日: 2009年10月12日

続報・失われた天主「心柱」の歴史


続報・失われた天主「心柱」の歴史

前回、安土城天主と姫路城天守に共通する「12間余」という数値から、草創期の天守には、或る種の “失われた心柱の歴史” があったのではないか、と申し上げました。

今回は、その仮説を補強する意味でも、重要な「本柱の継ぎ」についてお話させて下さい。
 
 
ご承知のとおり、姫路城天守の東西2本の「大柱」は、西側の1本が途中(四重目の床)で継がれていて、実際は上下2本の柱から成っています。

それを踏まえて、安土城天主の場合はどうかと『天守指図』を参照してみますと、下図のとおり、南側の「本柱」は、五重目(六重目)の中心部の柱と “同じ位置” にあって、これらは(姫路城と同様に)上下で継がれていた可能性もありそうなのです。

静嘉堂文庫蔵『天守指図』三重目と五重目の色づけ合成

図の赤輪で囲った柱がそれであり、上下に継がれた様子を、試しに前回の立体図に描き加えてみますと…

このように南側の「本柱」は、合計の高さが12間余に迫り、六重目の梁・桁に達していた、と考えることも全く不可能ではないのです。

(※また蛇足ながら、上部の+4間余の柱は、文献で三番目に記された「一尺三寸四方木」がそれであり、残りの「六尺四方」は吹き抜け周囲の柱群がそれであった、と考えるのは調子に乗り過ぎでしょうか?)
 
 
(尊経閣文庫蔵『安土日記』)

柱数二百四本 本柱長さ八間
本柱ふとさ一尺五寸四方 六尺四方 一尺三寸四方木

そして、前掲の五重目の図において注目すべき存在が、『天守指図』中の最大の階段でもある、「本柱」脇の長さ2間・幅1間の “大階段” です。

周囲の構造を検討してみますと、この階段は、一重目~四重目の「蔵」を登ってきた者が、五重目・六重目の吹き抜けに上がるための “区切り” の階段であり、この建物の中でも印象的な舞台装置の一つと言えそうなのです。

角度的にみて、この階段を登り始めたとき、すでに目線の先には、吹き抜けの華やかな格天井の一部が見えていた可能性があります。

おそらく「蔵」内部が比較的に素朴な造りであって、そもそも「金灯爐」で照らされただけの薄暗闇であったのに対し、六重目は窓の可能性があり、陽光が差し込む空間の格天井は、まるで別世界に出たような光景だったのではないでしょうか。

(※ちなみに上図と最後の図のように、居室エリアを登ってきた者は南東隅の階段から五重目に上がり、六重目に向かう階段の下、まさに「本柱」周囲の立体交差的な通路によって合流する形になっていたようです。)
 
 
そして、ひたすら「蔵」を登って来た者は、そこに納められる “収蔵品” との対比においても、問題の階段で劇的な印象に襲われることを、織田信長は企図していたようなのです。

(次回に続く)

六重目から七重目に向かう登閣路の推定

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