日: 2009年11月30日

ハイブリッド侍の古代回帰願望? 信長の心を読む


ハイブリッド侍の古代回帰願望? 信長の心を読む

長篠合戦図屏風に描かれた織田信長の本陣(大阪城天守閣蔵)

信長は一番大事なことを見事に言わなかった、と以前の記事で申しましたが、有名な「永楽銭」の旗印についても、信長は一言も、説明らしき言葉を残していません。

この旗印、現代で言うなら、自衛隊が “巨大なドル紙幣” を隊旗に掲げて戦場に現れたようなものでしょう。

で、この旗印をめぐる信長の意図について、真正面から解き明かした論考はさすがに殆ど見かけません。

――― この謎解きについては、「永楽銭」の意図が必ずしも “経済だけ” にあったのではなく、“永楽帝”(明の第3代皇帝)にもあったのだと考えますと、また別の推理が成り立ちそうです。

明の永楽帝(1360-1424)

と申しますのは、琵琶湖に大船を浮かべたり、総石垣の城を築いて七重の天主を建てたり、という信長の行動は、鄭和(ていわ)の艦隊を派遣し、自らも遠征して明の最大版図を築き、広大な紫禁城を修築した永楽帝にならったようにも見えるからです。

ご承知のとおり永楽銭(永楽通宝)は、そんな永楽帝の時代に鋳造され、日本に輸出されて日本の貨幣流通を担っていた銭貨です。

それを自らの旗印に掲げるという信長の行為は、見る側にも、それなりの「イマジネーション」を求めるものだったのではないでしょうか。
 
 
前々回の記事から「曹操」「始皇帝」「永楽帝」と、中国歴代のビッグネームを羅列して節操が無いと言われそうですが、実は、信長から百年ちょっと前の人物である「永楽帝」を含めても、そこに一貫するキーワードは「古代回帰」だったはずです。
 

上田信『中国の歴史09 海と帝国 明清時代』2005年

(上記書より)

マルクスが提唱した発展段階論にしたがって、数千年にわたる中国史を区分しようという論争がなされていたころ、一人の研究者が明代までは古代であると言い切った。
唐と宋のあいだに時代の画期を認め、宋代で中世は終わる、いや宋代から中世が始まるなどと他の多くの研究者が議論をしていたなかにあって、明代までは古代だというその主張は、注目はされたものの受け入れられることはなかった。
しかし、明朝の帝国が行った大運河の改修、鄭和の南海遠征、万里の長城の修築、北京郊外の明十三陵
(みんじゅうさんりょう)などの業績を見てみると、それは確かに古代的である。
近代の枠からはみ出してしまう巨大さがある。
中国史のなかに感覚的にこれと似たものを探してみると、秦が築いた万里の長城、隋が掘った大運河などが思い当たる。
古代から中世・近世を経て現代へと進むという直線的な時間の意識から自由になったとき、中国にまれに現れるこの古代的なものの系譜をたどることができる。

 
 
信長もこの「古代的なものの系譜」に魅せられた、ということはなかったのでしょうか?

例えば、一万人で巨大な「蛇石(じゃいし)」を安土山に引き上げた、などと伝わる安土築城は、安土山の全山を要塞化するもので、あたかも古墳時代の壮大な土木事業が復活したかのような「古代的な」パワーを感じます。

それにしても、なぜ信長や秀吉はそんな大事業をあえて “好んだ” のでしょう? ――そこには、或る倒錯した心理が働いたように思えてなりません。
 
 
信長は自らが推戴した足利将軍(義昭)を都から追放しましたが、本来なら、清和源氏の血を受け継ぎ 八幡太郎義家の末裔である足利将軍に比べれば、武家としての信長や秀吉など、どこの馬の骨かということにならざるをえません。

そうした「負い目」について、信長は気にとめた素振りを全く見せなかった(※秀吉は愚痴をもらした)ものの、実際は、信長も焦りを抱えていて、だからこそ「正倉院宝物」に手をかけたのではないかと、『正倉院の謎』の由水常雄先生は指摘しておられます。

(由水常雄『正倉院の謎』2007より)

いかに性急な信長とはいえ、まだ風雲急を告げる戦乱の最中のことであった。
天下を執ることを至上の目的として、疾風怒涛のように出現したこの風雲児は、まだまだしなければならないことがたくさんあるはずなのに、なぜそれほどまでに急ぎあせって、正倉院の蘭奢待入手を、寸時の暇もおかずに実行しようとしたのであろうか。

長篠合戦図屏風の信長(大阪城天守閣蔵)

そこで余談ながら、先日、CSの番組で哲学者の西部邁さんが、ソースティン・ヴェブレンについて発言しているのを見かけ、あらぬ想像をかき立てられました。
 
 
アメリカの経済・社会学者だったヴェブレン(1857-1929)は、ユダヤ人と日本人の強さを「ハイブリッド(雑種)の強さ」と分析したそうです。

この「日本人はハイブリッド」という分析の裏には、日本が明治の開国から50年で、日露戦争で大国ロシアに勝つまでになった姿が、一種異様な脅威として見えていた時代背景があったようです。

で、思わず――― 信長、秀吉の二代にわたる織豊政権のサムライたちもまた、大航海時代がもたらしたハイブリッド(雑種)の強さで、瞬く間に国内を再統一し、朝鮮半島にまで攻めのぼったのではないか… と、あらぬ想像をめぐらしてしまったのです。
 
 
信長の心の底には、古代回帰でさらにもう一段のパワーを得たいという、言わば “ハイブリッド侍の古代回帰願望” とでも言うべき、二律背反した心理がうごめいたのではなかったでしょうか。

ですからあえて申しますと、もしも信長や秀吉が、氏素姓に申し分のない高貴な武門の出であったなら、天守はこの世に誕生しなかった、とも思えて来るのです。…
 

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