日: 2013年3月17日

「究極の立体的御殿」駿府城天守を考える



「究極の立体的御殿」駿府城天守を考える

前回に「小さなコロンブスの卵」としてお目にかけた図では、天守の上層部分にうっすらと唐破風を描きましたが、おそらくこれをご覧になって、「唐破風」は文献史料では四重目か五重目と書いてあるじゃないか… という疑問をお持ちになったのではないでしょうか。

実はこの点が、またもう一つ、ここで是非とも申し上げておきたいポイントだと思っておりまして、何故かと申しますと…

徳川家康の二条城天守 / 結城秀康(家康次男)の福井城天守 / 熊本城大天守

ご覧の三つの天守は、以前の熊本城天守のブログ記事(徳川系の天守か?)でご覧いただいたものですが、このように同じ唐破風でも、右側の福井城天守や熊本城大天守は独特の設置の仕方をしていました。

そしてご覧の位置に「唐破風」を想定しますと、福井城や熊本城のケースとたいへんに良く似た状態になるわけでして、このことが決して酔狂で済まされないのは、以前は “駿府城を描いた屏風絵” として盛んに誌上等で取り上げられた絵が、これらとまた良く似た要素を持っているからです。

お馴染み ! ! 名古屋市博物館蔵「築城図屏風」(謎の天守が描かれた部分)

(内藤昌編著『城の日本史』1995年より)

この屏風絵は、慶長12年前田家の御手伝普請を描いたもので、第6扇下に描かれた白地に赤丸(日の丸)は本多家、三巴が篠原家の家紋で、両家が助役した天下普請は慶長12年の駿府城築城に限られるから、9月利家が駿府に出仕した頃の図と断定できる。
 
 
という風に、以前は「築城図屏風」はこういう言われ方をされていて、徳川幕府による駿府城二ノ丸の天下普請(石垣工事)を描いた絵と見られていたものの、昨今では、むしろ前田家の居城・金沢城の石垣普請を描いたものではないか、とも言われています。

そうであるなら、ここにあるのは金沢城天守ですが…

そぐわない点は多々あるものの、どこか捨て切れない両者の類似性

ご覧のとおり、前回の「小さなコロンブスの卵」で読み直した文献史料の記録と、以前は駿府城天守とも見られていた描写との間に「どこか捨て切れない類似性」が見て取れるわけなのです。!…
 
 
そしてもし仮に、左側の絵の描き方に “多少の” 間違いが含まれていた場合は、類似性はますます見過ごせないものになるでしょう。

現に、絵の天守は盛り沢山の破風が描かれていますが、それらは平側と妻側が細かい破風まで完璧に同じ(!!)という、他に類例の無い、妙な姿で描かれていて、この部分を絵師の “筆の誤り” として割り引いて見た場合はどうでしょうか。

まことに勝手な推理として、この絵は、天守の平側の情報(立面図?)だけをもとに絵師が「四方正面の天守」を強引に描いてしまった結果なのでは? といった邪推をしますと、破風の配置としては、他にも幾つか類例のあるスタイルに近づくように思われます。

(※ちなみに当ブログは、決して四重目か五重目の「唐破風」を否定するものではありませんので、おそらく妻側の中層部分の屋根にも唐破風があったものと考えます…)


右写真:日光東照宮蔵「東照社縁起絵巻」より引用

と、ここまで申し上げて来た事柄は、2012年度リポートの「東照社縁起絵巻に描かれたのは家康の江戸城天守ではないのか」という内容と密接に関係していることは、ご推察のとおりです。

かく申し上げる私の本音としましては、駿府城天守を描いた絵画史料としては、実は「東照社縁起絵巻」よりも「築城図屏風」の方が、ずっと有意義なのではあるまいか… という事に他なりません。

ただ一点、気がかりな問題は、上左写真の「築城図屏風」の初重の大ぶりな破風だけは、『当代記』等の記録と明らかにバッティングしてしまう点で、これについてはまた一つ、お伝えしたいポイントがあるのです。
 
 
 
<これまでの多くの復元案にある、天守台四隅の「隅櫓」や「多聞櫓」は、
 「立体的御殿」のねらいを台無しにしてしまう復元方法ではないのか?
 しかもそれらは何故、文献史料に、一言も書かれなかったのか…>

 
 

(八木清勝「駿府城五重天守の実像」/平井聖監修『城』第四巻より)

天守曲輪の外周には多聞櫓が廻り、四隅には隅櫓があったという説もあるが、二階に高欄が廻っていることを考慮すると、この説にただちに賛成することには躊躇する。
(中略)
駿府で永年過ごした家康にとって、富士山に対する思い入れは相当なものであったと推察され、晩年、隠居城を造営するに当って富士山の眺望を無視することは考えられない。
(中略)
天守台外周石垣上に多聞櫓を設けると二階からの眺望はほとんど望めなくなる。眺望を妨げずに石垣天端に建てられるのは土塀くらいの高さまでである。
 
 
これまでの多くの復元案が、天守台の四隅に隅櫓、石塁上に多聞櫓が廻っていたとするのに対して、上記の八木先生の指摘は異彩を放っています。

指摘の内容は、駿府城天守を最後の、究極の「立体的御殿」と考える当サイトの立場からしますと、まことに核心を突いた指摘であると申し上げざるをえません。
 
 
とりわけ慶長13年当時、すでに65歳の太った徳川家康が、これに登ることも大前提とした天守のまわりに、本当に、独立した隅櫓や多聞櫓をぐるりと廻らせたでしょうか。

その場合、家康が多聞櫓の向こうの景色を見るためには天守の三重目以上に、二重程度の隅櫓の向こうを見るには四重目以上に登らなくてはならなかったでしょう。

この疑問(少数派の疑問)を解いてくれるヒントが、実は「隅櫓・多聞櫓説」の根拠とされた絵図の中に、コッソリと隠れているのです。

大日本報徳社蔵『駿州府中御城図』の天守周辺

この絵図の黒い墨塗り部分が「隅櫓・多聞櫓説」の根拠となったものですが、ご覧のような墨塗りの様子と、実際に天守台四隅に隅櫓を付設した淀城天守(寛永度)の例を参考にしながら、「隅櫓・多聞櫓説」は出来上がったと申し上げていいでしょう。

ただしその時、墨塗り部分の「面積」や「形」については、かなり大雑把に描いたものだろう、という先入観がすでにあったはずです。……

駿府城公園の整備計画図(静岡市ホームページより引用)

では実際の天守台はどうだったか?と申しますと、発掘調査などの結果、ご覧のような、思った以上にひしゃげた平面形をしていたことが判って来ております。(画面中央の左上あたり)

そこで試しに、その平面形に合わせて、静岡県立中央図書館蔵の『駿府城御本丸御天主台跡之図』に書かれた寸法等を当てはめてみますと、次のようなイラストが描けるでしょう。

で、このイラストに合わせて、前出の大日本報徳社の絵図をダブらせつつ、さらにその上に、文献記録の初重の規模(10間×12間)を載せてみますと、究極の「立体的御殿」の実情をうかがわせる、大変に、大変に面白いことが分かるのです。

10間×12間(赤い四角形)が、天守の墨塗り部分にピッタリ ! !
しかも隅櫓や多聞櫓の墨塗りは、石塁の内側に大きくハミ出て、天守と接続 ! !

これらを淀城天守と同形式と考えていいのか…
むしろ参考にすべき天守は…

(※次回に続く)

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