日: 2015年2月3日

糸杉が描かれた「死の島」と大坂夏の陣図屏風の天守



糸杉が描かれた「死の島」と大坂夏の陣図屏風の天守

前回、前々回と、当サイトがスタートした当時(2008年)のリポートをWeb形式に変えてお届けしましたが、それらの内容は、これまでのブログ記事と部分的な重複(焼き直し)もあって、そうしたネタばれの部分も露呈してしまったようです。

そこで今回の記事は、そうした白状のついでに、リポートでご覧いただいたイラストについて、今だから申し上げたい、作画の裏話として、豊臣秀頼の再建と思われる大坂城天守の右脇に描かれた「糸杉」の、ちょっと怖いお話を申し上げてみたいと存じます。

※             ※

ですが、その前に「秀吉の大坂城・前篇」の論拠に関わる追記を、ほんの少しだけさせて下さい。

それは、羽柴(豊臣)秀吉はなぜ「関白政権」を選択したのか?という理由について、リポートでは今谷明先生の学説(=小牧・長久手の敗戦が征夷大将軍の任官の障害になったというもの)を挙げさせていただきましたが、この今谷説をめぐっては「秀吉は自ら征夷大将軍を断った」との記録もあり、ご懸念の方もいらっしゃるのではないでしょうか。

例えば堀新『日本中世の歴史7 天下統一から鎖国へ』では「秀吉が「将軍の官」を断ったことは『多聞院日記』天正十二年十月十六日条に明記されている。(中略)信長も秀吉も将軍任官を望んだがはたせなかったとすることで、将軍となった家康の正当性を強調し、さらには将軍職の神聖化をはかった徳川史観である。」とも書かれています。

そのように秀吉が自ら将軍職を断っていたのなら、小牧・長久手の敗戦のせいで将軍職を断念したという今谷説は、説得力を失ってしまいそうですが、しかし私なんぞの感想としましては、その「断った」時期が大問題だと思えてなりません。

すなわち『多聞院日記』にある天正十二年十月十六日という日が、どういうタイミングなのかと申せば、リポートと同じ年表にその「時期」を書き加えますと…



ご覧のように秀吉が「将軍職を断った」時期というのは、秀吉が織田信雄と和睦し、矢継ぎ早の任官昇叙が始まるのとほぼ同時期でありまして、あえて申し上げるなら、これらはすべて一連の出来事だったのではないか、という気もしてまいります。

つまり秀吉としては、この頃にはもう、矢継ぎ早の任官昇叙でいずれ従一位・太政大臣にも登り詰める“めど”は得ていて、したがって将軍職はもはや関心の枠外になりつつあり、そうした直後に、たまたま関白職を近衛信輔から奪取するチャンスにも恵まれた、という風にも見えるわけです。

ですからこの時期には、秀吉自身が今谷説の言う「王政復古政権」をはっきりと自覚(選択)していたのかもしれず、そんな秀吉の心理をうかがえるのが、前出の『多聞院日記』の記録に付け加えられた秀吉の一句ではないのでしょうか。

 冬ナレト ノトケキ陰ノ 光哉
(冬なれど のどけき陰の 光かな)

…厳しい冬かと思ったら、うららかな日の光も見えて来た、と詠んでいるようでして、結局のところ、「将軍職を断った」という記録は、むしろ今谷説を“補強”する材料でさえあるように、私なんぞには感じられてしまうのです。

※             ※

さて、それでは今回のメインテーマ「糸杉」の話題に戻りますが、まずはこれらをご覧下さい。

大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣蔵)の天守部分と、当サイトの推定イラスト

ご覧の3点でお判りのように、屏風絵の天守の右脇には、杉かヒノキか分かりませんが、「針葉樹」が特徴的に描かれていて、この木々は、推定イラストの方では省略して描いておりません。

