ということは、もしや、絵師は「焼け跡同然の本丸」を そのまま描写するわけに行かず、思い余って、城内の別の曲輪を(絵画上で)強引に改変しながら “別の曲輪を さも本丸らしく” 仕上げたのではあるまいか、との疑いが浮上して来るのです。
 
 
 
< なぞを解くヒントのもう一つ。「消えかかった貼り紙」>

 
 
そこで俄然、注目されるのが、ご覧の「消えかかった貼り紙」でしょう。 ここに何と書いてあったかを推測しますと、残った一文字はおそらくは「る(留)」でしょうが、この場所に、わざわざ「にのまる」などと書くことはありえませんので、答えは「にしのまる」で間違いないのでしょう。

ということは、この絵は、城の中央のかなり広いスペースを「にしのまる」と想定したようで、本来ならあるべき「内堀」を描かず、まるで西ノ丸と本丸が地続きのようにもなっております。

ちなみに、江戸時代の西ノ丸には何があったかと申せば、文書や絵図によって色々と書き方があるようですが、大阪城天守閣蔵の『摂営秘図』によれば、南側から「御城代上屋敷」=豊臣時代は豊臣秀長屋敷など、「西丸跡御蔵」=同じく西ノ丸御殿、「御目付小屋」=同じく大野治長屋敷など、という風に並んでいました。

それに対して、『大坂市街図屏風』では、本丸との間にある内堀が消えてしまい、西ノ丸と本丸が “融合” して描かれておりますので、ひょっとすると… そこ全体が「にしのまる」の描写であって、言わば、大坂城のど真ん中に「にしのまる」が、極端に大きく、はめ込まれたのではあるまいか!?… 
そんな形で、焼け跡同然の本丸を描くことなく、しかも大坂城代だった内藤信正の事績(城代屋敷の主)を しっかりと 城全景のセンターで! 強調できた… という一石二鳥の画面構成なのかも、と。

(※この場合、天守右脇の貼り紙「ほん丸」は、その向こう側に本丸がある、との意味になるのでしょうか)
 
 
 
< ゲスの勘ぐり。内藤信正は、城内に焼け残っていた四重櫓(=有名な
  徳川家康の西ノ丸天守?)を目撃していて、それを本丸天守のように
  自家の屏風絵に意図的に描き込ませたのかも――― >

 
 
 
さあ、ここからは本当に、仮定の上の仮定の話になってまいりますが、私が申し上げたいのは、『大坂市街図屏風』とは、西ノ丸と焼け残っていた四重櫓=かの西ノ丸天守?を(向きを変えながら)本来の豊臣天守の位置にぴったりと合うまで、ググググウッと “押し込んだ” 形になっているのでは?… との推測です。

これは四重櫓=西ノ丸天守が、仮に西ノ丸の外堀に面した一角(※例えば現状の乾櫓の位置など)にあれば、水堀に面した描写とも一致したことでしょう。

こんな勝手気ままな推理が許されるのなら、ついでにもう一つ、付言させていただきますと、ご覧の絵と良く似た破風の配置で、高欄廻り縁のある四重天守と言えば、他の城にもいくつか類例があって、その筆頭は前出の福井城天守でしょう。

福井城天守(『御天守絵図』松平家蔵)

 

そしてもう一つ、沼田城天守も。

沼田城は、ご覧の『正保城絵図』では五重天守のようにも見えるものの、他の絵図では はっきりと四重天守と描いた作例もありますので、その場合は、これも非常に良く似た姿だと感じざるをえません。

―――― と、以上のごとき 推理(妄想?)の結論として、有名な家康の西ノ丸天守というのは <<破風を多用した 高欄廻り縁のある 四重天守>> であった可能性を、びんびんと 感じているところなのですが。……
 

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