日: 2014年11月10日

あえてイラスト化する「初めて見た四方正面の天守…」徳川家康の心象風景


あえてイラスト化する「初めて見た四方正面の天守…」徳川家康の心象風景

徳川家康と、家康を大和郡山城に招いた豊臣秀長

左写真は徳川家康の側室・西郷の局ゆかりの宝台院(静岡市)に伝わる家康像だそうで、右写真は豊臣秀長の菩提寺・春岳院(大和郡山市)に伝わる秀長像です。

豊臣秀吉の弟・豊臣秀長(とよとみのひでなが)は豊臣政権の前半期を支えた名補佐役として有名ですが、天正16年、秀吉に対して臣下の礼をとって間もない頃の徳川家康が、秀長の居城・大和郡山城を訪問しました。

この時、秀長はわざわざ木津まで家康一行を出迎えたという話も有名で、この二人の関係を思えば、その後、もしも秀長が秀吉より長生きしていたなら、日本の歴史はどう変わっていたか(…果たして関ヶ原合戦は起きたかどうか)分からない、などと言う人が多かった二人です。
 
 
で、前回のブログ記事では、大和郡山城の天守(台)をめぐる宮上茂隆先生の “世紀の大予言” =二度の移築説が、この度の発掘調査によって、そうとうに証明されたような感があることを申し上げました。

しかもその「移築」はほとんど改変の無いもの(そのまま継承?)であった可能性が濃厚のようで、なぜ徳川家康や幕府が、豊臣政権の中枢にあった人物(豊臣秀長→秀保→増田長盛)の居城の天守を、そこまで丁重に扱ったのかは、大変に大きな謎だと言わざるをえません。

赤い図は松岡利郎先生による淀城天守の復原案 / 背景のカラー画は発掘調査報告より

改めてご覧のとおり、少なくとも天守の主要な構造には大きな改変は無かったらしく、もし細部についてもそっくりそのままであったのなら、そんな異例の措置の動機としては、それこそ冒頭の二人の関係性の他には、ちょっと考えようが無いのではないでしょうか?
 
 
ただしそれには、大和郡山城の天守がいつ建造されたかが問題になるわけでして、調査報告では、天守台の礎石等に修復のあとが無いため、おのずと天守は豊臣秀長か、その後継者の秀保(ひでやす)か、もしくは豊臣五奉行の一人・増田長盛のいずれかの時代に一度しか建てられなかったはずであり、それ以上の細かい時期は特定できなかった、としています。

ということは、天正16年、徳川家康が郡山を訪問した時、そこにはまだ「秀長の天守」が完成していなかった可能性(天正14年に完成直前の地震で崩れたとの記録あり)も若干は残っているわけですが、もしそんなことであれば、天守の「二度の継承」は、どこにも理由が見つけられられなくなってしまうことでしょう。

で、やや観点を変えて申し上げたいのは…
 
 
 
【新たな注意点 その2】
 大和郡山城天守が大きな付櫓台を介した「妻入り」天守ならば、
 それは豊臣大名らの望楼型天守群に含めるよりも、その後の、
 徳川将軍の「妻入り」層塔型天守につながる「祖形」と位置づけるべきか

 
 

この度の調査報告においても、現存の天守台の上に北東側から登る「石段」は、後の時代に付け加えられたものであり、創建時の登閣口は、大きな付櫓台の南面の石垣に痕跡がある「地階入口跡」であったことが確認されました。

そうなりますと俄然、気になって来るのが「大きな付櫓台」の由来でして、何故なら、天守台そのものに匹敵する広さをもち、かつ南側から「雁行」するように取り付き、その南面に登閣口があった「付櫓台」と言えば…

という風に、当ブログが仮説で申し上げて来た「立体的御殿」が「天守」として形を整えたプロセス(※上の3図は時系列とは逆の並び)の中でも、大和郡山城天守は、古い方と新しい方の形態を、両方そなえているように感じるからです。