これは作画した当時、天守の脇に「松」を描いた屏風絵なら他にいくつも思い当たり、また実際に天守の脇にあった木としては熊本城のイチョウなども思い浮かびましたが、針葉樹の「杉」ですと、城外からの見通しをさえぎるため、土塀の手前などにはあったものの、天守の脇という例はちょっと聞いたことが無かったため、本当だろうか… と作画に加えるか否か迷ったのです。

そんなおり、ふと、西欧では「糸杉」の木が象徴的に描かれた絵として、こんな絵もあるのだと初めて知りました。

かのヒトラーが、同じ画家による三枚目を所持していたという「死の島」です。

アルノルト・ベックリン画「死の島」1880年制作(ウィキペディアより)

(中野京子『怖い絵2』2008年/「死の島」解説文より)

水面からは、ごつごつ赤茶けた岩島が立ち上がり、その懐(ふところ)には不気味な糸杉が何本も高くそびえている。
糸杉は死の樹だ。
黄泉(よみ)の国の支配者ブルトンに捧げられ、不慮の死を司る女神アルテミス(ディアナ)の聖樹でもある。太陽神アポロンは、誤って自分の鹿を弓で殺した少年キュパリッソスを、永劫に嘆き続けることができるようにと糸杉へ変身させた。またこの木は神々の彫像や棺の材料として用いられ、しばしば古代神殿跡や墓地に植えられる。

(中略)
糸杉、棺、小舟、白装束、そして岸壁に穿(うが)たれたいくつもの人工的横穴、即(すなわ)ち埋葬所。
さまざまな死のモチーフを散りばめたこの絵は、陰鬱な死の気配に満ち、人が生から死へ向かうときの気分とでもいうべきものを濃密に伝える。

この絵で一躍、19世紀末のドイツ画壇で人気を博し、その陰鬱なイメージにも関わらず、多くのドイツ人家庭でこれの複製画が飾られ、若きアドルフ・ヒトラーもそうしたファンの一人で、のちに本物(1886年制作の三枚目)を手に入れたというベックリンの絵です。

『怖い絵』シリーズで知られるドイツ文学者の中野京子先生の解説のとおり、この絵の中心の「糸杉」というのは、欧州やイスラム文化圏では「死」の象徴でもあるそうで、その木部に虫除けの効果があるため、腐敗を防ぐとして死者の埋葬に使われ、そのためか、キリストが磔にされた十字架は、この木で作られたという伝説まであるそうです。

墓地の糸杉 / ベックリンの娘も埋葬されたフィレンツェのイギリス人墓地

ちなみに、日本のスギやヒノキは日本列島周辺の固有種だそうですから、ここで言う「イトスギ」とは別種の木になるわけですが、キリシタン大名・黒田官兵衛の子、黒田長政が、問題の大坂夏の陣図屏風の発注者であるとも言われて来た経緯を踏まえますと、天守脇の植樹としては異例な「針葉樹」は果たして何なのか… このままイラスト化をしても良いのか… まったく判らなくなってしまったのです。

リポートの論点においては、この天守が、大坂夏の陣図屏風(右隻)の右端にある徳川秀忠本陣と徳川家康本陣の対極(=絵の左端)に位置づけられたのは、ある特別な意図が込められた配置であって、それは「天守」と「征夷大将軍(幕府)」が本来は対極的な存在であり、まさに豊臣関白家vs徳川将軍家の闘い(=大坂の陣)の政治的な図式を、象徴的に示した構図だったのではないか? という仮説を申し上げました。

と同時に、この絵の構図はご覧のとおり、左右で「敗者と勝者」「死者と生者」という対比やコントラストも強烈でありまして、そんな構図のいちばん左端(!)に、もしかして、キリシタンの“死の象徴”イトスギが、あえて描き加えられたのではあるまいか… などという、悪い想像も出来てしまうのです。

考え過ぎとは思いつつも、もしそうであったなら、それを「封印」と見るか、「鎮魂」と見るかで、これまた、注文主の本音はやや違って見えるわけなのです。

合掌…。(豊臣秀頼像/方広寺蔵)

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