日: 2012年6月6日

版図拡大は農民兵ならぬ「商人兵」の独壇場だったか



版図拡大は農民兵ならぬ「商人兵」の独壇場だったか


※左図は中井均先生の論考(『城と湖と近江』等)を参考に作成

2011年度リポートでは豊臣時代の<海辺の天守>群について、それらは織田信長が琵琶湖に築いた「城郭ネットワーク」を踏まえながら、広く東アジアの制海権をにぎるため、豊臣秀吉の構想に沿って諸大名が築き始めたものではなかったか… という仮説を申し上げました。

で、そうした “秀吉の構想” を育んだ舞台が、じつは琵琶湖のはるか以前の、まだ信長が尾張を統一したばかりの頃(…秀吉が織田家に仕え始めた前後)に、すでに尾張の港湾都市「津島」で芽生えていた可能性が、何人かの先生方の指摘から推測できそうなのです。

そこで今回は「兵商」(商人兵)というキーワードを軸に、信長や秀吉の版図(制海権)拡大の力学について、少々補足させていただこうと思います。
 
 
 
<尾張随一の河口湊をもつ、尾張第二の商工街・津島>
 
 

(小島廣次「秀吉の才覚を育てた尾張国・津島」/上記書1997年刊所収より)

勝幡(しょばた)系織田氏は、信長の祖父、信定の時代から津島を領土化し、同織田氏にとって津島はいわばホームグラウンドそのものだった。
(中略)
『信長公記』巻首には、永禄四年(一五六一)の西美濃墨俣(すのまた)・森部(もりべ)合戦の功績者として四人の名前があげられているが、このうち三人が津島衆で占められていた。これは偶然ではなく、信長の戦力の中核が津島衆で占められていたとみるほうが自然だろう。
(中略)
彼らは信長の家臣には違いないが、必ずしも武家というわけではなかった。津島にあっては商人であり、それでいて信長の家臣として実際にあちこちの戦場へ行っている。(中略)津島衆はこの兵農ならぬ「兵商」だったことになる。


(※上記書に掲載の図を参考に作成)

上の表紙の本をご覧になった方も多いかと思いますが、その中でも、私なぞは小島先生の論考がいちばん興味深く、と申しますのは、それまで織田兵の強さの源泉は「兵農分離(専業兵士)だ」と盛んに言われて来たことと、ちょっと話が違って来た印象があったからです。

小島先生の文章からは、津島とは、信長にとって後の「堺」にも劣らぬ存在だったように感じられて来て、その「兵商」と秀吉の関わりについては、こうも指摘されています。

(前出「秀吉の才覚を育てた尾張国・津島」より)

信長の多くの家臣のなかで、早い時期から津島と密接な結びつきをもっていた人物が秀吉以外に見当たらないことなどからすると、秀吉は信長家臣団のなかで、「津島担当」だったと考えられる。
 
 
なんと、秀吉はここで「兵商」(言わば「商人兵」)と深く結託できたことになり、そういう立場からは、例えば川並衆を率いていた蜂須賀小六との関係性もふくらみそうで、秀吉の躍進の原動力はここにあったか!という印象でした。

一方、信長の大戦略における津島(伊勢湾)の位置づけについては、近年、藤田達生先生がさらに広い視野から見た持論を展開しておられます。

(藤田達生『信長革命 「安土幕府」の衝撃』2010年より)

信長は、上洛戦の前提として永禄十一年(一五六八)二月に北伊勢に侵攻し、三男信考を河曲(かわわ)郡の神戸氏の、実弟信包を安濃郡の長野氏の養子とし、さらに一族津田一安を伊勢を代表する港湾都市・安濃津(三重県津市)に置いた。(中略)
信長にとって伊勢の掌握は、東海道をはじめとする東国と京都を結ぶ大動脈としてばかりか、関東への足がかりとなる太平洋海運を押さえることを意味した。
同国には、桑名(三重県桑名市)・安濃津・大湊(三重県伊勢市)に代表される東海-関東を結ぶ太平洋流通上の有力港湾都市があったからだ。


(※同書掲載の「環伊勢海政権ネットワーク概念図(天正3年)」を参考に作成)

藤田先生はこの本の中で、岐阜からやがて安土に居城を移す信長は、すでに天正3年頃には、上図のような広域の流通網を構想していたのだと強調されています。

(前出『信長革命 「安土幕府」の衝撃』より)

