日: 2010年4月5日

内藤案vs佐藤案 「多角形」天主どうしの対戦は?


内藤案vs佐藤案 「多角形」天主どうしの対戦は?

前回、安土城天主の歴代復元案の中から、特に宮上茂隆案と佐藤大規案を対比させて、天主台遺構と復元建築とのマッチングの具合にスポットを当てました。

そして今回は、別の復元案による対戦を “立体的に” 観戦してみましょう。
 

『天守指図』新解釈による天主台の形状(南北/赤ライン)

まずご覧の図は、まことに手前味噌ながら、かなり以前の記事(歴史の証言者「池上右平」の功罪)で作成した、当サイトの『天守指図』新解釈による天主台です。

このように、滋賀県による実測図(断面図)と『天守指図』二重目を素直(すなお)に重ねるだけでも、天主台の高さや形状(赤ライン)を割り出すことが出来ます。

その結果、天主台の南側と北側は、高さが1間ほど違うことが分かり、これがすなわち『信長記』の「安土ノ殿主ハ二重石垣」ではないのか? と申し上げたわけです。
 
 
上図は天主台を「南北に」切って見た形状ですが、ちなみに「東西に」切った場合は下図のようになります。

(※これらの断面はいずれも、天主台上の “一箇所だけ礎石の無い” 中心地点を通る線で切った断面)

『天守指図』新解釈による天主台の形状(東西/赤ライン)

この断面は、南北二段のうち南側の低い場所に当たるため、天主台は赤ラインのように想定でき、石垣遺構と天主台平面は特に問題もなく、きれいに整合します。

このように “立体的に” 見ることで、歴代復元案の中でも、似たように感じられる二案が、実は相当に違うものであることが鮮明になるのです。

内藤昌案 vs 佐藤大規案 (左右はともに同じ方角からの比較)


この両者は、ともに八角形(七角形)の天主台いっぱいに天主が建てられた、とする復元案ですが、その平面形の複雑さからか、両者がどう違うのか、詳しくは比較検討されたことのない二案です。そこでまずは…

内藤昌案による天主台の形状(南北/濃紺ライン)

内藤案はご覧のように、先生ご自身が “発掘” した『天守指図』がそのまま(「安土ノ殿主ハ二重石垣」を考慮せずに)段差なく天主台に載る形になっています。

そして指図と石垣遺構をマッチングさせるため、天主台南側の石垣だけに曲面(いわゆる扇の勾配/青矢印の部分)を導入せざるをえなくなり、これが前回登場の宮上茂隆先生の批判を招くことになった箇所です。

佐藤大規案による天主台の形状(南北/赤紫ライン)

一方、同様にして佐藤案を南北の断面図に重ねますと、これは殆ど問題なく整合することが分かり、試しに内藤案と佐藤案をダブらせてご覧いただきますと…

このとおり内藤案の天主台は、歴代復元案の中でもひときわ高いもので、石蔵(穴倉)の階高は佐藤案の倍ほどもあります。

安土城天主の高さは『信長記』『信長公記』類に「16間半」と伝わるものの、内藤先生は著書で「ふつう天守高さは、石垣上端より最上層大棟衾瓦上端まで」(『復元 安土城』1994)と発言し、それは一重目(石蔵)からではなく、二重目から「16間半」あったのだという、全体的に背の高い復元を行いました。

しかも、長さ8間と伝わる「本柱」(通し柱)が貫いたのは、『天守指図』そのままに下から三重目までとしたため、一重目(石蔵)の高さも相応の規模にならざるをえなかったのです。

しかし今回、是非とも注目いただきたいポイントは、佐藤案も総高では意外に背が高い、という点であり、内藤案と張り合う(!)ほどの総高に達しています。これはいったい何故なのでしょうか?
 
 
実のところ、佐藤案も、説明文には「高さが一六間半」とあるものの、他の多くの復元案と同じ方法で、石蔵内部の地面から最上階の屋根の棟までを測りますと、ゆうに19間近く(約18.7間)もあることが効いているのです。
 
 
これは、天守の高さについて、例えば広島城天守の伝来(「十七間六尺」)や岡山城天守の実測値(「六十尺九寸」)が、いずれも “最上階の桁の上端まで” を測った値であることを踏まえた手法です。

この手法ならば、計測に含まれない最上階の屋根部分の高さだけ、実際の天主は高くなるわけで、佐藤案の場合、これで2間以上高く復元できたことになります。

すなわち内藤案と佐藤案という、底辺のだだっ広い「多角形」天主が、どちらも総高を高く復元することに苦心した “舞台裏の細工…” が透けて見えて来るわけです。

さて、内藤案vs佐藤案の勝負の行方は、天主台を「東西に」切った断面図を見た瞬間に、突如として幕切れを迎えます。

内藤昌案による天主台の形状(東西/濃紺ライン)

内藤案はやはり石蔵の高さを保つため、西側の石垣に扇の勾配が含まれ、また東側は入口のための複雑な構造が設けられています。

一方、佐藤案は、石蔵の深さを、発表されている図面類のとおりとしますと…

佐藤大規案による天主台の形状(東西/赤紫ライン)

ご覧のように、天主の東側と西側に、天主台石垣との間に幅半間~1間ほどの “空き地” が出来てしまい、しかも東側は(内側の石垣遺構の角度がかなりユルイため)天主壁面が石垣の内側にズリ落ちてしまいかねない、ぎりぎりの位置になるのです。

各誌に掲載された佐藤案の図面類には、何故か、こうした “空き地” は示されておらず、また佐藤案を紹介したイラストやCGにも見られず、もちろんデアゴスティーニの模型にもこうしたディティールは存在しません。!
 
 
思えば佐藤案は、『信長記』『信長公記』類にある「東西17間 南北20間」という規模を実現しようと、南北に細長い形状を志向して復元をされたようですが、だからと言って、現存する石垣遺構との「整合性」を無視するわけには参りません。

またまた佐藤案には、「説明」をお願いしたい状況が出現してしまったのです。…

内藤昌案 vs 佐藤大規案 (ともに南東の方角から)

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