日: 2011年6月15日

皇帝vs八幡神 …信長と秀吉の天守にあらわれた人心収らん術の相違



皇帝vs八幡神 …信長と秀吉の天守にあらわれた人心収らん術の相違

かねてから申し上げて来ましたように、天守とは、それまでの日本の歴史や武家の伝統などを引き継いで出現したものではなく、主に当時のほんの二、三人の人物らの想念が形になって現れた、まことに作為的な造形物だったように思われます。

(小島道裕『信長とは何か』2006年)

そびえ立つ天主(天守と同じ意だが、安土城では天主と表記されている)という垂直的なシンボルは、連歌や一揆に象徴されるような、平等原理を基本とした室町時代の社会のあり方や、庭や犬追物といった水平的なシンボルを特徴とする室町幕府的な館のあり方とは正反対のものであり、天下人を頂点として、上位の人間が下位の人間に対して絶対的な優位に立つピラミッド型の権力のシンボルである。
 
 
小島道裕先生のこのような指摘や、また千田嘉博先生の「戦国期拠点城郭の発展形態として出現したのが信長・秀吉スタイルの城でした」(『戦国の城を歩く』)という発言、そして中井均先生監修の「それまでの城にも、確かに高層建築物は存在していた。しかし、その高層建築物を城内の最も高所に築いて、自分の居住施設とし、「てんしゅ」と呼ばせたのは、信長の安土城からである」(『日本の城』)といった文章など、織豊期城郭の曲輪(くるわ)配置の強い求心性と天守の出現とを関連づけるような考え方が、近年とみに勢いを増しております。
 
 
で、思いますに、その(天守 “創造” の)ねらいは決して自領内の統治にとどまるものではなかったはずで、何故なら狭い自領だけのことであれば、従来どおりの支配のスタイルで何の不足も無かっただろうからです。

したがって天守 “創造” の動機には、その頃、全国政権としての統治のあり方を模索する立場に立っていた、織田信長や羽柴(豊臣)秀吉という成り上がりの “貴種の生まれでない天下人” の強い渇望があったように思われるのです。
 
 
その点に関しては前回、「秀吉流天守台」のお話を続ける中で《秀吉の天守と鶴岡八幡宮》という話題に踏み込んだ経緯もありましたので、この機会に一度、信長と秀吉の天守から見えて来る、足利将軍追放(室町幕府消滅)後の人心収攬(しゅうらん)術の模索について確認しておくことに致します。

当サイトの安土城天主の推定イラスト

ご覧のイラストを解説した以前の記事の中で、壁面の「龍」はひょっとすると印判状の紋章であって、さながら中国の九龍壁の「九五之尊」によって「皇帝」を示したのかもしれない、と申し上げました。(→参考記事

その点では、前出の小島先生はこうも発言しておられます。

(小島道裕『信長とは何か』2006年)

信長が中国を意識し、自分を皇帝になぞらえようとしていたことは間違いないだろう。天皇を超える権威として存在していたのは、中国の皇帝しかいない。少なくとも信長の意識としては、安土はすなわち、天主の下に天皇を従えた「皇帝」たる信長の都市として意味づけられていたと考えることができる。
 
 
まさに「信長の九龍壁」は城下町の中心に向けられていたわけですが、しかし小島先生が同書で「天下統一の戦争というものが本当に必要だったのかどうかは自明なことではない」ともおっしゃっているとおり、戦国の世で、信長ただ一人が天下統一(再統一!)を叫んでいたわけで、そうした早過ぎた革命児の末路(本能寺の変)が、「皇帝」云々の真の意図を判らなくしてしまいました。

そして秀吉の天守には別種のおびただしい紋章群が… 大坂図屏風(大阪城天守閣蔵)より

その点、後継者の豊臣秀吉は、信長が果たせなかった天下統一を成し遂げた上で、諸大名を総動員して朝鮮出兵に踏み切るという、信長同様の政治目標に(その結末は別として)到達することが出来ました。
 
 
そうした秀吉の天守の中には、ご覧の屏風絵のように、日本の城郭建築には似つかわしくない、異様な表現で描かれた天守があることはご存知のとおりです。

上の『大坂図屏風』の天守がそれで、壁面にはおびただしい数の金色の紋章群が並び、屋根には金色の彫刻充填式の破風が据えられ、軒瓦にも金箔が押されています。ここまで黄金づくしで飾り立てられた天守は、他に類似例もありません。

