日: 2014年5月25日

立体的御殿における「御上」の存在感


立体的御殿における「御上」(おうえ)の存在感

【お知らせ】
完成がとてつもなく遅れています2013年度リポート(最後の「立体的御殿」駿府城天守 ~朱柱と漆黒の御殿空間をビジュアル化する~)は依然として難工事を続行中です。この際、全体の体裁を2013-14年度リポートとしまして、この夏頃には是非ともお目にかけたいと決意しております。
 
 
ということで、今回の記事は「立体的御殿」の話題にもどって、『匠明』当代屋敷の図などに見られる「御上」の御殿が、萌芽期の天守(立体的御殿)において、かなり大きな存在感を持っていたのでは… というお話を申し上げてみたいと思います。

※ご参考 『岩波 古語辞典』より

おうへ【御上】
1 畳の上。座敷。また、居間あるいは客間
2 良家の主婦の敬称。「いかなれば-にはかくあぢなき御顔のみにて候ふぞや」<是楽物語>

※『三省堂 大辞林』より

おうへさま【御上様】
主人や目上の人の妻の敬称。おえさま。おいえさま。おうえ
 

発掘された滝の庭園が話題の、岐阜城・千畳敷(NHK番組の一コマより)

さて、当サイトは織田信長の岐阜城の千畳敷に関して、「全体がいわゆる山里ではないのか」「別の場所に四階建ての楼閣があったはず」等々と、発掘調査関係者の方々の神経を逆なでするようなことばかり申し上げて来ましたが、いま話題の “二本の滝の庭園” はさすがに、一日も早く現地で拝見したいという願望をかき立てられております。
 
 
一方、発掘調査のホームページや上記の番組CG等を見るかぎり、この20年近く可能性が強調されて来た「階段状居館説」はずいぶんとトーンダウンして来たようです。

すなわち、階段状に建物が接続した「増築を重ねた温泉宿のような構造」ではなくて、言わば「階段状」の曲輪群にそれぞれ配置された複数の建物、といった解釈に落ち着いたように見受けられます。

ですが、それでもまだ、私なんぞの疑問としては、例えば松田毅一『完訳フロイス日本史』の訳文では「予の邸」は「大きい広間」とは別の建物であって、その第一階に「約二十の部屋」があり、その「前廊の外に」「四つ五つの庭園」が位置していて「三、四階の前廊からは全市を展望」できたというのですから、上記のCGでも、まだまだ苦しい解釈だと思えてなりません。

(※またご承知のとおり、それ相応の礎石類は未発見のままですし…)

発掘調査地とは別の場所にあったと考える、当サイトの「四階建て楼閣」説。
『耶蘇会士日本通信』の訳文を当てはめれば 日本史上最大の楼閣に……

これは4年前の記事でご覧いただいた図に若干の加筆を行ったもので、何べんも申し上げて恐縮ですが、やはり山麓の「宮殿」(「予の邸」)は四階建て楼閣であり、足利義政造営の「銀閣」とまったく同じように、現在の岐阜公園の平地部分(昔御殿跡)において山側を向いて! 建っていたと考えた図です。
 
 
これを何故またご覧いただくのか(こだわるのか)と申せば、この楼閣こそ、「立体的御殿」の進化にとって、かの小牧山城の大発見と並ぶほどの、重要で欠くべからざるマイルストーン(一里塚/節目)だと感じるからです。

それは図のごとき「地階」があったなら、実質的に五重規模の史上最大の楼閣となりますし、また各階にそれぞれ性格を持たせていた節があるなど、まさに「立体的御殿」のプロトタイプと申し上げて良いのではないでしょうか。

そうした観点から、とりわけ留意すべきは二階の描写だと思われ…
 
 
(松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史』より)

二階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。

(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)

宮殿の第二階には王妃の休憩室其他諸室と侍女の室あり。下階より遥に美麗にして、座敷は金襴の布を張り、縁及び望台を備へ、町の一部及び山を見るべし。
 

一階よりも美麗な二階には「王妃」=正室の濃姫(帰蝶)の休憩室が??…

ご覧の四階建て楼閣は、基本的には、建物の主目的が「銀閣」と同様の “月見のための楼閣” だったと考えるべきでしょうから、そこに「休憩室」という訳語が出て来てもなんら不思議は無いはずで、その最も美麗に仕立てられた二階は「王妃」の階だったというのです。
 
 
これは特筆すべき事柄だと思われまして、何故なら、その後の安土城天主でも、各階の障壁画の画題等は詳しく判っていても、ここまではっきりと「誰」のための階(部屋)と書かれた記録は他に無いわけで、信長の「立体的御殿」に対する発想を知るうえで、たいへんに貴重な証言だと言えるのではないでしょうか。

で、そうした発想は突然、信長の発意だけで生じたものかと言えば、そうでもないらしい… という点が、今回、強調させていただきたいポイントなのです。

『匠明』当代屋敷の図では、北西のいちばん奥に描かれた「御上方」
(その右下には「局」「台所」、左下には「御寝間」が描かれている)

皆様ご存じの平内政信の『匠明』は慶長年間の成立ですから、ご覧の図は織田信長よりやや時代が下るものの、ここにある「御上方」の御殿の位置は、どう見ても「天守」のあるべき位置と同じ?であるように見えて仕方がありません。例えば…

 左:聚楽第図屏風   右:洛中洛外図の二条城(慶長度天守か)
ともに本丸の東南に大手門、北西の奥に「天守」を配置したらしい

このように聚楽第や徳川家康の二条城、駿府城など、本丸御殿の敷地が四角い近世城郭と比べた場合、「天守」と「御上方」はほぼ同じ位置にあったと言えそうでして、これがさきほど申し上げた信長の「立体的御殿」の発想ともピタリと合致しそうで、ずっと気になって来た事柄なのです。

とりわけ気になるのが、従来、安土城天主の各階の「解釈」をめぐっては、諸先生方の間でいくつか相違があったものの、おおむね天主台上の「二階」については「対面所」という解釈で一致して来たのに、それが実は「王妃」の階=すなわち江戸城にもあった御台様の大奥対面所の先例だった… などという話は、諸書ではまったく見かけたことがありません。

ですが、ですが、今回お話し申し上げているように、信長の「立体的御殿」の進化のプロセスを推定する上では、<二階は「王妃」の階>であり、<二階の対面所は大奥対面所の先例だった> という見方は、けっこう理にかなった配置手法であると思えて来るのが、なんとも興味深いのです。
 
 
いずれにしても、ここでいちばん大事なことは、岐阜城千畳敷の場合、もはや小牧山城の山頂のようなスペース的な制約はまったく無かったわけで、それでもなお、信長が「立体的御殿」に執着したことが、次の安土城での天主誕生!! につながったのだという見立てが、当サイトの筋立ての屋台骨になっているわけなのです。

今回の話からの推論) 銀閣や金閣にもあった空中の橋廊下、史上最大の四階建て楼閣の場合は?

それは話題の滝の庭園へ…??

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