日: 2014年10月21日

世紀の大予言 的中。話題の大和郡山城の発掘成果では「新たな注意点」も


世紀の大予言 的中。話題の大和郡山城の発掘成果では「新たな注意点」も

先々週ようやくお届けできた年度リポートは、まだ色々と補足して申し上げるべき事柄や画像が残っているものの、リポートの追い込み作業の頃に発表された「郡山城天守台発掘調査」の方がどうにも気になって仕方なく、こちらの話題を先にさせていただこうかと思うのです。…
 


(※上記の写真や図は「郡山城天守台発掘調査現地説明会資料」のPDFをもとに作成しました)

もうとっくにご存知の事とは思いますが、一応、ネット上の報道の文面をなぞっておきますと…

(毎日新聞 2014年09月12日)

豊臣秀吉の弟、秀長が城主だった郡山城(奈良県大和郡山市)の跡で、天守を支えた礎石群(16世紀末)が見つかり、同市教委が12日に発表した。
天守は礎石の配置などから1階は南北約18メートル、東西約15メートルの5階建て程度に復元できるという。金箔(きんぱく)が一部に残る瓦も、城内から初めて出土した。豊臣政権期の築城で様相が明らかな城は少なく、十文字健・市文化財係副主任は「城郭構造や築城技術の発展を考える上で重要」としている。
郡山城の天守に関する史料はほとんどなく、築造年代も不明で天守の存在を疑う説もあった。今回、出土した瓦の形や製作技法、天守台上面に再建や修復の痕が無いことから、秀長らが居城とした16世紀末の築造と判断した。
石川県金沢城調査研究所の北垣聡一郎名誉所長は「発掘により築造時期が分かる城は珍しい。全国の天守を比較して研究する際の基準になる」と評価している。

ということで、発掘された天守台上には、上図のように「井桁」状に並んだ礎石列(縦の南北方向に二列、横の東西方向に三列)の痕跡があり、その列の数はあたかも、約20年前、かの宮上茂隆先生が提起して賛否両論を巻き起こした「大和郡山城天守の二度の移築説」を後押しするような状態でありまして、私なんぞはこれを見て思わず、ブルッと身が震えたのです。

ご承知のとおり「二度の移築説」というのは、この大和郡山城天守が、徳川家康の二条城天守として移築され、それがさらに松平定綱の淀城天守として二度目の移築が行われたはず、というものでした。

しかし『愚子見記』等に基づいた宮上先生の主張は、なかなか最後の決め手を欠いたまま今日に至っており、それが今回の発掘調査で、ようやく決着がついたようなのです。

その驚きの結末を、図解でご覧いただきますと…

宮上先生が「二度の移築説」において参照した、松岡利郎先生の淀城天守復原案
(『探訪日本の城 別巻』1978年より)


同復原案の「二階」(一階と同大) これが宮上説では二度目の移築後の状態に当たる


当の松岡先生は、二度の移築説にやや問題点をお感じのようでしたが…
赤く表示した「二階」と、調査報告の図を 同縮尺 ! でダブらせると、なんと! !



上図の拡大 ! ! ! 世紀の大予言 ほぼ的中。


天守台上の周縁部に、南側を中心に、数十cm平均の控えがあるだけ

礎石列の合致の具合など、もう何も、何も言葉が出ません…

ご覧のように、故・宮上茂隆先生(1940-1998)の指摘(世紀の大予言!)をめぐって大変なことが起きているようで、とても心おだやかでいられません。

これで、大和郡山城→二条城→淀城という天守の移築が、ほぼ証明されたかのような印象ではありますが、それにしても「移築」と言えば、旧天守の古材を使いながらも、建物はもっと改変された事例(彦根城天守など)しか知らなかったわけで、今回のは移築と言うより、そっくりそのまま「継承」されたかのように、殆ど改変が無かったことになりそうです。!

しかもそれが “二度にわたって” 行われた可能性があるわけで、これには本当に、驚きを禁じえません。

で、その理由(→徳川幕府が何故この天守だけを丁重に扱ったのか?)については今後、色々と研究がなされるのでしょうが、今回のブログ記事で是非、申し上げておきたいのは、大和郡山城→二条城→淀城と、天守がそっくりそのまま「継承」されたのなら、そのことによって逆に、宮上説に対する【新たな注意点】も浮き彫りになったのではないでしょうか?

