日: 2010年8月23日

それは日本建築史上、最大の楼閣だったか?


それは日本建築史上、最大の楼閣だったか?

鹿苑寺の「金閣」(昭和25年の焼失前の様子/ウィキペディアより)

(松田毅一・川崎桃太訳 フロイス著『日本史』第一部五八章より)

紫の僧院(大徳寺)から半里、あるいはそれ以上進むと、かつてある公方様が静養するために設けた場所がある。そこは非常に古い場所なので、今なお大いに一見に値する。同所には特に造られた池の真中に、三階建の一種の小さい塔のような建物がある。
(中略)
二階には、幾体かの仏像と、まったく生き写しの公方自身の像が彼の宗教上の師であった一人の仏僧の像とともに置かれている。回廊が付いた上階はすべて塗金されていた。そこは、かつては公方様の慰安のためだけに用いられ、彼はそこから庭園や池全体を眺め、気が向けば建物の中にいながら池で釣りをしていた。
上層にはただ一部屋だけあって、その部屋の床はわずか三枚の板が敷かれており、長さは(空白アリ)パルモ、幅は(空白アリ)パルモで、まったく滑らかで、たった一つの節もない。

 
 
ルイス・フロイスが遺した膨大な『日本史』の原稿は、ご承知のごとく数奇な運命をたどり、ようやく昭和50年代に松田毅一・川崎桃太両先生の翻訳で、現存する全文が日本語で読めるまでになりました。

とりわけ上記の第一部五八章、六十章、六一章などは、宣教師が京や奈良で見た建築物を精力的に描写していて、ご覧の「金閣」はむしろあっさりした部類で、三十三間堂、東福寺、興福寺、春日大社、東大寺(頼朝再建の!)はかなり長文での紹介になっています。

注目すべきは、そんな松田・川崎訳『日本史』の全12巻を通じて、金閣と同様に “階ごとに建物内部を描写した建物” は わずかに5例だけ、という点でしょう。(※全巻をチェックしました!!)

1.金閣(第一部五八章)
2.岐阜城山麓の信長公居館(第一部八九章)
3.都の聖母教会(第一部一〇五章)
4.安土の修道院(第二部二五章)
5.豊臣大坂城天守(第二部七五章)

わずかに5例と申しましても、これはもちろん母数が宣教師の訪れた場所に限られますし、また記載を見送った建物も数多くあったはずで、現に、この中には意外にも「安土城天主」が含まれておりません。

ですが、ここで是非とも申し上げたいのは、岐阜の「信長公居館」が、こうして金閣や南蛮寺と同様の表記法で書かれた以上は、やはり同じ「楼閣」だったのではないか、という印象に他ならないのです。

そこで今回は、ザックリとその楼閣の規模や意匠を推理して、それはひょっとすると日本建築史上、楼閣として最大、かつ最も豪壮華麗な建物だったのでは? というお話をさせていただきます。
 
 
 
<「地階」があった信長公居館の高さ、について…>
 
 
 
当ブログはこれまでの記事で「四階建て楼閣」と申し上げて来ましたが、より厳密には、その階数について、フロイス『日本史』とほぼ同文の『耶蘇会士日本通信』には、たいへんに気になる “一語” が紛れ込んでおります。すなわち…

(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)

第一階には十五又は二十の座敷あり。其ビオブ(黄金を以て飾りたる板戸なり)の締金及び釘は皆純金を用ひたり。座敷の周囲に地階と同平面の縁あり。甚だ良き木材を用ひたり。其板の光沢甚だしく鏡の用をなすことを得べし。縁の壁は日本及び支那の古き歴史を写したる甚だ美麗なる羽目板なり。
 
 
これは一階の紹介文ですが、赤字で示した「座敷の周囲に地階と同平面の縁あり」はフロイス『日本史』には無い情報でして、一階の座敷と縁の下にはそれと同平面(同規模)の「地階」があったと言うのです。

冒頭で申し上げたとおり、あれだけ各地で日本建築を見ていたフロイスが、よもや単なる床下程度のものを、わざわざ「地階」と書くとは思われません。やはりそれなりの高さや構造の「地階」があったのだとしますと、楼閣全体は相当な規模に達したようなのです。

それは後の五重天守を先取りするほどの規模だった!?

