日: 2013年6月24日

「居館」という呼称に対する戸惑い… 冷静に見れば、岐阜城千畳敷は「山里丸」ではなかったのか



「居館」という呼称に対する戸惑い…
 冷静に見れば、岐阜城千畳敷は「山里丸」ではなかったのか

二重目に高欄を設けた駿府城天守の模型 / 犬山城二重天守の推定復元イラスト

今回は、前回に申し上げた「二重同規模 望楼型」の話題から、このところの宿題であった駿府城天守の二重目の「高欄」問題へと、大きく論点を展開させてみようと思っていたのですが、そんな矢先に、またまた気になる歴史雑誌と出会いました。

それは、せっかくの上質な仕上がりの中で、たった一語だけ、どうしても気になる用語が使われていて、こういう事は機会を逃してしまうと、なかなか言い出しにくいものですので、今回もあえて変則的な記事にさせていただきます。

『週刊 新発見!日本の歴史』創刊号/朝日新聞出版

ご覧の創刊誌は、かの『週刊朝日百科』の流れをくむ本だそうで、それにしてはずいぶんと表紙の雰囲気が違うため、思わず書店でもパスしてしまいそうでしたが、中身を拝見しますと、さすがに神経の行き届いた誌面づくりがされていると感じました。

で、この本においても、最近「金箔飾り瓦」が話題の岐阜城について紹介されていて、その書き出し部分はこうです。

(高橋方紀「考古学コラム 岐阜城を掘る」/前掲書より)

宣教師ルイス・フロイスの『日本史』は、岐阜城の山麓居館の庭を次のように記述している。
「庭(ニワ)と称するきわめて新鮮な四つ五つの庭園があり、その完全さは日本においてはなはだ稀有なものであります。

 
 
決してこのコラム自体について、どうこう申し上げようというのではなくて、これはもう岐阜城の関係者の方々には慣例化した事柄なのでしょうが、文中の「山麓居館」という呼称(用語)に、私なんぞは、ずっと違和感を感じて来たのです。

と申しますのは、「信長公居館」とか「山麓居館」という呼び方に対して、おそらく一般の方々が受け取るだろうイメージは、そこにあたかも “織田信長と家族が居住していた” かのような誤解を生みかねない、危うい要素をはらんでいると思われたからです。
 
 
ご承知のとおり、<信長と家族は金華山山頂の主郭に居住していた> というのが長年の城郭研究の成果であるのに、どこか、我々は、山麓の千畳敷で出土した巨石群の強い印象に惑わされているのではないでしょうか。

それはひょっとすると、信長の思う壺に、現代人までがハマっているのかもしれず、ここは一度、冷静になって見直してみた場合、岐阜城千畳敷(巨石列から奥の曲輪群)は基本的に「山里丸」の、重要人物の接遇用の御殿と庭ではなかったか、と思われて来るのです。

と申しますのも…

防御上の必要性を超えた、“威圧感”を目的とした過大な石積み
A.肥前名護屋城の上山里丸の虎口(慶長期)



B.岐阜城千畳敷で発掘された巨石列

 

余人には困難な、多大な労力を費やして現出させた数寄の空間
A.肥前名護屋城の上山里丸の青竹ばかりの茶屋(引用:五島昌也復元画)



B.巨石の石組みで護岸した岐阜城千畳敷の渓流

(引用:岐阜城跡 信長公居館発掘調査デジタルアーカイブの掲載写真より)

天守(主郭)のひざ元で、周囲から半ば隔離されて築かれた曲輪の位置
A.肥前名護屋城図屏風(県立名護屋城博物館蔵)の上山里丸



B.金華山ロープウェー駅に展示された杉山祥司画「岐阜城図」

ご覧のうち、一番下の「岐阜城図」は地元の日本画家の方の創作による絵画ですから、このように並列に扱うのは問題があるかもしれませんし、これらはすべて豊臣秀吉の肥前名護屋城との比較だけですので、片手落ちと言われかねない部分もあるのかもしれません。

ただ、写真ABの両者を、全国の城にいくつもあった根小屋式の山麓居館… 例えば私の地元・八王子城の御主殿とか、備中松山城の御根小屋とか、そしてそもそも斉藤氏時代の岐阜城千畳敷!? 等と比べますと、後者はいずれも城主の主たる居館であり政庁でもあった、という点に歴然とした違いがありそうです。

その点、ABの両者は、むしろ「山里丸」としての特徴をしっかりと備えているように思えてならず、それは上記写真の他にも…

1.千畳敷一帯で、池・洲浜・石組みなど数多くの庭園遺構が確認されたこと
2.秀吉ゆかりの城も「上山里」「下山里」とヒナ壇式に山里丸が築かれたこと
3.肥前名護屋城の記録では、山里丸にも華麗な御殿群が造営されたこと
4.肥前名護屋城図屏風にも楼閣風の櫓があり、城下の遠望は重視されたこと

といった点は、ABともに共通し、なおかつ岐阜城を訪問した宣教師の記録とも合致する要素として揃っていて、これらの理由から、岐阜城の千畳敷は、曲輪の分類や用途としては「山里丸」と考えるべきではないのか、と申し上げたかったのです。
 
 
 
<ならば、関係者の期待を集める「階段状居館」説は??>
 
 
 
当ブログの過去の一連の記事をご覧になった方は、私がいまだに四段の「階段状居館」説に納得できず、むしろ岐阜公園(「千畳敷下」)の池の周辺に、将軍・足利義政の別荘・東山殿の「銀閣」にならって、四階建ての楼閣が東向きに建てられたはず、と申し上げて来たことはご存知でしょう。

この点は、話題の「金箔飾り瓦」が確認された中でも、一向に変わることはありませんで、またいつか反論をまとめて記事にしたいと思うのですが、その論点は例えば…
 
 
論点1
信長の岐阜城時代のあと、織田家の一門衆や重臣らは、誰一人として、居城に「階段状居館」を建てることは無かったようであるが、これは信長が重臣(柴田勝家ら)にも千畳敷の御殿をほとんど見せなかったことの影響なのか、それとも、彼らの側がまるで無関心だったのか。

論点2
発掘された千畳敷の地形から見て、“増築を重ねた温泉宿のような構造” とされる「階段状居館」では、いちばん下段の建物以外は、どの建物も、すぐ下段側の建物の屋根や接続部分が邪魔になって、その向こうにある城下町を、十分に見渡せる状態にならなかったのではないか。(宣教師の記録との矛盾)

 
 
等々ですが、特に論点2では、城主(領主)が櫓の高欄などから城下を見渡すのは、言わば「政治的行為」の一環であって、ちょっと覗き見えさえすればいい、などという事ではなかったはずだと思うのです。
 

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