どういうことかと申しますと、上記の天守群は初重の長辺・短辺の向きで言えば、福山城・豊臣大坂城は「平入り」の建物だったのに対し、大和郡山城のは明らかに「妻入り」であって別の要素を含む一方で、付櫓台の広さで言えば、福山城・豊臣大坂城と、最初期の小牧山城との中間に位置していることになりそうだからです。
 
 
ちなみに、この付櫓台に関しては、産経新聞(「郡山城の主は天下人クラス!?~」ほか)の記事において、おなじみの千田嘉博先生が「付櫓に隣接する形で、大名が実際に居住して政務を執る『本丸御殿』が建てられ、そこから階段か渡り廊下で付櫓に入ったのではないか」とし、「豊臣家の重要人物の城であることを考えれば、御殿と付櫓、天守が一体となった壮大な建築物だったかもしれない」とのコメントをされたそうです。

まさに付櫓台の地中から発見された「地階」は、安土城天主の天主取付台の南面!の石段に似たものであったのかもしれません。

そこで、イラスト化を行うための、当サイトなりの「付櫓」の規模や位置についての想定ですが、一説に、付櫓台はその西端に石塁があった可能性も言われていますので、下図のような想定でイラスト化を進めました。

さて、もう一方の「妻入り」の件で申しますと、天守の「平入り」「妻入り」の違いと、時系列とをからめて考えた場合、例えば…

豊臣大坂城と小田原城の天守台の、意外な類似性

以前のブログ記事で比較した天守台ですが、実は、この両者は「平入り」「妻入り」の違いを抱えていて、時系列的には、大和郡山城天守はこの二つの間の時期に建てられたことになります。ですから…

ご覧のように、間に大和郡山城天守をはさんで考えますと(三代将軍・徳川家光の上洛の時に建造された小田原城天守を含めて)徳川将軍のための「妻入り」層塔型天守につながる過渡的な形として、大和郡山城天守をとらえることも出来そうなのです。!…
 
 
で、以上をもう一度、整理しますと、大和郡山城天守は「大きな付櫓台」という観点では小牧山城につながる古い形を残し、安土城天主を思わせる壮大な構造をもっていた可能性がありながらも、「妻入り」という観点では、同時期の豊臣大名らの望楼型天守群を飛び越えて、ずっと後の徳川将軍の妻入り層塔型天守につながる「祖形」になったように思えてならず、この意味では、たいへんにユニークな存在だったのではないでしょうか。
 
 
このように考えて来ますと、やはり冒頭で申し上げた「家康と秀長」という関係を抜きにしては、とても大和郡山城天守を解釈できないように思われます。

おそらくは、家康の側が、この天守をことのほか、気に入ったのではなかったでしょうか。…

そこで今回は、そんな家康の「心象風景」がどういうものだったかをシミュレーションするため、以上の考え方に基づいて、大和郡山城天守をあえてイラスト化してみました。

付櫓を含めれば七階建ての五重天守を、現存天守台の上に再現!!

ご覧の天守の本体は、宮上茂隆先生の二条城天守の復元案に基づき、細部の意匠は豊臣秀吉の弟・秀長の天守として違和感の無い状態としつつ、それを北東側から眺めた様子を、現在、本丸にある柳澤神社の本殿とともにイラスト化したものです。

こんなシミュレーションにおいて、まず申し上げたいのは、破風の印象によって、これが「四方正面」の天守に見えた、ということではないでしょうか。

このことは宮上先生の二条城天守の復元案(および松岡利郎先生の淀城天守の復原案)にあった三重目の東西南北面の大入母屋と千鳥破風が、細部の意匠を「秀長の天守」と割り切って想定したことで、その印象がいっそう際立った結果だと言えるでしょう。
 
 
しかもそれは家康にとって「初めて見た四方正面の天守…」であっただろうことは、時期的に見てまず間違いないでしょうから、これが家康をして「この建物をそのまま移築したい」という欲求に駆り立てた原因のように思えます。

