日: 2014年11月28日

豊臣秀長の遺産…雄大な「帯曲輪」や「切石」も継承されたのか


豊臣秀長の遺産…雄大な「帯曲輪」や「切石」も継承されたのか

大和郡山城天守のシミュレーション(現存天守台の上にイラスト化)
ご覧の雄大な帯曲輪(石垣)も含めて、徳川家康はこの天守を気に入ったのか…


巨大な天守台をもつ、家康の駿府城天守(当サイト仮説のイラスト)


ちなみに両天守を同縮尺の略図で並べてみると…
やはりどこか似た印象を感じさせる天守周辺 / ともに右下(南東)が本丸

前回の記事まで2回にわたり、大和郡山城の天守台の発掘成果をめぐって、とりわけ豊臣秀長と徳川家康の関係性を中心にいろいろ申し上げ、家康の心象風景をさぐるイラストなどをお見せしましたが、その結果、上記の両天守台の印象は、どこか似かよっていることにも気づきました。

ここで特に確認しておきたいのは、比較の図でお判りのとおり、両天守の平面規模は、ザックリ申し上げて、各辺ともに帯曲輪(駿府城は天守台)の半分くらいの長さでありまして、この程度の比率でなければ、ご覧の天守と帯曲輪(天守台)のようなプロポーションにはなりえない、という点です。
 
 
で、もしもこの「秀長の天守」が、もっと色んな面で他の城に継承されたのであったなら… という想像力を働かせますと、とたんに、アレもコレもと頭に思い浮かぶものがあります。

そこで今回の記事では、そんな秀長の遺産?をめぐる夢想を、いくつか申し上げてみたいと思うのです。
 
 
 
<大和郡山城天守を囲っていた雄大な帯曲輪(≒巨大な天守台)は、
 豊臣秀長の家臣でもあった籐堂高虎の「今治城」にも波及していた?
 ナゾの今治城天守をめぐる 夢想その1

 
 

今治城の本丸(写真中央)と昭和55年に竣工した模擬天守

ご覧の貴重な角度からの写真は、本丸がちょうど手前によく見渡せるもので、サイト「RenoStyle 不動産のブログ」様からの引用です。

ご承知のとおり、この今治城の本丸には初の層塔型天守があったのではないか、という主張を三浦正幸先生がなさっていて、その天守が後に、城主・籐堂高虎の発意で解体されて徳川家康に献上され、それが天下普請の丹波亀山城の天守として移築されたのだと言います。
 

城戸久(きど ひさし)先生の論文に掲載された、丹波亀山城天守の各重の規模を示した略図
(建築学会論文集「丹波亀山城天守考」1944年より引用)

城戸先生の同論文に掲載された古写真の模写

ご覧の丹波亀山城天守の移築説は、申すまでもなく『寛政重修諸家譜』に「慶長十五年丹波口亀山城普請のことうけたまわり、且今治の天守をたてまつりて、かの城にうつす」という記述があるためで、これについては過去の当ブログ記事でも引用したのですが、以前は三浦先生ご自身が…
 
 
(三浦正幸 監修・編集・執筆『よみがえる天守』2001年より)

高虎は今治城主であったが、慶長十三年に伊賀、伊勢の城主として転封しており、(丹波)亀山城普請を命じられた時は転封の直後であった。
大名の転封の際に居城の天守を持ち去ることは異例であるので、今治城天守を移建したとする点は信じ難い。
しかし、今治城天守新築の用材を準備中に転封となり、その材を新しい持ち城である伊賀上野城天守に利用する予定にしたところ、(丹波)亀山城天守に急に転用したと解すれば合理的であろう。

 
 
とおっしゃっていて、2001年のこの本の時点では、従来からある今治城天守の否定論(第一の理由=遺構が見つからない!!)に目配せした考え方も示しておられ、私なんぞは、この頃のお考えの方に説得力を感じてしまうのです。

そしてこれもまた過去のブログ記事の繰り返しで恐縮ですが、この時の三浦先生の想定を時系列で整理しつつ、そこに徳川家康の慶長度江戸城「天守台」の件を合わせて考えますと、まるで違った状況も見えて来ます。
 
 
慶長5年  籐堂高虎、関ヶ原の戦功により伊予国で20万石に加増される
慶長7年  高虎、今治で居城の築城を開始し、慶長9年に一応の完成をみる
      (※注:三浦先生はこの後の慶長9~13年に今治城天守が新築
          されたという形に、現在では自説を改めておられます)
慶長11年 高虎が縄張りした江戸城本丸改修の天下普請が始まる
慶長12年 『当代記』に「二十間四方」と伝わる江戸城天守台が築かれる
慶長13年 高虎、伊勢・伊賀に加増転封され、居城の津城を改修し始める。
      その一方で今治城天守の用材を大坂屋敷に保管する
慶長14年 高虎、その天守用材を家康に献上する
慶長15年 丹波亀山城が竣工する
慶長16年 高虎、支城の伊賀上野城を改修し、13間×11間の天守台を築く

 
 