ご覧の模式図は、「地階」という問題の一語を踏まえつつ、さらに一階、二階、三階、四階のいずれにも「前廊」があった、と書かれている点をキッチリと反映させて、宮上茂隆先生のように三階を屋根裏階としてしまうような解釈はせずに、素直に描いてみたものです。

前々回も指摘しましたとおり、「前廊」は、『日本史』の用例から見て「縁側」か「廻縁」の類であることは充分に想像できますので、したがって全体のプロポーションは金閣・銀閣と同様の楼閣スタイルか、若干の変異形だろうと考えました。

「其板の光沢甚だしく鏡の用をなすことを得べし」(前出『耶蘇会士日本通信』より)

しかもその「前廊」は黒漆で仕上げられ、鏡のようだった、という一文は、後の安土城天主での「御座敷内外柱惣に、漆ニ而布を着せられ、其上皆黒漆也」との記録を想起させるもので、信長はそうとうに黒漆の仕上げが好きだったのだなと感じさせる文言です。
 
 
 
<信長公居館の意匠、について…>
 
 

西本願寺の「飛雲閣」(二階の縁の板戸に三十六歌仙の絵が描かれている/ウィキペディアより)

さて、前掲の一階の紹介文に「縁の壁は日本及び支那の古き歴史を写したる甚だ美麗なる羽目板なり」とある所は、思わず、後に建てられた飛雲閣の二階部分を連想させます。

では信長公居館では、ご覧のような華麗な板絵が一階を廻っていた、ということなのでしょうか。
 
 
ちなみに飛雲閣の場合、板絵は表と内側に一人ずつ描いていて、室内からも三十六歌仙が並ぶところを鑑賞できる形になっています。

思うに、引用文の「日本及び支那の古き歴史」という画題は、どちらかと申せば、文人墨客にまつわる絵の方が、岐阜城山麓の下段(「奥」)の茶室と同居した空間にはふさわしかったのかもしれません。

そうした点から、四階建て楼閣の一階は、会所のような広間を中心に、二十近い納戸や控えの間が連なる場所だった、と推理することが出来そうです。
 

【ご参考】金襴(きんらん)の縁取りの拝敷き → 愛知県の垂本畳店さんのサイトからの引用

さて、フロイス『日本史』の二階の記述には、「市の側も山の側もすべてシナ製の金襴の幕で覆われていて」という一文があるため、「金襴の幕」というのは、何か古代王朝風の幕が、御簾のかわりに廻っていたようにも言われて来ました。

ところが前述の『耶蘇会士日本通信』では、この部分の表現がやや違っておりまして、むしろこちらの方がずっと合理的に解釈できそうなのです。

(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)

宮殿の第二階には王妃の休憩室其他諸室と侍女の室あり。下階より遥に美麗にして、座敷は金襴の布を張り、縁及び望台を備へ、町の一部及び山を見るべし。
 
 
このように「座敷は金襴の布を張り」という形に「布」とされていて、しかも「座敷は」と畳敷きの間である前提で述べられています。

これは結局、金襴を畳の縁に使用したのだ、と考えた方が、古代王朝風の幕よりも、ずっと現実的なのではないでしょうか?

したがって『日本史』の方の「市の側も山の側も」という部分は、『耶蘇会士日本通信』の「町の一部及び山を見るべし」という箇所の形容詞と、取り違えた部分なのかもしれません。

さて最後に、三階の「茶室」問題についても、同様に『耶蘇会士日本通信』には見逃せない一文が加わっております。

(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)

第三階には甚だ閑静なる処に茶の座敷あり、其巧妙完備せることは少くとも予が能力を以て之を述ぶること能はず、又之を過賞すること能はず。予は嘗て此の如き物を観たることなし
 
 
つまり、この茶室は「予は嘗て此の如き物を観たることなし」というように、フロイスがここで初めて見たスタイルの茶室である、という重要な “ただし書き” が付いているわけです。

フロイスは大友宗麟の城も、都の将軍邸も、堺の有力商人の屋敷も訪れていて、そんな人物がこういう書きぶりを見せているだけに、信長の茶室はそうとうに奇抜なもの… 例えば、橋廊下の途中に設けた「観望の茶亭」だったのでは? などという妄想が思わず広がってしまうのですが…。

それは日本の楼閣で史上最大、かつ華麗なる意匠の集大成だったか

※岐阜城の話題は今回で一旦、終了いたします。

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