日: 2010年11月9日

中国皇帝か?キリスト教か?安土城に二つが同居できた理由


中国皇帝か?キリスト教か?安土城に二つが同居できた理由

宣教師がスケッチしたと伝わる織田信長像(三宝寺蔵)/絵をボカすと眼差しが浮きたつ…

前回は “信長の九龍壁” とも言うべき、安土城天主壁面の飛龍の絵(それが意味する歴史的メッセージ)についてお話しました。

しかしこの建物の上層部分には、やはり信長!と舌を巻くような、大胆な宗教的メッセージも隠されているように思われるのです。

 
 
論点3.青い銅板に刻まれたバテレンの絵とは…
 
 
(フロイス『日本史』東洋文庫版/柳谷武夫訳より)

(安土城天主は)七階建で、彼の時代までに日本で建てられたうち最も威容を誇る豪華な建築であったという。(中略)屋形の富裕、座敷、窓の美しさ、座敷の内部に輝く金、赤い漆を塗った木柱と全部金色に塗った柱の…
 
 
当サイトは、安土城天主は白い天守だった、と申し上げておりますが、種々の文献では金・青・赤・黒などの色も使われたことになっていて、「赤」は上記のとおり「赤い漆を塗った木柱」とハッキリと翻訳した文献があります。

――では「青」は何だったのか?

と申せば、これまでの諸先生方の復元はまちまちで、とても集約を図れる状態ではないため、当イラストでは、「青」は緑青のまわった銅板の色であり、柱や高欄や破風が「銅板包み」で被われていたものと想定してみました。

後世の施工例ながら、松前城の本丸御門に見られる銅板包み

「青」をこのように考えた場合、そのメリットとして、たとえ「赤」と「青」が同じ階にあっても目がチカチカするような配色にはならず、「赤」と「青」を別々の階と考える必要は無くなります。

そのため、例えば文献の「赤く、あるいは青く塗られており」(フロイス『日本史』)という記述は、間の句読点をはずして読む、という解釈も十分にありうることでしょう。

したがって天主の外壁は、フロイス『日本史』の表現を借りますと、上から「すべて金色」の階、「赤くあるいは青く塗られて」いる階、「黒い漆を塗った窓を配した白壁」の階、という3パターンに整理して考えることも可能になるのです。

さて、その「銅板包み」に関しては、かつて城郭研究のパイオニアの一人、櫻井成廣(さくらいなりひろ)先生がこんな指摘をしたことがあります。

(櫻井成廣『戦国名将の居城』1981年より / 下記の( )内は当サイトの補足)

その壁面装飾については珍しくかつ重要な史料がある。それは井上宗和氏が「銅」という業界誌に発表されたもので、安土城天主を建築した岡部又右衛門以言(これとき)の「安土御城御普請覚え書」である。
(中略)
それによると安土城天主木部は防禦のため後藤平四郎の製造した銅板で包まれていて、「赤銅、青銅にて被われたる柱のばてれんの絵など刻みたるに、塗師首(ぬしかしら)のうるしなどにてととのえ、そのさま新奇なれば信長公大いに喜ばれ、一同に小袖など拝領さる」という文句もあるという。
 
 
この文章によりますと、赤銅や青銅に透漆(すきうるし/半透明の漆)を施した珍しい意匠が採用され、しかもそこには「ばてれんの絵」が銅板彫刻されていた、というのです。

大天使ミカエルの絵

ここで言われる「ばてれんの絵」とは、おそらくは、当時、フランシスコ・ザビエルの祈願によって、日本の守護聖人とされた「大天使ミカエル」ではないかと想像できます。

しかしそうすると、安土城天主には、キリスト教のイメージと、前回の記事の中国皇帝のイメージが、ごった煮のように混在していることになってしまいます。
 
 
 
論点4.中心は中国皇帝の儒教なのか?キリスト教なのか?
    天主の意匠に「二つの主題」が同居できた理由

 
 
 
世間一般の認識でも、信長はキリスト教に肩入れする一方で、仏教徒(延暦寺僧や本願寺門徒)の殺戮(さつりく)を繰り返したことは有名です。

そのうえ、かの立花京子先生が著書『信長と十字架』で、信長とは「ポルトガル商人やイエズス会をはじめとする南欧勢力のために立ちあがった」武将である、と定義した時には、目の醒めるような思いがしたものです。

(立花京子『信長と十字架』2004年より)

「イエズス会のための仏教への鞭(むち)」であり、「イエズス会のために立ち上がった」武将であった信長は、イエズス会からの援助によって全国制覇を遂行していたからこそ、同会の布教状況を視察するヴァリニャーノに、全国制覇のそれまでの達成度を報告しなければならなかったのである。
京都馬揃えは、ヴァリニャーノへの全国制覇の事業報告の一つであった。それゆえに、ヴァリニャーノが訪れた天正九年(一五八一)にのみ行われたのである。

 
 
かく言う私も、世界史の中での信長や豊臣秀吉をもっと語るべきだ、という点では大賛成なのですが、しかし安土城天主の最上階には、中華世界の支配原理と結びついた「儒教」画が描かれていて、中国皇帝に近いイメージにあふれています。

いったい信長の頭の中では、儒教が中心だったのか、キリスト教が中心だったのか、そのいずれでもなく本当に宗教心が無かったのか、とんと解らなくなりそうです。

この問題は、天守とは何かを解明するうえでも重要な課題ですが、実は、そんな大きなナゾを一発で「氷解」させてしまいそうな本が、これなのです。…

岡本さえ『イエズス会と中国知識人』2008年

この本の主たる言及の対象は、表紙に描かれた宣教師マテオ・リッチと明朝官人の徐光啓という二人の人物です。

リッチは(言わば中国版のフロイスのごとく)中国布教の切り札として送り込まれた語学堪能な宣教師であり、一方の徐は(言わば信長のようなヒラメキで)富国強兵のためにイエズス会の科学技術に目をつけた大臣でした。

この二人を中心に、布教拡大のための手立てとして、なんと儒教と天主教(キリスト教)は、言わば同根の宗教であり、矛盾しないもの同士なのだと(!)されたそうです。

それはちょうど日本で、信長が本能寺の変で横死して間もない時期に…。

(岡本さえ『イエズス会と中国知識人』2008年より)

儒家でないと中国知識人の信頼と協力をえられないことがわかり、リッチは教皇の許可をえて服装も儒服にした。キリスト教のデウスを中国語で天主と呼び、キリスト教を天主教とすることも決めた。
(中略)
同時にリッチは、古代中国の儒学はキリスト教と一致すると認め、古典に出てくる上帝はキリスト教の天主と同一である、と教理問答『天主実義』に書いた。
(中略)
(徐光啓などの高官や名士である)彼らはリッチが「中華を慕って泰西から九万里を航海」してきた外国人とみなして、その説教である天主教は儒教聖賢の言葉に背かないし、彼の世界知識は仏教や道教よりもしっかりしていると認めて、耶蘇(イエズス)会の活動を容認するようになる。
 
 
当時、儒教とキリスト教にはこんな “親和性” がありえたことを、いったい日本人の誰が見抜いたでしょうか。

日本国内では仏教とキリスト教が衝突するばかりで、儒教とキリスト教の関係性に思いをめぐらせた者など、皆無であったかもしれません。

日本人でただ一人、それに気づいた人物、織田信長を除いては……

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