日: 2011年9月7日

秀吉の “闘う天守” が出現した天王山



秀吉の “闘う天守” が出現した天王山

天王山山頂の「山崎城」の二ノ丸の井戸跡 / でも現地の看板は「天王山城」と…

山崎城(京都市)は羽柴秀吉が天下取りに名乗りをあげた城であり、秀吉の城を語る上ではかなり重要な存在だと思うのですが、世間的にはどうも名称の定まらない城であり、諸先生方もこの城をバラバラの名称のまま呼んで来られました。

「山崎城」平井聖ほか編『日本城郭大系』/「天王山宝寺城」村田修三編『中世城郭辞典』/「山崎宝寺城」西ヶ谷恭弘編『秀吉の城』…

さらには「宝寺城」「宝積寺城」「鳥取尾山城」とも呼ばれたそうでして、そもそも天王山は全国的に非常に有名な山なのですから、冒頭の写真のとおり「天王山城」でいいのではないかと思うものの、やっかいなことに、京都府内にはもう一つ「天王山城」(綾部市)があるそうで、本当にツイてない城です。

(※ただし綾部市は昔の丹波国ですから「丹波天王山城」としてもらう手はあるのかもしれません…)
 

秀吉の天守は “次の攻略目標” を指し示していた!?

山崎城の天守の外正面 → 北向き → 次は北ノ庄城の柴田勝家が攻略目標か

では、本題に入りますと、当ブログは以前の記事(→ご参考)において、秀吉の天守群は “次の攻略目標” を指し示していたのでは? との仮説を申し上げました。

その最初の事例が、山崎城の天守、と想定しております。

このことから申しまして、山崎城天守というのは、それまでの織田信長の天主には無かった、秀吉独自の解釈が加味された天守のようにも感じられ、それは言わば “闘う天守” という性格付けではなかったかと思うのです。
 
 
これまで当サイトは一貫して「天守は戦闘を主たる目的とした建造物ではない」「現にどの籠城戦でも戦の司令塔(=城主の御座所)であった試しは無い」と主張してまいりましたが、秀吉の天守群は「必ず本丸の塁線の一角に設ける」という鉄則があり、そうした点から「天守の軍事性」を指摘される先生方も(例えば城郭談話会の高田徹先生を筆頭に)いらっしゃいます。

そこでこの機会に、当ブログの秀吉流天守台の話題も兼ねて、この “闘う天守” についてお話してみたいと思うのです。
 
 
 
<はじめに 天守台の規模をめぐる疑問>
 山崎城の天守台跡は、諸書の縄張図の想定よりもずっと小さく、
 実際の天守は、その小さな天守台跡いっぱいに建てられたのではなかったか?

 
 

石垣の痕跡から類推できるのは、約10m四方?の天守本体と付櫓か


(※写真はクリックで拡大してご覧になれます)

これまでに公表された縄張図をもとに、天守台の規模は「東西35m南北20m」などと言われますが、現地にのこる石垣の痕跡を見ますと、それよりもずっと小さなもののようで、天守はその小さな台上いっぱいに建てられた印象があります。

この城跡はまだ発掘調査が行なわれていないらしく、早く専門家の方々の調査をお願いしたいところですが、少なくとも現状の天守跡からは、前回の記事で取り上げた秀吉時代の姫路城と同じく、方丈建築の影響を感じ取れるような気がいたします。

初重の規模が10m四方と聞いて “ずいぶんと小さい…” とお感じになった方のために挙げてみたのが、ご覧の絵でありまして、これは大坂冬の陣図屏風に描かれた豊臣大坂城の本丸奥御殿の櫓です。

当サイトでは、この描写は、実際には奥御殿の北西の「月見櫓」ではないかと考えておりますが、『兼見卿記』によれば、山崎城の天守は大坂城の築城が佳境に入った頃に解体・撤去されたそうですから、まさにご覧の描写の櫓と 現地の「10m四方」は、よく合致するのではないかと思うのですが……。
 
 
 