このあまりの異様さから、おそらくは “黄金関白の城” を誇張して描いた特殊な例と解され、これを詳細に検証しようという試みも殆ど行われて来ませんでした。
 
 
そこで問題の屏風絵をよく見てみますと、天守には「菊紋」「桐紋」「左三つ巴紋」「牡丹唐草」の四種類の紋章が配置されています。

菊紋(十六八重菊)     桐紋(太閤桐)     巴紋(左三つ巴)

そのうち、ご覧の「菊紋」「桐紋」「三つ巴紋」の三種類は、前回にお話した鶴岡八幡宮など我が国の八幡信仰の起こりと言われる、宇佐神宮の神紋と同様であることが分かります。

これは秀吉が自らの死後に「新八幡」という神号を贈られることを願った件(フランシスコ・パシオの報告)を踏まえますと、問題の天守におびただしい紋章群が掲げられた意図について、改めて検証してみる価値は大きいと思われるのです。
 
 
 
《 辺境の地で「軍旗」に降り立つ神、八幡神 》
 
 

宇佐神宮 本殿

平安時代に関東で蜂起した平将門や、石清水八幡宮で元服した源義家、平家物語の那須与一など、日本のあらゆる武家が武運を祈ったのは「八幡大菩薩」でした。

大分県宇佐市に鎮座する宇佐神宮は、その八幡信仰の発祥地にして、全国に四万社以上あるという八幡宮(八幡神社)の総本宮です。
 
 
その本殿には、祭神の八幡三神を祀る社が横に並んでいます。

一之御殿の祭神は八幡大神(はちまんおおかみ)であり、社伝(『八幡宇佐宮御託宣集』)によれば、第十五代天皇の応神天皇(誉田別尊/ほんだわけのみこと)の霊であるとされています。

二之御殿の祭神は比売大神(ひめおおかみ)であり、これは地方神の宗像三女神であるとも、また別説には応神天皇の后神とも言われています。

そして三之御殿の祭神が、応神天皇の母、神功皇后(息長帯姫命/おきながたらしひめのみこと)です。
ご承知のように、神功皇后(じんぐうこうごう)は軍勢を率いて朝鮮半島に渡り、百済・新羅・高句麗の三国に朝貢させたという「三韓征伐伝説」(『日本書記』)の主人公です。
神功皇后は応神天皇を妊娠したまま出陣し、帰国して出産したとされています。

これら三つの社が現在の形に整ったのは弘仁14年(西暦823年)と伝えられ、社殿全体は南に見える御許山(おもとやま)を向いて建立されています。

この山は八幡神が馬に乗って出現したという民間伝承のある山ですが、例えば、山を御神体とする神社はその山を背にして建立されるものであって、その点、宇佐神宮は反対に山側(九州内陸部)を向いて建っているのです。

御許山と周辺の山々

飯沼賢司『八幡神とはなにか』2004年

何故このような形なのか、別府大学の飯沼賢司先生は、これは八幡神の起源にかかわる問題であるとして、次のように指摘されています。

(飯沼賢司『八幡神とはなにか』2004年より)

八幡神はその成立の時から、国家というものを背負って登場し、発展してきた。鎮座した宇佐という場所は、古代国家の西の国境であり、八幡神はやがて西方鎮守の神から大仏建立を契機に国家の鎮守神へと変身した。
 
 
すなわち八幡神は、古代国家が九州の「隼人」と戦う中で神として現れたもので、その直接の契機は、和銅7年(西暦714年)、隼人側の大隈国の真っ只中(辛国城)に古代国家が豊前の国人衆を入植させたことでした。

社伝に「辛国城(からくにのしろ)に始めて八流(やつながれ)の幡(はた)と天降りて、我は日本の神と成れり」とある瞬間が訪れたのです。

(飯沼賢司『八幡神とはなにか』2004年)

入植民は、周囲の隼人の人々と常に緊張状態にあり、その緊張と争いの中で、「八流の幡」がその城に天降ったのである。
まさに対隼人との戦いの際の軍旗に降りた神であった。

 
 
秀吉が自らの死後にまでこだわった「八幡」とは、その起源をたどっても、辺境の地に立って新たな国境を守護する神であり、最前線の尖兵らの軍旗に降り立つ神、すなわち「軍神」であったのです。

(※次回に続く)

  皇帝        vs      八幡神

足利将軍の追放後に、いかにして戦国の世(分裂国家)を再統一するのか…
信長と秀吉、それぞれの深意は天守の紋章群に??

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