日: 2014年8月17日

続々「金頂」の御座としての最上階 …正体不明の「鐘」はついに一度も鳴らなかった?


正体不明の「鐘」はついに一度も鳴らなかった?

是非もう一回だけ、織田信長の「立体的御殿」の最上階に関する事柄を申し上げてみたいと存じます。

すなわち、安土城の天主には「最頂上に一の鐘あり」(『耶蘇会士日本通信』1577年の書簡より)という珍しい記録があるものの、これは『信長公記』など他の文献にまったく登場しないため、<正体不明の鐘>とされている点です。

この宣教師の書簡について内藤昌先生は…

(内藤昌『復元 安土城』1994年より)

この書簡の記された天正五年時には、安土城天主の作事は内装工事に至っていないので、工事中の時鐘かもしれず、正確の意味を理解しかねる。
慶長十五年十一月上棟の小倉城天守などには、最上階に鐘がつられていた(細川家文書『豊前小倉御天守記』)ので、あるいはそうした類とも思える。

 
 
という風に、内藤先生もややサジを投げた状態のまま今日に至っているわけですが、例えば朝廷に「尾張暦」の採用を求めた一件など、言わば“時の支配者”をめざした感のある信長にとって、天主の最上階に「鐘」というのは、どこかピッタリ過ぎるシチュエーションのように思えて、気になって仕方がなかったのです。

しかも上記の文章で釣鐘があったという小倉城天守は、一階が御殿風の造りになっていたあたりが「立体的御殿」との関連性を感じさせますし、また寛永四年に焼失した初代の弘前城天守では、釣鐘は四重目にあったとも云います。

しかし安土城天主の最上階というと…

(尊経閣文庫蔵『安土日記』の記述より)

上一重 三間四方 御座敷之内皆金
外輪ニ欄干有 柱ハ金也 狭間戸鉄黒漆也
三皇五帝 孔門十哲 商山四皓 七賢
狩野永徳ニかゝせられ

当サイト仮説の最上階(七重目)

手前味噌のイラストまでお見せして恐縮ですが、諸先生方による復元を参照しましても、最上階は決して鐘突き堂のごとき構造にはなっておりませんし、天井には格天井などがあって、部屋の内外にそれらしき「一の鐘」をつり下げる余裕はどこにも無い、という状態です。

ちなみに、福山城に現存の鐘櫓(かねやぐら)は時の鐘を鳴らしたものですが、天守の鐘というのはいったい何を目的としたのか…

 ・神社の鐘は、願いごとをする神様への挨拶として。
 ・寺院の鐘は、時報の役割やその音色による功徳。
 ・教会の鐘は、主に礼拝の開始を知らせる時報として。

ということで、もちろん「鐘」には純然たる時報以外の役割もありますし、当時、安土城下で日常的に城や天主から鐘の音が聞こえた、という記録は特に無いようですから、ひょっとすると信長の「鐘」もまったく別の目的があったのかもしれません。

そこで考え方を少々変えまして、仮に安土城天主に「鐘」があったとしても、それは一度も鳴らなかった(=鳴らすべき時がついに来なかった)と想定してみますと、それはそれで、一つのありようが浮き彫りになるのではないでしょうか。

アメリカ独立宣言の時に鳴らされた「自由の鐘」(写真:ウィキペディアより)

これなどはご承知のように、独立宣言にちなんだ銘文が刻まれていて、それは旧約聖書の「全地上とそこに住む者すべてに自由を宣言せよ」という一文で、それを鳴らした、ということであって、鐘そのものに意味があるのではなくて、銘文の文言の方に重要な意味があったという特別なケースの鐘です。

沖縄・首里城の正殿に掲げられていた万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘

これも銘文の中身が重要でして、そこには「偉大な尚泰久王は仏法を盛んにして仏のめぐみに報いるため、この鐘を首里城の正殿前にかけた」という意味の由来が刻まれているそうです。

ところが一般には、文頭の方の「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀をあつめ、大明をもって輔車となし、日域をもって唇歯となす。この二中間にありて湧出せる蓬莱の島なり。舟楫(しゅうしゅう=舟運)をもって万国の津梁(しんりょう=橋渡し)となし…」という部分がクローズアップされ、そのためこれは琉球の“交易立国”を宣言した鐘なのだとされていて、その微妙な政治的立場も含んだ特別なケースの鐘だと言えるでしょう。
 
 
かくして、日常的に突いた鐘ではなく、何か特別な願文を刻みつけ、念願がかなった時にそれを打ち鳴らす、という目的で造られた「鐘」もありえたのではないでしょうか。

そして信長の安土城天主の場合、そうした鐘がついに一度も鳴らなかった、となれば、それはもう言わば「天下布武の鐘」とでも言うべき代物(しろもの)が、いやおうなく想像されてならないのです。
 
 
 
<よもや正体不明の鐘は、天主最上階の天井裏に! ? … >
 
 

そこで例えば…
スロベニアの聖マリア教会では、天井から下がる紐をつよく引くと鐘楼の鐘が鳴る


(※写真は「Yahoo!Japanトラベル」の「にゃにお」様の記事からの引用です)

「最頂上に一の鐘あり」

ご覧の写真のように、高い鐘楼の上の鐘が(下から見えないものの)ロープで鳴らせる、という形は世界各地のキリスト教会に普及したようですし、そんなものを当時、信長も日本において見聞き出来たのかもしれません。

また日本古来のものでも、四天王寺の北鐘堂(現状は昭和の再建)は天井裏に鐘をつっている例として知られます。
 
 
となれば、冒頭の内藤先生の「この書簡の記された天正五年時には、安土城天主の作事は内装工事に至っていないので…」という指摘は、まさに、取り付け工事中でなければ目撃できなかった鐘! … といった可能性も含むわけです。

天主が完成すればその鐘は見えず、もしも屋根裏に仕込まれたなら、説明されないかぎり存在に気付きもしないでしょうから、『安土日記』(『信長公記』)の村井貞勝らの拝見記にまったく登場しないのも無理からぬところでしょう。

そのうえ注目すべきは、問題の宣教師の書簡が「最上階」ではなく、あえて「最頂上」という訳文が当てられた報告文であったことで、そこに並々ならぬ目撃者の感慨を読み取ってしまうのは、私の行き過ぎでしょうか。

かすかに記録された「鐘」の正体は、金頂の御座の天井裏に仕込まれた「天下布武の鐘」…。

その銘文に何と書いてあったかが分かれば、生涯、説明なき言動ばかりの織田信長の本意について、いくらかでも知ることが出来ただろうに、と想像が勝手にふくらんでしまうのです。
 

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