日: 2009年6月22日

「ドーム」と海外に伝えられた安土城天主


「ドーム」と海外に伝えられた安土城天主

ご紹介しております安土城天主の「高さ12間余の蔵」。今回は、それが何重目まで達していたのか? という問題の手掛かりをさぐってみます。

小松城「本丸御櫓」/垂直に重なる上之間と石之間

前回、小松城の本丸御櫓の吹き抜け(石之間)は、その真上にある「上之間」御座敷の “格式を示すための様式ではないか” と申し上げました。

その理由は、この吹き抜けが透し彫りの格天井で飾られたほかに “何も無い空間” であり、したがって来訪者に華やかな天井で「上」や「天」を意識させることが、この場所の “唯一の目的” ではなかったかと思われるからです。

そうした特異な造形に関して、かつて櫻井成廣先生が面白い指摘をしたことがあります。

著書『戦国名将の居城』において、1736年(江戸中期)にパリで刊行されたシャルヴォア著『日本史』の中に安土城天主の紹介文があり、そこに「ドーム」という意外な言葉があることを指摘したのです。
(※この書物は安土城の銅版画でもお馴染みです)

シャルヴォア著『日本史』掲載の銅版画「安土城下の図」

(櫻井成廣『戦国名将の居城』1981年より)

同書は戦前すでに訳を完了したという老人があった(その人はシャルルワと発音していた)。その書はいまだに出版されていないが、従来日本には知られていない史料がいくつも含まれているので、ここに安土城に関する部分を少し訳して見る。
(中略/以下は訳文の一部)この塔は七重で日本の習慣にしたがっておのおのの階に屋根があり、おのおのの屋根と縁はその色彩のためにきわだって美麗であった。そこではおのおのの色を保存しまた更に引き立てるために、われわれのもっとも見事な鏡とほとんど同じ光彩を持ち、またいかなる風害にも耐えることができる漆が塗ってあった。
 
 
このように『日本史』には、当ブログでもご紹介した「赤銅や青銅に透漆(すきうるし)を施したバテレンの絵の銅板彫刻」という、岡部家(安土城天主の大工棟梁・岡部又右衛門の子孫の家)に伝わる話と相通じる表現があります。

そしてその表現の直後に「ドーム」という言葉が登場するのです。

(櫻井成廣『戦国名将の居城』1981年より)

この塔全体は頂上に一個の純金の冠を載せたひとつのドームのようなもので完成されていた。当時このドームは内側も外側も紺色やさまざまの絵やモザイクのようなたくさんの装飾で大層趣味よく飾られていた。そしてその豪華さを漆はさらに引き立てており、その絢爛さに人はそれから目を離すことも、見続けることもできないほどであった。
 
 
文中の「ドームのようなもの」について、櫻井先生ご自身は天主頂上の屋根の形と解釈し、自作の復元模型に丸い起り屋根(むくりやね)を採用しました。

ただ、この屋根の復元案はあまり多くの支持が得られなかったようで、その後、シャルヴォアの「ドーム」という貴重な一語も、ほとんど顧みられなくなってしまったのです。

松本城天守の木連格子/「モザイク」??

ところが、文中にある「モザイク」の語源はそもそも「寄木細工」だそうで、それが転じて、イスラム建築のタイル模様などもモザイクと呼ばれたそうです。

ですから、シャルヴォアが書いた「このドームは内側も外側も紺色やさまざまの絵やモザイクのようなたくさんの装飾で」という文章から、いきなりイスラム建築の青い “円形の” ドーム屋根などを連想してしまうのは、かなり大きな間違いを犯しているのかもしれません。

もし「モザイク」という一語が、天守の破風に多用された「木連格子」や、金沢城の「海鼠壁(なまこかべ)」のような意匠を伝えた言葉だとしたら、それで飾られた「ドームのようなもの」は、必ずしも屋根ではなく、建物全体(!)を示した可能性もありうるのではないでしょうか?

しかも『日本史』が出版された18世紀、欧州で「ドームのようなもの」と書けば、それは人々に「ドゥオーモ」、すなわち各地のランドマークであった「大聖堂(のようなもの)」と受け取られたようにも思われるからです。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(フィレンツェ)

前記「安土城下の図」/大聖堂のように(?)描かれた天主

イタリア・フィレンツェの街に君臨するサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は、15世紀に建てられたドゥオーモですが、1579年、ドーム屋根の天井にフレスコ画『最後の審判』を完成させました。

この年は天正7年、ちょうど安土城天主が完成した年でした。

ここで申し上げたいのは、天守とドゥオーモに建築的な影響があったか否かというような話ではなく、ただ安土城で “それ” を見たか、聞いた西洋人らが、結果的に本国に「ドームのようなもの」と伝えた認識の仕方に注目したいのです。

大聖堂の圧倒的な天井画は、人々に天上の世界を感じさせ、天に君臨する超越者 “神” の存在を意識させます。

それとほぼ同じことが、小松城の「吹き抜け」でも試みられた節があるのであって、それは安土城天主の吹き抜け(高さ12間余の蔵)が先例になっていたと思われるのです。

そしてその狙いは、やはり天上世界を思わせる天井の上に、主君(の座す座敷)が天を越える超越者のように見える形を示したかったのではないでしょうか??

櫻井先生の訳文もまた、そうした仕掛けの存在を傍証しています。

(前記の訳文より)
この塔全体は頂上に一個の純金の冠を載せたひとつのドームのようなもので完成されていた。

これを具体的に読み解きますと、信長の座す七重目(「御座敷」)が「一個の純金の冠」であり、その下の六重目以下は、まとめて「ひとつのドームのようなもの」であった、と解釈することも出来るでしょう。

そうした構想は、例えば『信長記』『信長公記』類に記された “障壁画も無い五重目” と “極めて華やかな六重目” という記録とも、ある意味 “符合” しているようです。

つまり五重目とは中心部の「蔵」の続きであって、その上の六重目は「ドームのようなもの」の天井画に相当していたのかもしれません。

「安土城天主 信長の館」の復元六重目

ということは、「高さ12間余の蔵」は六重目まで達していた(!)という予想外の答えに到達するわけで、それでは、かの “正八角形とされる八角ノ段” はどうなってしまうのか!? といった新たな疑問も噴出して来ます。

そうした疑問につきましては、また回を改めて、じっくり申し上げたいと思います。
 

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