といった一連の出来事において、文中の天守用材と、江戸城「二十間四方」天守台との、時系列的なカンケイを思い切って邪推してみた場合、問題の今治城天守が建てられたか 建てられなかったか 分からない時期に、ちょうど、江戸城の「二十間四方」天守台が築かれたことになります。
 

ちなみに今治城の本丸は約100m四方(≒約50間四方)の曲輪

(※石垣の状態は現状に基づいた作図です)

さて、ここから今回の「夢想」を順次申し上げてみたいのですが、図のように今治城の本丸は隅櫓や多聞櫓に囲まれた約100m四方の曲輪であり、もしここに三浦先生の(以前の)お考えどおりに、本丸内の地面に直接、丹波亀山城天守の前身の天守の木造部分が建てられようとした事を想像しますと、ちょっとバランス(比率)が悪かったのでは? と思えて来るのです。

もし前出の城戸久先生の略図どおりの丹波亀山城天守を、今治城に建て込んだ場合は、
これで「天守」として存在感を出せたのか?と、周囲からの 埋没 がやや心配な状態に…

さらにバランスの悪さは天守の高さについても言えそうでして、現状の模擬天守は北隅櫓の櫓台上に建てられていて、コンクリート造の建物部分の高さが約30mだそうですから、丹波亀山城天守の木造部分の高さは(古写真のプロポーションから考えますと)模擬天守の8割強といった辺りになるのでしょう。

しかも三浦先生のおっしゃるように、その木造部分だけが本丸内の地面に直接、建っていたとしますと、櫓台の分の高さが失われるわけで、結果的に、合計の高さは模擬天守よりもかなり低かったはずです。

で、まことに勝手ながら、先に引用させていただいた写真の上に
丹波亀山城天守の写真(模写)をダブらせてみますと…

!! おそらくはこんな感じになるのではないかと思われ、現在、本丸にある吹揚神社の木々に埋もれてしまいそうであり、当時は周囲に隅櫓や多聞櫓があった状況を想像しますと、いかにもバランスが悪いというか、わざわざ「天守」として建てるだけの存在感を出せたのだろうか… と心配になります。

ちなみに、三浦先生のお考えのキモは、慶長前期までの技術ではゆがみのない天守台を建てることが出来なかったため、初の層塔型天守を実現したのは、どこかの天守台の上ではなく、今治城の本丸内のような平らな地面の上であったはず、というものでしょう。

であるなら、そうした考え方の中にも、先ほど申し上げた「同時期の江戸城の20間四方の天守台」という一件を加味して考えて行きますと、例えば、こんな可能性はないのでしょうか。

江戸城天守のプロトタイプ用としての「材木」が準備されていた、という想定ですと…

「なんだこれはッ! 」「そんな法外な話があるか」というお怒りは御もっともでしょうが、これが今回申し上げたかった【夢想その1】でして、今治城の本丸というのは、全体が「巨大天守台」の一種だったと想定しますと、それは高虎が豊臣秀長・秀保に仕えた頃に見慣れた大和郡山城天守の印象とも、大きさのバランスが合致するように見えます。

それと言うのも、慶長前期の伏見城の18間×16間とも伝わる天守台や、実際に江戸城に築かれた「二十間四方」天守台といった、徳川家康の巨大天守をめぐる動きがあったからこそであり、高虎はそうした動向をいちはやく察知し、先行して構想をねり、居城の今治城に「巨大天守台」を築き上げていたのではなかったでしょうか。

そしてそれに合わせて高虎が準備し、大坂屋敷に保管したのは、やはり建物としては一度も組み上げられたことの無かった(=三浦先生の以前のお考えどおりの)天守用の「材木」であったように感じるのです。

とんでもない夢想を申し上げてしまったのかもしれませんが、ご覧のように今治城の本丸で意図されたのは、高虎お得意の真四角な平面形で、なおかつ史上最大の、究極の層塔型天守をめざした実験場!!…だったのではないか、という風に、私なんぞには思えてしまうわけです。

徳川家康と籐堂高虎

さて、以前のブログ記事でも申し上げたとおり、高虎は家康のブレーンの一人として、家康時代の「天守」のあり方について少なからぬ貢献をしたはずでしょう。

そんな高虎にしてみれば、てっきり、徳川の世の天守はすべて、究極の「四方正面」である、真四角な平面形のオベリスクのような層塔型天守になるものと確信していたのかもしれず、それが現実には、江戸城や駿府城に長方形の平面の天守が建てられたわけで、高虎の思惑ははずれたことになるのでしょう。
 
 
で、それもこれも、実は、豊臣秀長の大和郡山城天守が、そっくりそのまま二条城に「継承」されてしまったという、高虎の予想以上の出来事の結果だったのかもしれません。

そして慶長16年、高虎が伊賀上野城で13間×11間の天守台を築いたのは、そんな高虎がめざとく状況を悟り、算盤をはじいた行動だったのでしょうか?
 
 
(※今回もすでに長文になってしまい、【夢想その2】は、改めて次回に申し上げることにいたします)

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