きっちりとした四方正面の天守は、徳川が幕藩体制を確立しようという時期から流行したものであり、それが「天守」の本質的な意味の転換に沿ったデザイン(織豊権力の版図を示した革命記念碑 → 幕藩体制下の分権統治の中心的な象徴)ではなかったか、という点は当サイトが再三再四、申し上げて来たことです。

そうしたダイナミックな転換の折り返し点が、実は、大和郡山城天守と、それを見た家康の心象風景だったのかもしれません。!…


(※画面クリックで1280×960pixの拡大サイズでもご覧いただけます)

そして家康の心理には、ダブルイメージとして、「豊臣秀長」という人物に対する記憶が、強く影響を及ぼした可能性もありそうです。

例えば秀長の言葉として「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(私・秀長)が相存じ候」という言葉があまりにも有名ですが…
 
 
(播磨良紀「豊臣政権と豊臣秀長」/『織豊期の政治構造』2000年所収より)

秀長は豊臣配下となった有力大名と近しい関係をもち、彼らの上洛に際してはその接待役を務めている。
豊臣政権が全国統一を進める中では、臣従した大名が大坂・京都へ出仕して豊臣大名として編成がなされるが、その出仕においては秀長が積極的に関わり、大名と秀吉を円滑に結びつける役割を果たしたのであった。

(中略)
秀長は秀吉の弟として、血族で一族大名として最高の位置にあり、統一戦争の先頭にたって活躍した。そのため、戦時や交渉には秀吉の権限を代行する「名代」の役割を担った。大友氏の書状にみえる「公儀之事」は、まさに秀長の「名代」の役割を示すものであった。
(中略)
しかし、一方では大名との交渉には大名の後見として内々に折衝する「取次」も存在した。九州大名に対し「内々之儀」を扱う千利休に代わって登場した石田三成や安国寺恵瓊は、秀吉と直接結びつき「公儀」を代行する秀長をも押さえるようになったのであった。
(中略)
その後、秀長は病気となり、奥羽仕置では血族中次に位置する秀次が「名代」として参加するのであった。
そして朝鮮の役では、出兵に専念しようとする秀吉に対して、国内統治を「名代」としての秀次が関白に就任して担当する。これは第一章で述べたフロイス書簡にいうように、本来は秀長の役割であった。

 
 
ここからは私の勝手な想像ですが、有力大名を豊臣政権下にまとめることに心をくだいた「公儀の人」秀長は、最大の外様大名であった徳川にとっては、まさに命綱であり、そんな心理が、秀長の四方正面の天守を、言わば「公儀の天守」として、強く記憶の中に刻み込んだのではなかったでしょうか。……

望楼型天守と初期の層塔型天守 …「唐破風」が示した天守の正面性(当サイト仮説)

さて、当サイトでは、望楼型から層塔型に移り変わる時期に、その正面性を保つための代用物として「唐破風」が導入された可能性を申し上げて来ましたが、その原点でもある大和郡山城天守の段階では、言わば <どちらも正面である=四方正面> という工夫のために採用されていたのではないでしょうか。

なおシミュレーションのイラストは、大小の連立天守(複合式)として描きましたが、これは秀長の支城の和歌山城がすでに連立天守だったという伝もあり、なおかつ移築先の家康の二条城にも小天守があったように洛中洛外図屏風に描かれているため、おのずと大和郡山城も、付櫓の上に望楼部分があった可能性はかなり高い、と見てそのように描きました。

またこの天守の影響が濃いと感じられる天守(江戸城・小田原城・岡崎城など)との共通項で言えば、やはり宮上先生の主張どおりに、最上階には高欄廻縁がすでに無かったのかもしれません。

さらにシミュレーションの結果としては、ご覧の帯曲輪の雄大な印象の石垣も含めて、家康は気に入ったのかもしれない… と思えて来るのです。

(※これはさながら駿府城天守のようであり、次回は駿府城の話題に戻ります)

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