この時期に地域支配拠点となった神戸城・安濃津城・田丸城は、いずれも伊勢海を意識した沿岸部に立地した。
これは、のちに信長が安土城を中心として琵琶湖沿岸に大溝城・坂本城・佐和山城・長浜城などの城郭を配置したことの直接的な前提とみなすことができる。
(中略)
そしてこの政権は、萌芽的ではあるが、舟運に依拠した重商主義政策を中核とする海洋国家としての本質をもつものであった。筆者は、他の戦国大名との最大の相違はここにあるとにらんでいる。
 
 
以上のように、津島の「兵商」を手ごまに躍進を始めた信長と秀吉らが、同じメカニズムをフル稼働させて版図を拡大した様子が見えて来そうですが、そう言えば、あの教団も、「兵商」で隆盛を極めたのではなかったか――― という不思議なめぐり合わせ(衝突)もあったのです。
 
 
 
<凄惨な殺戮戦、一向一揆攻めは「商人兵」どうしの生き残り戦??>
 
 
 
以前の記事(→ご参考)でも申し上げたとおり、一向宗(本願寺)はたいへん富貴な教団であり、その勢力の実態も「兵商」の類だったようで、となると、信長軍と一向宗門徒の戦いは “兵商どうしのサバイバル戦” だったのかもしれない、と思われて来るのです。

(武田鏡村『本願寺と天下人の50年戦争』2011年より)

一向宗徒による一揆を一向一揆というが、その主体はこれまでいわれてきたような土地に定着する農民ではなく、交易を行う馬借(ばしゃく)や船乗り、さらに各種の職人、商人、そして本願寺につながる坊主などであった。(中略)
極端にいえば本願寺は一坪の土地も所有していないにもかかわらず、莫大な資産を持っていたが、それは門徒からの献金があったからである。
 
 
そして天正2年に迎えた長島一向一揆攻めの最終決着は、冒頭の「津島」からは目と鼻の先の、わずか10kmほどの地点で起きた惨劇でした。

(前出『本願寺と天下人の50年戦争』より)

伊勢長島の門徒は、顕如の曾祖父の蓮淳(れんじゅん)が長島御坊といわれる願証寺(がんしょうじ)を開いて以来、木曽川・長良川・揖斐(いび)川の各流域で生活する人々の信仰を集めて、一大勢力になっていた。
河川に囲まれ、伊勢湾に面する長島は、領主の介入と物品の徴発を拒み続けた「河内(かわち)」といわれた寺内町である。当然、伊勢にも勢力を伸ばそうとする信長の介入も拒絶していた。

 
 
こうした一向宗の教団としての性格と、ここまでご覧いただいた信長の大戦略とを(下図のように)突き合わせてみますと、信長は「敵対する兵商」が自らの流通網の要所要所(長島と越前!)にしっかり根をはっていることに我慢ならなかったのではないか… とも思えて来るのです。

(※一方、法主らの本拠地・石山本願寺は “和議による退去” で決着している)

 
 
<その頃、セブ島に上陸したコンキスタドール(征服者)の正体も…>
 
 


(※右写真はレガスピの銅像/ウィキペディアより)

さて、最後に余談ですが、信長が伊勢方面に進出していた永禄8年1565年に、スペイン人のコンキスタドールの一隊が、太平洋を渡ってフィリピン諸島(セブ島)に上陸しました。

わずか数百人の部隊を率いたのは、ミゲル・ロペス・デ・レガスピ。

彼は広大な植民地領「ヌエバ・エスパーニャ」の首都メキシコシティの市長(!)だった人物であり、香辛料の新たな交易路を開拓するため、まもなく騙(だま)し討ちでマニラを陥落させました。

これも言うなれば「兵商」の私兵部隊が世界地図を塗り変えてしまったわけで、こうした投機的で(利潤のリターンを急ぐ)性急な勢力の拡大は、兵商の得意技だったのではないでしょうか。
 
 
そして我が国でも、徳川幕府が改めてその恐ろしさに気づいたのか、自ら兵商分離を進める形になりました。

ということで、江戸時代にあったという身分制度「士・農・工・」という序列に込められた、武家政権の “本音” がなんとも気になって仕方がないのです。
 

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