 
 
 
【新たな注意点 その1】
 大和郡山城天守もやはり、最上層屋根の「唐破風」の向きは、
 淀城天守や二条城天守の復元とまったく同じに、
 建物の「平側」であったはず

 
 

前出の松岡先生の淀城天守の復原案より(平側!の立面図に唐破風)

そして宮上先生ご自身による二条城天守の復元案(平側!の立面図に唐破風)

ご覧のように、一度目の移築の二条城天守、二度目の淀城天守と、宮上・松岡両先生の復元では、どちらも天守の建物の平側(長辺の側)の最上層屋根に「唐破風」が想定されていて、これは国宝の彦根城天守や姫路城天守と共通した手法になります。

そして今回の発掘調査で、建物の礎石の配置までが、大和郡山城-二条城-淀城の天守は事細かに共通(継承)していた可能性が濃厚となった以上は、当然のごとく、原点の大和郡山城天守もまた「平側」に唐破風があったと考えてしかるべきでしょう。

ところが、かつて宮上先生が提起した大和郡山城天守の復元案だけは、何故か(…ある “思惑” のためか?)「妻側」に唐破風を想定するなど、すべての破風が90度、方角をずらして配置されたのでした。

宮上先生の大和郡山城天守の復元案(『復元大系 日本の城』1992年より)

ご覧のイラストは北東から見た状態なので…

いったい何故?という印象でしょうが、宮上先生がこのような復元をあえて行ったことの背景を推理しますと、ちょっと複雑な話になるわけでして、結論から先に申せば、下記の豊臣大坂城天守の「宮上復元案」との “整合性” を持たせたかった、ということに他ならないのでしょう。

先ごろ新装版が出た名著(文句なく名著です!)の表紙を引用させていただきますと…

現に宮上先生は、ご覧の本のあとがきで「私は、安土城天主や、大坂城と兄弟関係の大和郡山城天守を、信頼できる史料によって復元設計しています」と書いておられ、豊臣大坂城と大和郡山城の天守を「兄弟関係」とまで想定していました。

しかし、上の表紙のような破風の配置の復元方法は、かの「大坂夏の陣図屏風」の、豊臣大坂城の西側と南側を混在して描いてあったことの影響(まことに残念な結果)によるものだろう、という一件は、当サイトの「リポートの前説」で詳しく申し上げたとおりです。

すなわち、そもそも豊臣大坂城天守の唐破風(徳川幕府の監視下での秀頼再建時)も、彦根城や姫路城と同じく「平側」スタイルのはずでありまして、この件には今なお強い確信を抱いております。

世紀の大予言を的中させた宮上先生について、これ以上、アレコレ申し上げるのは本当に心苦しいのですが、今回の発掘成果の発表があって以来、大和郡山城天守に対する世間(地元?)の注目もあり、事あるごとに引き合いに出される推定復元の画像などが、すべて宮上説か、宮上説を参照したCG等ばかりで、どうにも見逃せない状況になって来ています。

で、あえて心を鬼にして申し上げますと、ご承知のとおり、前出の松岡先生の復元図のもとになった原史料には、ある「欠陥」が存在していたのですが、宮上説の肝は、その欠陥をあえて逆手にとることで成立した、と申し上げても宜しいのではないでしょうか。

原史料の「山州淀御城天守木口指図」二階(欠陥=桁行と梁間の長さがあべこべ)と
松岡先生によるその欠陥の修正(復原)図(これが発掘調査とピッタリ合致しました!!)

一方、宮上先生は、原史料の桁行と梁間の長さ(長辺・短辺)をそのまま大和郡山城の天守台に当てはめれば、ちょうど最上階の唐破風が「大坂夏の陣図屏風」と同じ向きになる、という点にも着目したようで…

ですが、これは今回の発掘調査の成果によって、出土した礎石の配置とまるで噛み合わないことが証明されたわけです。

これは言うなれば、宮上先生の大予言は的中したものの、天守の具体像は “思惑がはずれた” と申し上げてもいいのかもしれません。

この度のニュース解説用に出回った略図も、宮上説の影響で、南の妻側に唐破風が…

以上の結論としまして、例えばご覧の略図や、同じく宮上説を参照された奈良産業大学の「郡山城CG再現プロジェクト」につきましても、天守の破風の配置は90度、方角がずれていると申し上げざるをえないのです。…
 
 
 
【新たな注意点 その2】
 大和郡山城天守が大きな付櫓台を介した「妻入り」天守ならば、
 それは豊臣大名らの望楼型天守群に含めるよりも、その後の、
 徳川将軍の「妻入り」層塔型天守につながる「祖形」と位置づけるべきか

 
 
(※突然で恐縮ですが、すでにかなりの長文になってしまったため、
  ここから先の内容は、次回のブログ記事で、改めて申し上げることに致します)

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