日: 2013年5月11日

気になる懸造りの意図…「羅城門」級の大手門の景観



気になる懸造(かけづく)りの意図…「羅城門」級の大手門の景観

さてさて、北京の方からまた突飛な「歴史認識」が出ましたが、そんなことを言うなら、100年前の中国大陸には中国共産党なんぞ影も形も無かったわけで、いよいよ実験国家の悲鳴が聞えて来たと受けとめるべきでしょうか。…

で、そんなことはともかく、前回は城郭史学会の大会セミナーを中心に 安土城天主について書きましたが、その中では、やはり書きっぱなしのままでは済まされない部分もあり、今回はそちらを、ちょっとだけ補足させて下さい。

「京間」で計測された場合の、20間×17間の範囲(グリーン)

上図は、千田嘉博先生が著書『信長の城』で示された安土城天主の新復元案について、前回のブログで申し上げた感想の、補足図です。

先生の著書によりますと、新復元案では、天主台石蔵内の七尺間の礎石群と、天主台下で発見された七尺間の礎石列を、一体のものとして扱っておられます。

しかし著書の文面には、『信長公記』類にある天主二重目の20間×17間という数値もまた「七尺間」であったかどうかは明記してなく、この数値が「京間」などで計測された可能性も含んでいるようです。
 
 
そこで上の補足図なのですが、京間(六尺五寸間)で計測されていた場合は、若干、規模が小さくなります。(グリーンの範囲に)
 
 
その結果、懸造りの天主二重目は、図の程度に天主台北側(図の下側)に張り出していたなら、もう南側には張り出す余地が無く、逆に、南側に全体が3間ズレて張り出していたなら、もう北側には張り出す部分がほとんど無い、という微妙なサイズになりそうです。

それならば何故、わざわざそんな懸造り構造にしたのか…

京間の20間×17間が不可欠な “部屋の条件” でもあったのか…

しかもそれは、後の江戸城天守の初重にも匹敵する規模(!!)なのに…

といった点が気がかりなものの、先生が著書で懸念したとおり、南側にズレるのは技術的にちょっと複雑(天主台南西角での寄せ掛け柱の処理)になるため、やはり天主台北側において <懸造りの礎石が見つかるかどうか> が新復元案の評価を左右していくのではないでしょうか。

史上最大の江戸城天守の初重(天守台)と並べてみる

そんな新復元案から思わず連想してしまう、笠森寺の観音堂(千葉県)

(※ご覧の四方懸造りの中心は岩 / 昔、この岩上に観音菩薩像が安置された由来あり)
(→ということは、当然ながら「懸造り」自体が建築の目的ではない)

 
 
<大手門がもしも「羅城門」級であったなら、どんな景観になるのか>
 
 

さて、もう一つ補足すべき話題は、通称「大手門」が幅約30mの「羅城門」級であったかもしれない、というお話でしょう。

これはもちろん、左右の石塁の真ん中が30mほど空いているというだけで、門の礎石などの物証は一切無いわけですから、ひょっとすると計画だけで(石塁が完成した時点で)沙汰やみになった可能性もあろうかと感じております。

でも、そこは城郭マニアの悲しさで、もしそんな巨大な門が建ったなら、いったいどういう景観になっていたのだろうか… という興味本位の空想をめぐらせずにはいられません。

徳川家の菩提寺・増上寺の三解脱門が、ほぼ同じ規模(幅29m/元和8年建立)

! ! 例えば、こんな門があの場所にあった(※計画されていた)場合を想像しますと、もう第一印象からして「城」ではなく、かと言って「都城」という連想も(背後が山だけに)難しく、いちばん順当なのは、安土山が「聖地」のように祭られた形と申しますか、近づく者(参拝者?)に威厳を示す効果が際立っていたのではないでしょうか。

かくして、たとえそれが「羅城門」級であっても、私なんぞは、ますます <信長廟の門構え> に見えてしまって仕方が無いのでして、仮にそうした場合、写真のような規模の二重門が建つと、安土山の南面はどういう姿になっていたのか、思い切ってイラスト化してみました。

本能寺の変(織田信長の死)後の安土山の仮想イラスト

これは、城や都城でしょうか?
こうなると私には陵墓や神宮(寺)にしか見えません…

ご覧の仮想イラストは、「大手門」前の広場や水堀については、かつて木戸雅寿先生が書かれた論考「安土城の大手道は無かった」(PDF/滋賀県文化財保護協会『紀要 第20号』2007年所収)の掲載図を参考にしながら描いたものです。

論考の「大手道は無かった」という刺激的なタイトルは、安土において「大手道」という名称が現れたのは江戸時代からであり、しかも城郭用語として実態に合わない(城内にある!)ため、もはや大手道という名称は使うべきでなく、「行幸道」か「御成道」に変えるべきだ、という木戸先生のお考えによります。
 
 
で、木戸先生は、通称「大手門」前の広場は、天皇行幸の際の儀式空間として造成されたのだろうとしていますが、上の仮想イラストを見れば、私なんぞは、なおさらのこと、これらは <建設途上で放棄された信長廟の表門と神橋(しんきょう)> ではなかったか、という疑いを深めてしまうのです。

しかも、民衆にとってこれらは「下街道」から眺めるだけの廟所として、さながら天皇陵が水濠に囲まれて、近づきがたい雰囲気を漂わせる様子にもソックリではないでしょうか。

ですから、ひょっとして名称の件では、大手道はいっそのこと表参道(!?) にでもすべきかと思ってしまうわけで、かく申し上げる私の念頭にあるのは、山頂に信長廟が建立された安土山と、のちに徳川家康の遺骸が葬られた久能山東照宮との、地形的な類似性なのです。

久能山東照宮の地形


鳥居を過ぎて石畳のあたりから見上げた様子


(※次回に続く/未解明の三法師(織田秀信)邸、駿府城天守との関係など)

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