日: 2012年12月4日

続・世界で初めて「台」に載った城砦建築とは



続・世界で初めて「台」に載った城砦建築とは

前回に申し上げた安土城天主と「台」との関係については、全国各地で安土以前からあったはずの土塁造りの「櫓台」といったいどう違うのか ! ? … と憤慨された方もいらっしゃるのではないでしょうか。

私が申し上げたかったのは、あくまでも <宮殿や本堂の基壇に由来する「台」>というところに一番の力点がありまして、そのように天守「台」を見直してみますと、むしろ天守の木造部分と天守台とがきれいに一体化した豊臣期~徳川期の(層塔型などの)天守の方が、かえって進化し過ぎた “変異形” ではないのか、とさえ感じられて来るのです。…

みごとに木造部と石垣が一体化した二条城天守(寛永度)の復元イラスト例

ちょっと分かりにくい事を申し上げているのかもしれませんが、要するに、ご覧のように一体化した天守というのは、当初の「台」(基壇)に載った天守と、それまでの防御的な櫓(櫓台)とをまぜこぜにした、いわゆる「天守櫓」とも呼ばれた亜流の発展形だったのではないか…

言葉を換えてみますと、一体化とは、誕生当初の天守が、やがて櫓の類に短絡的な先祖がえりを始めた契機だったのではないか… という、やや手前勝手な推測を申し上げてみたいのです。

【私的な極論…】天守のいちばん原初的なイメージ ~それは求心的な曲輪配置の頂点に~

(※このような建築は当然、天守台石垣に荷重をかけてはいない)

必ずしもご覧のような総石垣造りである必要は無いのですが、申し上げたい一番のポイントは、<天守とは織豊期城郭の求心的な曲輪配置のヒエラルキーの頂点に誕生した、政治的なモニュメント(施設)であったはず> という何度も申し上げて来てしまった事柄でして、これは千田嘉博先生の「戦国期拠点城郭」論や、そういう城を革新した織田信長の城づくりにつながるもの、という見立てがあります。

ですから、天守にとって形態的に最も大切なことは、三重とか五重とかの重数(階数)ではなくて、「城内における位置」や「台上でひときわ高くあること」ではないのか、という思いが近年、ますます強く感じられるようになって来ました。

そこで極端なことを申しますと、そうした条件が整うのなら、たとえ木造部分が平屋建てであっても、それは天守たりえたのではないか、とも感じられて来るのです。

もしこれが原初的な形であれば、次のいずれもが派生しやすかったのでは…

 
天主台上に空地をもつ安土城天主(仮説)  / 本丸石垣の一隅に建つ、天守台の無い高知城天守(現存)

これまで「天守台上の空地」や「天守台の無い天守」はどこから派生した形態なのか、その由来について特段の指摘もなかったように思いますが、私なんぞの印象では、それらは決して変り種ではなく、むしろ原初的な形態をひきずった要素であって、逆に、整然と一体化したスタイルの方がやや “進化の行き過ぎ” であったように感じられてなりません。

このことは、安土城天主が、おびただしい曲輪群の頂点に建つ「立体的御殿」として出現したこととも、決して、無縁ではない事柄のように思われ、やはり「台」上の象徴的な君主の館、というものが、天守誕生の原点にあったのだと想像できてしまうのです。

駿府城天守の復元案(模型)の一つ

ですから、進化の最終形態である(寛永度の)二条城天守や江戸城天守のようにスマートな形態ではなくて、ご覧の駿府城天守の「何故??」と言われかねないミスマッチ感の方が、じつは正統的な “天下人の天守” にふさわしい遺伝子のあらわれだと思っているのですが…
 
 
【突然ながら 2012年度リポートの内容変更について】

諸般の事情により、予告しておりました内容を、翌年度のものと入れ替えることを検討中です。その場合、新たな内容は以下のようになります。
新リポートの仮題(再び大胆仮説!…)
東照社縁起絵巻に描かれたのは家康の江戸城天守ではないのか
~「唐破風」天守と関東武家政権へのレジームチェンジ~

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