日: 2015年3月7日

例えて言えば織田信長の「天鏡閣」?…岐阜城千畳敷C地区の御殿をめぐる妄想



例えて言えば織田信長の「天鏡閣」?…岐阜城千畳敷C地区の
御殿をめぐる妄想

前回記事の「どう登るかも天守のうち」という話題の続きで、是非とも「岐阜城」のケースを申し上げてみたいと思ったのですが、そのためには前置きとして、かねてから懸案の岐阜城千畳敷下の「四階建て楼閣」について、いま一度、念押しをしておかねばならないという条件がつくようです。

で、このところ「YOMIURI ONLINE 中部発」で連載中の「図解 天下人の城」シリーズや、以前の「図解 信長の城」シリーズなどは、千田嘉博先生の新しい見解も踏まえていて、たいへんに面白く、毎回、興味深く拝見して来ました。

ただ一つだけ残念なのは、そんな注目のシリーズにおいても、岐阜城の千畳敷については、次のようなイラストと共に、いわゆる「階段式御殿説」がいまだに紹介されていたことでしょう。

「図解 信長の城 6回 岐阜城の麓の館は4層構造」より

ご覧のイラストは、発掘調査チームによる呼称「館の入口」奥の曲輪に「1階」、「C地区」に「2階」、そして「B地区」に「3階」「4階」という風に、階段式の御殿が信長の時代にはあって、それらの全ての御殿が、さも一体化して連続していたかのように見える角度でイラストが描かれています。

しかし、このような構造の御殿群は、当の発掘調査の成果として、C地区の東端に「巨大な石を背景とした庭園」が見つかり、そのため、1階~4階の全てが一体化した階段式の御殿は、物理的に不可能であることが判明したばかりです。

そこでこの際、失礼は承知のうえで、あえて上記のイラストに加筆させていただきたいと思うのですが…

千田先生も著書では「1階」から「4階」まで全部の御殿がイラストのように連なっていたとはおっしゃっていませんし、ここは段々畑のような四段の曲輪のうち、下の二段(入口地区とC地区)には立体的にまたがる(二階建ての?)御殿があった可能性はあるものの、その先にはC地区の庭園があり、そこで御殿の構造的な接続が途切れていたことは千田先生も認めておられます。

(千田嘉博『信長の城』2013年より)

発掘では曲輪3a(=イラストの「1階」部分)から曲輪5a(=同「2階」部分)をつないだ階段全体が、段石垣を利用しつつ建物で覆われていた可能性が指摘されています。曲輪5a(「2階」部分)は破壊が激しく建物は見つかっていませんが、曲輪の端から園池をかたちづくった州浜と思われる遺構を検出しており、庭園をそなえていたとわかります。
 
 
発掘の成果から、C地区の庭の東側(奥側)には巨大な石が庭の背景として並べられていて、どう見ても、それらを、一体化した御殿群が “乗り越える” ことなど不可能な状態なのですから、もう「増築を重ねた温泉旅館のような構造」という考え方は、無理が出て来たはずだと思うのですが、いまだに上記のようなイラストが示されるのは残念でなりません。

とは言うものの、上記のイラストには注目すべき表現もありまして、それは入口地区とC地区にまたがる立体的な二階建て御殿から、橋廊下と登廊が、千畳敷下との連絡用に延びていたと描いている点でしょう。

この橋廊下と登廊は、昭和62年までの発掘調査ですでに見つかっていた礎石群に基づく復元でしょうが、これが今回、是非とも申し上げてみたい “妄想” の引き金になるのです。

2013年7月31日放送 NHK「歴史ドリームチーム 金閣の謎を解き明かせ」より
足利義満が北山第に建立した「天鏡閣」と金閣の推定復元CG

左側の見慣れない建物「天鏡閣」は、応永4年1397年の足利義満による北山第の造営時に、金閣(舎利殿)の北側に建てられた二階建ての会所であり、金閣との間が橋廊下(複道=空中廊下)でつながれていたものの、その後、義満の死後に南禅寺に移築されて(→南禅寺方丈閣)焼失した幻の建物として知られています。(『臥雲日件録抜尤』等の記録より)

ご覧のNHK番組のCGでは、島尾新教授(日本美術史)らの復元考証に基づいて、その「天鏡閣」を金閣のすぐ北側の鏡湖池の水際にあったとする状態で描いておりましたが、ここで注意すべき基本情報は、現在までに鹿苑寺の境内では「天鏡閣」のそれらしき遺構は一つも見つかっていない、という点でしょう。そこで…

【 私なんぞの妄想的! ! 「天鏡閣」のイメージ 】
文字どおりの「天鏡閣」という雅名からのダイレクトな連想として、
「天」空に「鏡」のごとく映った楼「閣」であったのならば、
こんな風に、もっと背後の丘の上に建っていたのかも……


天鏡閣… まさに “写し鏡” のごとく… という所をポイントにした、幻想的な仕掛けを思いっきり妄想してみたのですが、どうでしょう。

この突拍子もない“妄想”の動機をもう少しだけ申し上げますと、天鏡閣の遺構は現状の境内からは見つかっていないため、ひょっとすると、ご覧の丘の上にある池「安民沢」の中に!?「金閣」同然に(もしくは高床式の水上家屋のように)建っていたのではあるまいか… という素人考えも手伝った妄想でありまして、もしそうであったなら、金閣との間は、合わせて100mを超える、長大な橋廊下と登廊でつながれていたことになります。

金閣寺(鹿苑寺)境内図 / 京都市「フィールド・ミュージアム京都」より

背後の丘の上の池に建つ、高床式の二階建ての会所…… 実は、そんな風に「天鏡閣」を想像して描いた絵もあるようでして、もちろん織田信長の時代には、すでに天鏡閣はこの世から失われていたわけですから、信長の場合にしても、それは伝承と想像力にまかせた産物にならざるをえません。

それにしても、足利義政の「銀閣」にも橋廊下が接続していた可能性が言われておりますし、そんなダイナミックな造形には、信長なら、思わず飛びついたのではなかろうかと…

したがって岐阜城千畳敷C地区の二階建て御殿からも、当サイトが申し上げて来た「四階建て楼閣」に向かって、長大な橋廊下と登廊が、ずうっと延びていたのかもしれない… などという、まことに勝手な妄想が止まらないのです。
 
【 余談の追記 】
上記の「安民沢」については、鹿苑寺の庭園内の調査で、池の浚渫工事をした時の池底の地形図が、京都市埋蔵文化財研究所による報告書に載っております。
報告書によれば、池の中央付近では、本来の池底の表面には何も無かったそうですが、図の等高線は高さ20cm間隔ですから、池の西半分(=図の左半分)は、けっこうガタガタした地形のようで… 何の跡なのか、念のため図を引用しておきます。

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