日: 2009年12月7日

タコ足状の階段を周囲に伸ばしていた安土城天主


タコ足状の階段を周囲に伸ばしていた安土城天主

洋書版『宇宙戦争』表紙(1913年)

いきなりこんな写真から始めたのは、現代人の目から見ますと、きっと多くの方が「まるで宇宙戦争のロボットみたい…」とおっしゃるような姿を、ひょっとすると織田信長の安土城天主はしていたかもしれない、というお話をしたいからです。

この話には、40年ほど前の内藤昌先生の天主復元に始まる、紆余曲折のストーリーが含まれていて、まずは城郭ファンお馴染みのこの絵からご覧下さい。

陶板壁画「安土・南蛮図屏風」部分(安土町城郭資料館蔵)

この絵は内藤先生の復元に基づいて描かれた安土城天主ですが、絵の中央下あたりに、天主と天主台下を直接に行き来できる階段橋が描かれています。

この階段橋は、内藤先生の天主台跡の現地調査を経て考証されたもので、その後の “紆余曲折” をご理解いただくため、内藤先生の著書に掲載された実測図の一部を引用させてもらいますと…

内藤昌著『復元・安土城』掲載の実測図より(赤枠は天主台の東南隅の部分)



(※図は上が北東/赤青黒の筆文字は当ブログの補筆)

(内藤昌『復元・安土城』1994より)

(天主台は)東南隅辺においては、東側へ三段にわたって下がっている。
まず上から第一段は、『天守指図』にある「東ノ御いゑろうかノみち」に照応するもので、じじつ、直下の本丸御殿跡で引橋脚柱礎石が発見されている。

(中略)
中井忠重氏蔵の『名護(古)屋御城御差図』(元和元年頃)には本丸御殿奥より小天守台に「引はし」が記されているが、この安土城でも同様な施設があったわけである。
 
 
すなわち実測図の「第一段」とされた場所が、陶板壁画の階段橋の上端(降り口)にあたり、そこから伝本丸の「御幸の御間(みゆきのおんま)」とされる行幸殿に向かって、階段橋(内藤先生の言う「引橋」)が斜めに伸びていたと考えられたのです。

しかも、その強力な裏付けになったのが実測図の「引橋脚柱礎石」であり、これはやがて、静嘉堂文庫蔵『天守指図』じたいの信憑性を支える “物証” の一つとも見なされました。
何故なら…

静嘉堂文庫蔵『天守指図』二重目(図は上が北)

この図にある赤丸の天主台東南隅の石段がちょうど、問題の階段橋(引橋)の降り口にあたり、物証の礎石ともぴったり符合することになったからです。
 
 
ところが、世の流れは奇々怪々なもので、20年後に始まった滋賀県による大々的な発掘調査の結果、物証の「引橋脚柱礎石」は姿を消してしまった(!)のです。

事の次第をご理解いただくため、滋賀県の調査報告書に掲載された実測図をそのまま引用させてもらい、先の図面上にダブらせてみますと、驚きの実情が見えて来ます。

右下は『特別史跡安土城跡発掘調査報告11』掲載「天主台石垣下平面図」より

ご覧のとおり、「引橋脚柱礎石」は半分が「落石」と判定され、もう半分は、すでに痕跡も無かったのか、発掘トレンチの対象から外れているのです。

以来、『天守指図』の信憑性を支える “物証” の一つが消えてしまったせいか、内藤先生の復元はしだいに歴史雑誌等から姿を消し、代わって宮上茂隆先生ほかの復元が誌上をにぎわすようになったことはご承知のとおりです。

しかし当サイト(私)は、この天主台東南隅の階段橋はどっこい(笑)その可能性が死んではいない(!!)と考えております。

と申しますのは、滋賀県の実測図をもう一度ご覧いただきたいのですが、図中に「抜跡?」と書かれた礎石跡が、問題の「引橋脚柱礎石」よりやや北側に、二ヶ所あることがお分かりでしょうか?

この東西に並んだ「抜跡?」にご注目いただきながら、試しに、この上に『天守指図』二重目の図をダブらせてみましょう。

ご覧のとおり、滋賀県の「抜跡?」は、『天守指図』の石段の描写のまま一段下がった所から、真東に伸びて行幸殿の角隅に “ぴったりと着地する” ルート上にあるのです。

「抜跡?」はこのルートの北辺だけ(※問題の “落石” 周辺が南辺ならば幅1間強)ですが、本来、天主と「御幸の御間」を直接につなぐ階段橋を設けるなら、こうしたルートの方が合理的と言えるのかもしれません。

何故なら、伝本丸の御殿(行幸殿)と同プランと言われる、慶長年間に造替された清涼殿(京都御所)を例にとった場合、そのルートにあたる場所には、なんと「長橋廊」と呼ばれた紫宸殿との連絡路が、当時もあったからです。

現在の長橋と清涼殿
 
(※江戸期の古制復興による再建/長橋の突き当りは年中行事の衝立)

つまり、問題の階段橋(引橋)を想定することで、天主と「御幸の御間」の位置関係は、御所の正殿・紫宸殿と清涼殿の関係に見立てることも可能になるのです。

かくして内藤先生が考証した階段橋(引橋)は、可能性が死んでいないどころか、新たな認識を生むきっかけにさえなりかねません。

そして実は、安土城天主には、このような階段橋が “あと二ヶ所” は存在したと思われ、詳細はまた次回、お話してみたいと存じます。
 

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