坂本城?長浜城?大津城… 秀吉流天守台の原形を琵琶湖にさぐる
このところ、ご覧の付櫓(つけやぐら/続櫓)に特徴のある「秀吉流天守台」の話題を続けておりますが、この辺で一旦、中締めをさせて戴くため、今回は、その形状の由来について、(以前に触れた「中央櫓」よりも)ずっと直接的な原形が、琵琶湖畔のいわゆる「浮城」群に出現していたのではないか… というお話を申し上げたいと思います。
大津城天守の移築とされる、彦根城天守
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(『国宝彦根城天守・附櫓及び多聞櫓修理工事報告書』1960年に掲載の図より作成)
ご承知のとおり彦根城天守は、かつては琵琶湖対岸の大津城にあった天守を移築(部材転用)したものとされ、図の「多聞櫓」はやや後世の増築らしいものの、天守本体と「附櫓(つけやぐら)」は築城後まもなく揃って完成(慶長11年頃)したことが判っています。
何より興味深いのは、その天守と附櫓に転用された部材から、前身の建物(大津城天守)の概要が推定されていることで、その初重の平面は、下図のように、四角形と台形が組み合わさった形をしていたそうです。
何故そのように言えるのか、工事の報告書によれば…
前掲報告書に掲載の図(「前身建物推定平面図」)
(報告書の説明文より)
幸い各部材には旧の位置を示す番付や符合が陰刻されていて、この番付や部材寸法等により前身建物の規模を推定することが出来た。
(中略)
「一ノ一」の隅柱を調査してみると、柱への貫穴が矩の手にあけられているわけであるが之が直交せず片方の穴は斜にあけられていた。これはこの隅で建物が直角に組まれていなかったことを示す。
更に「一ノ四」の柱を見た所、貫穴はまともであったが、梁の仕口が直角でなく、斜に穴をあけられていることが認められた。
なお同種の柱が外に二丁あり、挿図の右端の柱通りである「一通り」が、桁行とは直角でなく斜になっていたものと考えざるを得なかった。
この傾きの角度は柱間六間につき一間だけ傾いているとの結果が得られた。
(※報告書には工事関係者として「滋賀県文化財係長(工事監督)大森健二、同技師(工事主任)清水栄四郎…」等とあります)
このようにして判明した傾きのため、大津城天守の一隅は約100度という鈍角(どんかく)であったとされるのですが、この角度、他の天守や天守台(例えば豊臣大坂城や犬山城)にも似たような角度がついていたことは、城郭ファンに良く知られています。
豊臣大坂城天守 犬山城天守
大津城天守 (彦根城天守)
各天守の平面図を並べてみますと、ご覧のように「付櫓」と「鈍角」の位置関係もまた、秀吉流天守台の成り立ちに関係しているように感じられます。
―――で、ここで最も肝心なことは、<では何故、その一隅だけが鈍角なのか?>という素朴な疑問でしょう。
報告書はそうした疑問に答えていませんが、ごく常識的な連想として、少なくとも彦根城(大津城)の場合は、前身の天守が本丸石垣の鈍角の一隅に建っていたことを示唆しているのではないでしょうか?
<大津城と同じ琵琶湖 “浮城” 群の一つ、膳所城(ぜぜじょう)の場合は…>
本丸の左手前「隅角」に天守!/滋賀県立図書館蔵の膳所城絵図より作成
話題の大津城が関ヶ原合戦時の砲撃戦の惨状で廃城となり、その後継として至近に天下普請されたのが膳所城(現在も同じ大津市内)でしたが、以前の記事(→ご参考)で申し上げたとおり、その天守は「本丸の左手前隅角」という織田信長の天守位置を踏襲していたように思われます。
その詳しい位置や規模は発掘調査で判明していて、鈍角というよりも、やや鋭角の隅角に建っていたそうです。
そこで試しに、冒頭の彦根城天守をその位置に重ねてみますと…
膳所城天守(図の赤い天守)の位置に
彦根城天守(青い天守)を重ねてみると…
(※『膳所城本丸跡発掘調査報告書』1990年に掲載の測量図より作成)
決して二つの天守に直接の関係はないものの、ご覧のとおり、ともに直角でない隅角に対応できる形をしていて、例えば何か別の天守(言わばミッシングリンク…)を介した関連性が感じられるようです。
また、このようにして初めて合点がいくことは、彦根城天守とは、まず附櫓で「鈍角」にも対応でき、次いで多聞櫓とその石垣で「鋭角」に切り返すデザインになっていた、ということでしょう。
一方、膳所城天守にはいっそう長大な多聞櫓がめぐっていて、その石垣の屈曲の具合を見ますと、それらはなんと、豊臣大坂城の詰ノ丸奥御殿の石塁にたいへん良く似た形状になっているのです。
膳所城の石垣 豊臣大坂城の石塁
このように一連の城郭群(豊臣大坂城…大津城…彦根城…膳所城…)は、天守周辺のデザインに関して、それぞれに影響を及ぼし合った痕跡を残しているようです。
<ならば秀吉自身の居城・長浜城や、明智光秀の坂本城はどうなのか?>
やはり大津城の天守も、本丸の左手前隅角の「鈍角」にあった!?
(※『新修大津市史』1980年に掲載の図より作成)
ここまで申し上げた内容から、諸書に掲載中の大津城の推定復元図を踏まえて、その本丸の南西隅の「鈍角」部分(現状はマンションのパークシティ大津)に天守はあったのではないか、と想定してみました。
なお、諸書の推定復元図の中には、この隅角に「橋」を復元したものもありますが、やはりこの位置が最有力だと思われます。
反面、ここから特段の発掘報告が無かったのは、廃城後の変転で天守台が失われたか、または(チョット矛盾するように聞こえるかもしれませんが…)むしろここは初めから「台」そのものが無い形式であり、あくまでも石垣の隅角の形に合わせて天守や附櫓・多聞櫓が配置されたことを、まさに「鈍角」が物語っているように思うのです。
さて、それならば「秀吉流天守台」の源流はどこまでさかのぼれるのか? という興味については、羽柴秀吉時代の長浜城や、琵琶湖“浮城”群の祖形とも言うべき明智光秀の坂本城も、当然、その射程内に入るでしょう。
おそらくは膳所城と同様に、それらの天守は「本丸の左手前隅角」が有力だと思われ、その場合、坂本城には大・小天守があった、という伝承は興味深く、きっと本丸の左手前に大天守、右手前に小天守(月見櫓?)という、豊臣大坂城の詰ノ丸奥御殿とそっくりの形だったのではないでしょうか。
――― したがって「秀吉流天守台」は、ひょっとするとライバル・明智光秀の坂本城に産声をあげ、秀吉自身の長浜城、大津城、膳所城と続いた、琵琶湖中に突出した「浮城」群に共通の手法で築かれたのかもしれません。
そう思いますと、面白いことに、冒頭の彦根城天守は、彦根山の山頂に移築されているものの、その「附櫓」はやはり湖の方角に張り出して設けられている(!)ことに気付かされ、これも歴史に埋もれた伝承形態なのかと、ハッとさせられるのです。……
しかも「附櫓」の反対側、つまり写真の手前側が、ちゃんと城の「表」大手方面になっています。