日: 2013年12月9日

推定イラスト/将軍上洛時の小田原城天守の廻縁は、安土城・駿府城とならぶ壮観さか


将軍上洛時の小田原城天守の廻縁は、安土城・駿府城とならぶ壮観さか

11月30日「天守の森」命名記念の伐採イベントより

先日、小田原城天守の木造化をめざすNPO「みんなでお城をつくる会」が行った伐採イベントや、翌日のシンポジウムで、またまたハッとする気付きがありまして、思わず新規のイラスト制作となりました。

と申しますのも、第一に、NPOでは、旧小田原藩の所有林(現在は辻村農園の所有)を「天守の森」と名づけて、今後の木材供給のベースとしていく構想を打ち出しました。

この注目の「天守の森」構想は、木材の地産地消をかかげた小田原モデルらしいやり方ですし、昨今、各地で天守木造化の声があがる中で、木材の争奪戦による価格高騰や資源の枯渇というような、いらざる騒動を防ぐためにも、是非とも全国的に広がるムーブメントに化けて欲しいものです。
 
 
 
<明治維新で解体された「宝永天守」もいいが、どうせなら
 近世城郭として最盛期の「三代将軍・家光の上洛時の天守」を木造化できないのか、
 という市民・NPO関係者のストレートな願望にも一理ある…>

 
 
 
さて、翌日のシンポジウムでは、東海道の五つの城(江戸・小田原・掛川・駿府・名古屋)の木造再建を担う方々がパネリストになりました。

この場で、私なんぞには思いもよらぬ発言が聞かれ、逆に、それまでの自分のうかつさを思い知ったのです。
 
 
《ある発言》
… いまの鉄筋コンクリート造の小田原城天守は、江戸中期に再建された通称「宝永天守」をベースに外観を設計したため、それ以前のものに比べて、頭でっかちな設計になっていて、かつてはもっと頭が小さく、朱塗りの欄干が美しい、徳川三代将軍・家光が登ったという天守も、小田原城にはあったのです。…

 
 
! ! 私はてっきり、小田原で木造再建するのは、明治維新まで存続した「頭でっかちな」宝永天守だとばかり勝手に思い込んでいて、疑いもしませんでした。

発言はとりたてて宝永天守を否定する意図はなさそうでしたが、それでも大変に意外だったのは、礎石など、当時の遺構が一切ない小田原城天守にとって、復元の(ある程度)確実なよりどころになるのは、有名な解体途中の古写真(=宝永天守)だけと言っても過言ではないからです。

そのため文化庁の許可を得る観点からも、また古くから藤岡通夫先生の研究などが既にある宝永天守しか、再建の可能性は無いはず、と頭から決めてかかっていたわけです。
 
 
ですが、「出来るなら最盛期の小田原城を…」と言われてみれば、確かに、もしも遠い将来の話として、将軍家光が宿泊した本丸御殿の復元も、という話を視野に入れるなら、宝永天守で木造化してしまうと、本丸御殿は時代が合わずに後の祭り、ということにもなりかねません。

この点では、我が事として「木造化」を考えている市民やNPO関係者の方々と、私なんぞとの間には、ある種の真剣さにおいて差があったのではないかと、シンポジウム会場の一角で密かに反省した次第なのです。
 
 
 
<そこで試しに、将軍家光の上洛時の天守を推定イラストにしてみる>
 
 
(『小田原資料覚書』貞享3年1686年より)

御天主、上段四間に六間、二段三段八間十間、穴倉、四段目拾間拾弐間
 
 
ということで、家光が登った天守を、試しにイラストにしてみようと思い立ったわけですが、推定のもとになる史料はほんのわずかです。

それでも、上記の短い文章にもちゃんと注目点はあり、例えば「穴倉」が「四段目(=初重)」とまったく同じ10間×12間と読み取れるのは、すなわち半地下式の穴倉構造(上半分が初重と同規模)だった可能性を示しているのでしょうし、とりわけこの点は、かつて豊臣秀吉の石垣山城天守がほんの目と鼻の先にあったことを思えば、大注目と言わざるをえません。

(※→小田原城と秀吉の城の「天守台の酷似」についてはこちらの記事を)
 
 
また、最上階「上段」だけが急に小さくなっている物理的な関係から、最上階の直下には、かなり大ぶりな二層目の屋根がかかり、その内部に “屋根裏階” を考えざるをえないのではないでしょうか。

この形は、やはり当サイトが注目してきた、層塔型天守への過渡期にも見られた <最上階の直下の屋根裏階> の一例(他に姫路城など)であろうと思われ、以上のような形態的な特徴は、この天守が豊臣期の手法を部分的にひきずっていた可能性を物語っています。

内閣文庫蔵の相模国小田原城絵図(正保図)の本丸周辺
家光が箱根の山々や相模湾を眺めたという天守が描かれている

さらに、この天守の外観を知る手がかりは、ご覧の城絵図のほかに殆ど無く、地元で長年、小田原城の研究をされた田代道彌先生は、絵の描写について「最上層と第二層に勾欄をめぐらせた美しい姿で、屋根には破風をのせず、全体に桃山風の典雅さに満ちている」(『歴史群像 名城シリーズ8』)と評しておられます。

となると、問題は、文献に伝わる各階の規模と、上下二つの高欄廻縁はどういう風に配置されたのか、という点が検討課題になるわけで、とりわけ上記の城絵図の天守は、下の方の高欄廻縁が “やや厚みがある” かのように描かれているところが、推定のポイントかもしれません。

二つの考え方

ふつうに考えますと、左の図のように、文献の「二段」が前述の “屋根裏階” を兼ねていて、そのまま素直に「三段」「四段目」「穴倉」と重なる形が思い当たります。
 
 
その一方で、上下二つの高欄廻縁、というゴージャスな意匠(家光の江戸城天守にも無い!)はいったい何を思って造型したのか、と考えますと、これはもう、織田信長の安土城天主や、神君・徳川家康の駿府城天守を想起させるものでしょう。

安土城天主にも、上下二つの高欄廻縁があったとする復元案
宮上茂隆案             西ヶ谷恭弘案


当サイト案

そもそも近世城郭としての小田原城は、寛永11年、将軍家光の上洛に合わせるため急ピッチで整備されたわけで、その年の正月まで城主として工事を督励しつつ急死した稲葉正勝(春日の局の子)が、家光のために、あえて天守に格別の意匠を施したものと考えても、さほど不自然ではありません。

(※また小田原城は「公儀の城」でもあったと言われ、格別の意匠は、すでに完成した天守への「後補」であった可能性も含まれるでしょう)

そこで気になるのが、城絵図に描かれた “やや厚みがある” 下の方の高欄廻縁でありまして、そういう形状(…安土城天主を模した?)を実現するため、イラストは図の「右のプラン」で作ってみました。



現在の復興天守
天守の西側の八幡山古郭東曲輪から眺めた状態 / 本丸は天守の向こう側になる



同じ位置から眺めた、家光上洛時の天守の推定イラスト

さてさて、実際の家光上洛時は、本丸の周囲にこんなに木々が生い茂っていたとも思えず、その辺りは何とぞご容赦のほどを…。

ですがまぁ、ご覧のとおり、復興天守(≒宝永天守)と寛永の天守は、これほど印象が違うのか!! ということには我ながら驚きがあり、細部の推定については色々とご意見はありましょうが、建物のプロポーション自体が違うという点は間違いのないところです。
 

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