日: 2012年11月7日

障壁画が無かった暗闇と迷路の五重目は「無」か「乱世」か



障壁画が無かった暗闇と迷路の五重目は「無」か「乱世」か

(岡山大学蔵『信長記』より)

五重め 御絵ハなし
南北之破風口に四畳半の御座敷両方にあり
小屋之段と申也

 
 
(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003年より)

五重目には絵はない。これじたいも「無」が画題なのかもしれない。
 
 
このところ <安土城天主内部の薄暗さと障壁画との矛盾> をテーマに申し上げてまいりましたが、その観点では、ちょっと素通りしがちな「五重目」が、実はかなり重要な意味を持っていたのではないか… という気がしております。

と申しますのは、冒頭の引用のとおり、この階は “障壁画が無い” と『信長公記』類にアッサリと書かれていて、それは天主の構造面から見れば、おそらく屋根裏階になるのだから当然でしょう、という解釈が目白押しでした。

ですが『天守指図』とその新解釈に基づく場合においては、ちょっと別の理由から、五重目に絵が無いのは当たり前でして、その最大かつ当然の理由は “ほぼ真っ暗闇だったから” !…です。

したがって当時、必ずしも “屋根裏階だから粗略でいい” という判断が下されたとは思えないのです。

ここも極端に薄暗い松江城天守の四階(望楼部分の直下の階!)

思えば、大型の現存天守のうち、松江城天守などでは中層階に極端に薄暗い階がありまして、そこから階段を登ると一気に見晴らしのよい最上階に出られる、というスタイルが共通しています。

従来、このことには特段の注目も無かったわけですが、これもまた、安土城天主に由来する一種の作法!…だったのではないか、という気がしてなりません。

何故かと申しますと、後々の層塔型天守(すなわち徳川幕府の治世下)では、中層階の暗闇というものが、構造的に、巧妙に “打ち消されていた” ようにも感じるからです。

(※復元された層塔型の大洲城天守などがその最たるもので、下から上まで明るさに殆ど変化がありませんし、姫路城天守もそんな感じがあって、それは移行期の天守ならではの要素かもしれません)
(※追記/ただし姫路城天守はこの度の大修理で、創建時の最上階は四周にフルに窓があった可能性が判明しましたので、初代藩主の池田輝政はまだ織豊期の天守がイメージに残っていたのかもしれません!…)

で、そのような層塔型の構造的な制約(明るさの条件)を逃れるためには、例えば幕末再建の松山城天守のように、最上階にあえて復古調の高欄廻縁を設けなければ、あれほどの明暗のコントラストは再現できなかったと思うのです。
 
 
以上の事柄を踏まえれば、望楼部分とその直下の「暗闇」という配置は、取りも直さず(前回も申し上げた)天主最上階の政治的かつ建築的な意味合いの強調、という問題に深く関わっていたのではないでしょうか?

静嘉堂文庫蔵『天守指図』五重目より/ご覧のとおり自然光は殆ど入らない!

先程 “ほぼ真っ暗闇” と申し上げたのも、ご覧の図で納得いただけるように思われますが、この五重目の中心部について言えば、図の上下(南北)端にある一段高い茶室の華頭窓から差し込む光の他に、自然光は無かったことになります。

しかもここは(特に初めて入った者には)かなりの迷路でもあった、と言えそうです。

図の左上(南東)の階段は四重目から、中央の階段は例の「高サ十二間余の蔵」を上がってくる最後の階段であり、例えばこれらが交わるルートを、こんな暗闇の中で見つけるのはチョット難しかったのではないでしょうか。

(※そこはひょっとすると、六重目への階段の下で、隠し戸か何かが間をはばんでいたのかもしれません)

したがって『天守指図』に基づく限り、これらの状態は、信長が意図的に造ったもの! と言わざるを得ないものでしょう。

そして、このような場所に障壁画を並べるはずもなく、ならば、天主七重の途中にこういう階をあえてはさんだ信長の意図は、何だったのでしょうか?

冒頭の木戸雅寿先生の「無」という考え方はたいへんに興味深くて、私なんぞはもう一歩踏み込んで、この階は「闇夜」「混乱」「乱世」を表現していたのではなかろうか… などと空想してしまうのです。

ぐるりと階段を登って、まばゆい外光が差し込む六重目へ

当サイトの『天守指図』新解釈では、ご覧のような階段を登った先に、面積4坪の回廊のごとき「六重目」があり、そこからさらに七重目に上がれる構造になっていた、と想定しております。

この六重目のすぐ外側には幅広の縁がめぐっていたはずで、間の板戸などを開けば、一気に外光が差し込む、という強烈なコントラストが生まれ、これがひょっとすると、他の織豊期の天守の “ある種の原型” になったのではないでしょうか。
 
 
ちなみに、上図の南北(上下)の張出し部分の戸を開けば、そこから階下の五重目にも光がもれて、吹き抜けの格天井や階段部分を多少、明るくした可能性もあったのではないかと想像しております。
 
 
いずれにしましても、天主七重の中層階に真っ暗闇の「無」の空間を設けたことは、<この暗闇を突き抜けた先に光が見えるはず> という覚悟や決意を造型化したかのようでもあり、ここに信長の心意気のようなものを感じてしまうのは、私の買いかぶりの考え過ぎでしょうか?
 

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