日: 2012年7月17日

安土城の「時期差」問題!それは主郭部にもあった?



安土城の「時期差」問題!それは主郭部にもあった?

白丸内が話題の中心「本丸西虎口」の位置

前回、安土城の主郭部の南東端に「内玄関」を想定してみますと、意外な発見があることをお知らせしました。

ただ、その中では図の虎口2「本丸西虎口」の位置づけ(役割)について、ちょっと疑問をお感じになった方もいらっしゃるのではないでしょうか?

と申しますのも、この状態で本丸西虎口から伝本丸に入りますと、いきなり儲(もうけ)の御所(=御幸の御間か)の真ん前に出てしまうことになるからです。
 
 
そこで当ブログがもう一点、是非とも付け加えて申し上げたいのは、この主郭部もまた、部分部分で「完成に時期差があった」のではないか―――

という、多少ズウズウしい印象の仮説なのです。

それは決して本能寺の変の後の、信長廟の建立などを申し上げているのではありませんで、果たして信ずるに足るものか否か、どうぞ厳しい目でご一読いただきたくお願い申し上げます。
 
 
 
<前提1.まことに奇妙な状態の「本丸西虎口」が示唆する経緯>
 
 

ご覧の本丸西虎口のすぐ奥には、四角い桝形(ますがた)のようなスペースがありますが、これはいわゆる「桝形虎口(ますがたこぐち)」でしょうか? 答えはNOでしょう。

桝形虎口とは、ご承知のように外側により簡便な高麗門など、内側に頑強な櫓門を建てて、その間の枡形内に敵勢を囲い込んで弓矢・鉄砲を打ち掛けるためのもので、そういう形でなくては効果を発揮しないとされています。

たとえ初期の、高麗門などが無いケースであっても、とにかく桝形の内側に櫓門を建てるのが鉄則ですが、この本丸西虎口は、発掘調査でなんと、桝形らしきスペースの外側に櫓門があった(!)という可能性が報告されています。
 
 
つまり(上右イラストの)石段を登りきった所に櫓門があったわけで、この一帯はまるで桝形虎口としての機能を“放棄してしまった”ような、妙な状態で遺されているわけです。

果たしてそこにどういう経緯があったのか、ひとつの謎になっています。

桝形虎口の例(丸亀城/小田原城)

 
 
<前提2.「安土城の設計変更」…初めは西の城下町を向いて築かれた可能性>
 
 
 
かつて加藤理文先生が「『信長公記』の記載では百々橋口が正面なのである」とおっしゃったように、安土城は初め、城下町のある西を正面にして、山の西側斜面から築城が始められた可能性も言われています。

そこでひとつ指摘させていただきたいのは…
<同じ西向きの岐阜城では、山頂の天主は背後の東側から建物に入る形式だった>
という点なのです。
 
 
で、いつ岐阜城の山頂に天主が存在したか、その時期については諸説があるものの、当サイトは一貫して、例えば『フロイス日本史』に「その山頂に彼(織田信長)の主城があり」と伝えられた「主城」こそ、本来の天主なのだと申し上げて来ました。

それがたとえ二重~三重ほどの規模であったとしても、その立地点(古代中国の故事「岐山」に見立てた山の頂)がもたらす視覚効果から言って、信長の「天主」であったことは微動だにしないはず、と確信しております。

南から眺めた岐阜城/山頂に復興天守

そして岐阜城は西側(写真左の稜線の向こう側)のふもとに当時の城下町があり、城は西向きで、山の西側斜面を主体に曲輪や城道が築かれました。

そうした中でも、天主は城下からの見栄えを考えてか、いったん城下町と反対の東側に回り込んでから建物に入る形だったという点が、安土城との関連で重要であったように思われるのです。
 
 
以上の<前提1><前提2>を踏まえて、以下のイラストのように安土城の主郭部にも、完成までの変遷や「時期差」があったのではないか、と申し上げてみたいのです。

(※イラストは標高170mの等高線から上だけを画像化しました)

仮説:当初(計画)の安土城の主郭部/この時点では本丸西虎口が第一の門だった

仮説:完成した安土城の主郭部/本丸西虎口はその役割が不明確に!

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