日: 2013年9月29日

またぞろ勢いづく江戸城天守の再建論。家康と高虎が決めた「真四角な」初代天守台を踏まえて考える



またぞろ勢いづく江戸城天守の再建論

現存天守台の “破壊” 無くして正確な復元は無理。なにしろ「石」が違うのだから…
江戸城の天守台

(※明暦大火による天守焼失後に、御影石の切石等で修築。
表面の焦げは幕末の火災時のもの。修築以来355年存続)

まず、石なんかどうでもいいだろ… などと言う方は、我が国の城郭やサムライの伝統文化を愛する方々には、一人として、いらっしゃらないはず、と信じて今回の記事を始めさせていただきます。
 
 
もしも、はなから<正確さは二の次でいい>というなら、出来上がった建物は紛れもない時代錯誤のハリボテであって、たとえ木造で、伝統的工法で築かれても、それはハリボテの変形に過ぎないでしょう。

ところが、それでも構わないからこのチャンスに造ってしまえ!! というごく少数の “確信犯” が、今回の東京オリンピック決定に呼応した、江戸城天守の再建運動の活発化の中にはひそんでいる気配が感じられて、その辺が実に、心穏やかでないのです。…

(『週刊朝日』2013年9月27日号より)

再建費用は、総木造で忠実に復元すると400億~500億円かかる。12年に約500億円をかけて復元された東京駅と同じ規模だ。費用は協賛企業や個人から寄付金を募る。
巨費を投じることに批判もある。だが、年間151万人が訪れる観光スポットとなった大阪城も、1931年に復元されたもの。年間来場者147万人の名古屋城も戦後に復元されている。江戸城は、これをはるかに上回る効果が期待される。
作家で『江戸城を歩く』などの著書のある黒田涼さんはこう語る。
「経済面だけではなく、精神面での効果もあります。各地のお城は、全国で郷土の誇りになっています。首都・東京の江戸城天守は、日本人の誇りと精神性のシンボルとなりえます」
江戸城で外国人をおもてなし。2020年、それは現実になるかもしれない。

 
 
当ブログで申し上げて来たとおり、私は小田原城や名古屋城などのコンクリート天守の「木造化」には大賛成!!の立場ですが、それは戦後の日本人がうっかり犯してしまった間違いをもう見たくない、という思いが基本にあります。

しかも、ただ木造であればいい、という話でもなくて、歴史的に脱落して来た「天守という建築の意味」を、どうにか日本人の意識の上に取り戻すことは出来ないものか、という願望を含んでおります。しかし…

(認定NPO法人 江戸城天守を再建する会 のHP/小竹直隆理事長の挨拶文より)

首都と言われる世界の大都市には、ロンドンの時計台、バッキンガム宮殿、パリの凱旋門、ベルサイユ宮殿、北京の紫禁城、ニューヨークの自由の女神など、悉くその国の歴史と伝統、文化の象徴ともいうべき偉大なモニュメントがあります。
しかし、日本の首都・東京には、何があるのでしょう。スカイツリー? 浅草寺?・・そうですね。それは、数少ない東京の目玉であることは事実ですが、この国の長い歴史が育んだ香り豊かな伝統と文化の、日本を代表とする“シンボル”とは、云えないのではないでしょうか。

 
 
かつてJTBの経営陣であったという理事長さんは、日経ビジネスオンラインでは「城マニアでも何でもありません。もともと皇居に残された江戸城の天守台のことは知っていましたが、それほど関心はありませんでした」ともおっしゃっています。

その発言からして、とにかく、国際的に見映えのする巨大モニュメントが東京に欲しい、という動機から出発しておられることは間違いなさそうで、雷門や仲見世通りがダメというのは「凱旋門より小粒…」だからなのか、スカイツリーがダメというのは「エッフェル塔に劣る」と考えておられるからなのか、その価値観の物差しが、さすがにJTB仕込みと感じられてなりません。
 
 
ですから、現状の悪い予感としては、「国際的に見映えのする巨大モニュメント」という動機から再建された天守は、その先、またたく間に、大阪万博跡地の太陽の塔(それだけポツンと!)になりかねないことが予想され、そんなことのために、現存天守台がどうにかされてしまうのは、日本の歴史ファンとして、まことに慙愧(ざんき)に耐えないのです。
 
(※追記/これには、天守台のある旧本丸等が宮内庁の管轄である、という要素が大きく作用するでしょう。
  つまり、もし一旦出来てしまったら、もうほとんど誰も手を出せない存在になる、ということを意味しています。
  また皇居側の窓は開けさせない、という案も「テロリスト対策」で未来永劫、完璧に遂行されるのでしょう…)

(※そして宮内庁の管轄である以上、完成した天守を宮内庁=政府に寄付する形になるのか、それとも協賛企業などの
  100億単位の寄付金が、上記のNPO法人を通じた節税対策として消化されるのか分かりませんが、いずれにしても、
  完成後は入場料の徴収もままならないのではないでしょうか。ご参考:皇居東御苑公開要領

 
 
(前出の挨拶文より)

この「江戸城寛永度天守」は、日本全国で安土城以来100を越えてつくられた天守の最高到達点と言われ、日本一の壮大で、美しい城であり、且つ、栄華を極めた江戸時代文化のヴィンテージ(最高傑作)一つと言われています。
 
 
ここではもう詳しく申しませんが、言わば荒々しい「天守の時代」が終わった時から、「江戸文化」の熟成は始まったはずだと思うわけでして、両者は本来、別次元の物、ということだけは自信を持って申し上げておきたいと思います。

事ここに至っては、再建する会の3200名の会員の皆様には、<江戸城寛永度天守とは何だったのか><何を再建することになるのか> をさらにもう一歩、突き詰めて考えていただきたいと、ただ、ただ願うばかりです。

強烈なヘゲモニー(覇権)の表現としての、NY摩天楼や人民大会堂
~私なんぞが思う「江戸城寛永度天守」にいちばん似たもの~

さて、話はガラリと変わりまして…
 
 
 
<真四角は「立体的御殿」との決別宣言だったか …徳川家康と藤堂高虎の選択>
 
 
 
前回の記事では「層塔型天守はどこで生まれたか?」という私自身の近年の探求テーマに関連して、真四角な平面形の「御三階」が、その解明の突破口の一つになるのではなかろうか… などという手前勝手な印象を申し上げました。

で、仮にその方向性のまま、御三階からさらに、天守の全般と「真四角」との関わりをもう一度点検してみますと、そこにはちょっと意外な存在として、江戸城の初代(慶長度)の天守台が含まれて来るのです。

2012年度リポートでもご覧いただいた家康時代の江戸城の推定

ご覧の「20間四方」はご推察のとおり、『当代記』の慶長度天守の天守台を築いた時の記録の「殿守台は二十間四方也」を踏まえたものですが、この数値はこれまで殆ど注視されて来ませんでした。

ところが、図のように伝来の城絵図を現在の地図上に重ねてみた場合、20間四方はほぼピタリと当てはまることが分かり、測量図とは異なる城絵図ではあるものの、『当代記』の文言はあながち嘘ではなかったのかもしれません。

となると、徳川家康と、築城名人・藤堂高虎が、顔を突き合わせて図面に手を入れたと伝わる、慶長の江戸城においても、天守台は「真四角」が選択されたのかもしれず、そこには二人の密かな構想が盛り込まれたようにも感じられるのです。
 
 
…… ということで、今回の記事は前置きがやや長くなってしまったため、やはりこの続きは、次回にじっくりと申し上げたく存じます。
 

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