日: 2014年6月23日

再吟味!「五重め(四階) 御絵ハなし」の実相


再吟味!「五重め(四階) 御絵ハなし」の実相

銀閣 の二階「潮音閣」(ちょうおんかく)は、観音像を囲む壁が一面の漆黒!
これを 例えば「御絵ハなし」 伝えても、不都合は無いはず! ? …

ならば織田信長の「立体的御殿」の四階はいかに…

このところ、岐阜城に四階建ての楼閣があったとする当サイトの仮説を前提にしまして、信長の「立体的御殿」(萌芽期の天守)の発想のあり方を色々と申し上げてまいりました。

で、いよいよ最上階の四階はどうなのだ? となりますと、これがチョット不思議なことに(皆様よくご承知でしょうが)大した記述が無いのです。… ! !

(フロイス『日本史』柳谷武夫訳より)

山と同じ高さの三階には、いくつかの茶室がある一つの回廊があります。茶室はことさらに選ばれた閑静な所で、何の物音も聞えず、人のさまたげもなく、静粛優雅です。三階と四階とからは町全体が見渡されます。

(村上直次郎訳『耶蘇会士日本通信』より)

第三階及び第四階の望台及び縁より町を望見すべく、高貴なる武士及び重立ちたる人々は皆新に其家を建築したれば、宮殿を去って甚だ長き街に出づれば王の宮廷に仕ふる者以外の人の家なし。
 
 
つまり四階については、外の眺望に関する記録しか無く、四階の内部がどうなっていたかは一切、記述が無いわけでして、せっかく「立体的御殿」を重ねた上の最上階であるのに、こういう状況というのは、私なんぞには、逆に気がかりで仕方がありません。

四階内部は本当に何も記すべきことが無かったのか… いや、そもそも「無い」とはどういう部屋の状態なのか… とりわけ記録者が宣教師という特殊事情を踏まえれば、と考えた時、ふと思い当たるのが冒頭の写真です。

この銀閣の二階(潮音閣)は、実際に現場をご覧になった方の言葉を借りれば「室内を見た時の衝撃・感動が忘れられない」「漆黒の世界に、障子越しの淡い光を、にぶく金色に放つ仏像。足利義政の心をみたり」(建築家・西方里見様のブログ「家づくり西方設計」より)という感じだそうで、かなり異様な真っ黒い空間が、逆に日本人の心をつかむのかもしれません。

ちなみに、足利将軍・義政が自ら命名したという「潮音閣」は、観音像を安置した禅宗様の仏堂であり、義政の造営のときから壁は黒漆塗りであったことが判っています。
 
 
そこで、もし、フロイスらが何も記録しなかった四階とは、こういう状態のことだった、と仮定した場合、話はまるで別の方向に大きく展開せざるをえないでしょう。
 
 
と申しますのは、かの金閣の二階もまた、ご承知のとおり「潮音洞」(ちょうおんどう)と呼ばれる和様の仏堂であり、しかも内壁は同じ黒漆塗りであるため、この両者に共通した「潮音」(ちょうおん)という名称はいったい何から来たものなのか、たいへん気になるところで…

1 海の波の音。潮声。海潮音。
2 仏・菩薩(ぼさつ)の広大な慈悲を大海の波音にたとえていう語。海潮音。

などと辞書には書かれていて、したがって四階は「何も無い」どころか、宗教的な背景をもつ、一つの世界観を与えられた階であった可能性が浮上して来るからです。

ひるがえって、これまで安土城天主の五重目(四階)は単なる「屋根裏階」とも…

(岡山大学蔵『信長記』より)

五重め 御絵ハなし
南北之破風口に四畳半の御座敷両方にあり
小屋之段と申也

 
 
(木戸雅寿『よみがえる安土城』2003年より)

こうしてみると天主じたいが後の本丸御殿に見られる書院の部屋の数々を階上に配列を変えて作られたものであることがわかるであろう。なぜ信長は、平面ではなく塔にしたのか。問題は各階各部屋の画題である。
(中略)
五重目には絵はない。これじたいも「無」が画題なのかもしれない。
 
 
さて、木戸先生の貴重な「無」発言を見ましても、安土城天主については『信長公記』類の「安土山御天主之次第」に各階各部屋の襖絵の画題が一々記録されているため、五重目だけが「御絵ハなし」とあっさり書かれていると、さも(評価に値しない)取るに足らない階であったかのような錯覚に、我々はいつの間にか、陥っていたのではないでしょうか。

かく申し上げる当ブログも、過去の記事(暗闇と迷路の五重目は「無」か「乱世」か)では、五重目が静嘉堂文庫蔵『天守指図』によると、ほぼ真っ暗闇になることから、それは暗闇の上方の最上階の「光」を際立たせる演出ではなかったか、などと申し上げるのが精一杯でした。
 
 
しかし今回、岐阜城の状況を踏まえて <銀閣-四階建て楼閣-安土城天主> という連関を想定してみますと、天主五重目は建物の構造として屋根裏であったとしても、ただの素朴な屋根裏階ではなくて、れっきとした性格(世界観)を与えられた階であったのかもしれません。

すなわち、一面の漆黒の階は、天下布武のあかつきの安寧(あんねい)と静謐(せいひつ)の受け皿となるべき、広大な空間の広がり(=制圧と版図)を表現していたようにも感じるのですが、いかがでしょうか。

天主(立体的御殿)の四階は、言わば潮音の階?

ということは、信長が岐阜城の段階で仕掛けた「立体的御殿」の全体構想とは…

この際、さらに申し上げておきますと、この前後の織豊政権のありようを思えば、天下布武の構想には「海の波音」が重低音のように低く鳴っていたのかもしれず、信長の「天下」観念のなかに「大海」がしっかりと組み込まれていた節も感じられて、改めて刮目(かつもく)する思いがするのです。
 

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