<山崎城から始まった、秀吉とその家臣団の天守周辺のデザイン>
 
 
 
で、前出の高田徹先生は、例えば下記の「天守は城内のどこに築かれたか」という論考において、会津若松城などを例に挙げつつ、次のように指摘されました。

(※なお当サイトでは、会津若松城の基本構想は、豊臣大坂城と瓜二つであることを度々申し上げています)

別冊歴史読本『天守再現』1997年

(高田徹「天守は城内のどこに築かれたか」/別冊歴史読本『天守再現』より)

会津若松城では中心部分を天守台を含んだ石塁(上部に走長屋と呼ばれる多聞をのせる)で二分し、内側を本丸として本丸御殿や茶室などを設けている。
(中略)
北出丸、西出丸から土橋を渡り、虎口を通過して帯曲輪内部に進むと、眼前に天守と天守台がその進行を阻むように立ちはだかる。

論考に掲載の図(会津若松城の本丸)

(引用文の続き)

会津若松城の天守が飾りものに過ぎなければ、あえてこのような位置に築かなくとも、本丸の奥まった位置に築くことですむ。
それがなされていないのは、この天守が侵入者を余さず監視し、また侵入者に対して視覚的な威圧感を与える役割をもっていたからと考えられる。

 
 
という風にして「天守の軍事性」が指摘されたわけですが、これに関して、私なんぞが二点だけ申し上げてみたいのは、まず <「侵入者」と言うよりも「来城者」への威圧感の方がずっと効果発揮の頻度は高かったであろうこと> であり、そして万が一の侵入者(敵兵)の場合には <そこまで敵勢に踏み込まれて、この城が最終的に落城をまぬがれることは100%有り得なかったのではないか…> という厳しい見方なのです。

―― ならば何故、築城者の蒲生氏郷(がもう うじさと)(…そして秀吉)は、あえてそのような位置に天守を築いたのか? と申せば、それはきっと、本丸の最期の防衛は、天守が一手に引き受ける、という役割分担の明確化であり、かつ、その天守脇を敵勢に突破された時こそ、落城の瞬間であるという、戦闘者特有の “見切り” だったのではないでしょうか。

そんな “戦闘者の覚悟” のごときものは、おそらく織田信長のころの天主にはまだ存在せず、秀吉の頃から与えられた性格付けであって、それがあまたの大名家の天守に影響し続けたように思うのです。

で、そんな天守周辺のデザインが、山崎城に始まったのではなかったでしょうか。
 

薄ムラサキ色のハレ(表)の領域と、土色のケ(奥)の領域。
その真ん中の「結界」の場に天守が…

会津若松城/天正18年(1590年)築城

山崎城/天正10年(1582年)築城

ご覧のとおり、二つの天守の位置は、ともに本丸の一角を占めながら、その反対側に天守を被うような曲輪(帯曲輪…薄ムラサキ色の領域)を伴っております。

そしてこの曲輪は、例えば豊臣大坂城では「山里曲輪」(旧表御殿!)に、石垣山城では「西曲輪」に、そして肥前名護屋城では「遊撃丸」や「二ノ丸」に、という風に、しだいに変容しながら常に秀吉の城に設けられたものでした。

豊臣大坂城の場合/天守は詰ノ丸の左手前隅角

そして常にその間(=結界)に建てられた天守は、かねてから申し上げている「詰ノ丸の左手前隅角」という信長の作法を応用しつつ、“闘う天守” として、うまく本丸の塁線の一角にはめ込むことに成功した、と言えるのではないでしょうか。

で、そのためには「秀吉流天守台」の形状がぴったりであったことにも、是非ご留意いただきたいのです。
 
 
―――では、秀吉はこのアイデアを、いつごろ、どこで、誰から得たのか? と言えば、そのヒントは(近年は殆ど聞かれなくなった城郭用語ですが)戦国期の畿内のいくつかの城で見られた「中央櫓(ちゅうおうやぐら)」にあるのではないか… と感じておりまして、これはまた回を改めてお話させていただきたく思います。
 

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