日: 2015年5月16日

話題の真田丸→ 千田案・ジオラマ・坂井案・歴史群像6月号と色々と出たなかで…



話題の真田丸→ 千田案・ジオラマ・坂井案・歴史群像6月号と色々と出たなかで…

ゴールデンウィークに大坂では「真田丸」の復元ジオラマが完成してお目見えしたそうで、いつか現物を見てみたいものですが、その復元には千田嘉博先生も監修で関わったとのことで、報道写真で見るかぎり、これまでに登場して来た真田丸の様々なイラストやCGとも違った点があるようです。

ご承知のとおり、真田丸と言えば、従来は、大坂城内と簡単に行き来できる構造と考えられて来たものの、最新の等高線調査の結果、城とは大きな谷を隔てた “孤立無援の砦” だった可能性が高い、という指摘が千田先生からあったばかりで、ジオラマも基本的にそうした考え方に沿っています。

写真で見たジオラマは、東西2カ所の出入り口がものすごく印象的で、そのため一見、これはやはり巨大な「丸馬出し」のようにも見えてしまうのですが、千田先生によれば“孤立無援の砦”であって、だからこの不思議な砦を「戦国時代最高の出城」と評したものの、決して“戦国時代最大の丸馬出し”とは言っていないところが、大きなミソのようです。

「真田丸」復元ジオラマ 完成イメージ(天王寺区のHPより)

かと思えば、時系列的には後先(あとさき)してしまいますが、先ごろ、城郭史学会の坂井尚登さんが、たいへんに精緻な地形考証を踏まえた「正方形に近い五角形」という画期的な真田丸の復元案を発表されました。

坂井さんは地形図の専門家であり、どの会合でも一目おかれている方ですから、千田案と対照的な「形」を提起されたことが、今後どうなっていくのだろうと、はるか遠方から遠目で見ていましたら、『歴史群像』6月号に、その坂井案を基本としつつ、軍事学的な検討を重ねた記事とイラストが登場し(文=樋口隆晴、監修=坂井尚登、イラストレーション=香川元太郎)、その記事の中では千田案への厳しい批判もあったりして、一気に、まるで大坂の陣のごときガチンコ状態が勃発したようです。
 
 
――― ということで、この “大坂の陣” を、おそらくは淡路島あたりから見ているに過ぎない私でありますが、遠くから見ているだけに感じる “ド素人なりの疑問” もあって、「天守」の話題でない記事を書くのは、これ一回きりにしたいと思いますし、岐阜城の続きの件も含めて、何とぞご容赦いただきたいと思うのです。

まずは『歴史群像』6月号を拝見しての率直な感想ですが、真田丸が、それほどまでに惣構え南面の欠点をおぎなって、緊密かつ精緻に(惣構えと)組み合わされて構築された「陣地」であったのなら、その状態に攻め寄せてきた幕府軍が、とりわけ真田丸を攻略目標に選んだのは、いったい何故なのでしょう??… という素朴な疑問が心に浮かびました。

つまり真田丸が「主陣地線防御の核心ともいえる存在」というほどに、軍事学的な優勢が強まれば強まるほど、逆に、そういう “疑問” がふくらんで来てしまったのです。

私の悪い猜疑心(さいぎしん)のせいでしょうが、真田丸が『当代記』に「惣構ノ横矢」と記されたなら、それは文字どおり、いかにも突出した “目の上のタンコブ” に見えて仕方がなかった――― という風にでも解釈した方が、幕府軍の動機を説明するうえでは合理的だろうと(ド素人の私には)感じられてならないのですが、どうなのでしょう。

「浪華戦闘之図」大坂冬の陣配陣図(大阪城天守閣蔵/右下の半円形が真田丸)

そしてやはり、何故、多くの絵図類で真田丸が「丸い形」として描かれて来たのか、坂井案のまことに緻密な検証はあるものの、これだけ共通して「丸い」というのは、何かそれなりに原因があったはず、という疑念がチラチラと消えないのは私だけでしょうか。

そこで、ちょっと視点を変えまして、例えば「丸い曲輪」という点から連想しますと、真田の名をいちやく天下にとどろかせた「上田城」も、ひょっとすると、真田時代の本丸は、丸かったのかもしれない… と思わせる古城図が残っています。

真田時代の上田城の破却後の状態を描いた「元和年間上田城図」(個人蔵)

ご覧のとおり、左下に描かれたのが、関ヶ原合戦後に破却された真田昌幸(まさゆき=幸村(信繁)の父)築城の上田城の跡で、半円形の「古城本丸」のまわりを、少しずつ四角くなっていく二ノ丸と三ノ丸の痕跡が取り巻いています。

ちなみに「古城本丸」のすぐ南(図の下側)は断崖絶壁であり、絵図のように千曲川の尼ヶ淵が流れていた地形であることは、現地を訪れた方はよくご記憶のはずです。

現在ある上田城の四角い堀や石垣、櫓、門などは、江戸時代に仙石氏が大々的に復興したものに基づいていますから、真田時代の本丸がこのように半円形の曲輪で、しかも城全体は完全に土塁づくりだったとしますと、見た目の印象は、けっこう違っていたのではないでしょうか。

で、そんな真田時代の「上田城」が、どうして徳川の大軍を二度も撃退できたのかと言えば、田舎じみた古風な城構えに反して <挑発行為で敵を引きつけて強力な鉄砲隊の火力だけでなぎ倒す> というパターンが繰り返し成功したようで、徳川方はこれに「腰を抜かした」という話がよく紹介されます。

上下二段の鉄砲狭間もさりながら、間の櫓の二階は全面に石落し(=唐造り! ! ! )

(東京国立博物館蔵「大坂冬の陣図屏風」より)

転じて、真田丸の場合を想像しますと、<鉄砲隊の火力だけで> はご覧の大坂冬の陣図屏風の描写でおなじみですが、要は <挑発行為で敵を引きつける> ことが出来なければ、この得意の勝ちパターンには持ち込めない?という話に戻ってしまうわけでして、どうやら、真田丸の「形」と密接にからんだ「勝因」をどのように描くかで、千田案と坂井案は、思った以上に決定的な違いをはらんでいるようです。

とりわけ戦端がひらくキッカケになった、真田丸の手前の「篠山」という小山の位置については、坂井案と歴史群像は、従来言われてきた位置(=真田丸のずっと南側)とは違う場所を想定していて、その位置で「挑発」になりえたのか?という点など、戦いの様相をかなり変えるものと言えましょう。
 
 
こうなると私なんぞの立場では、人間の能力は瞬時に10段階も20段階も成長できない、といった当たり前の話を持ち出すしかなく、やはり真田丸の「勝因」は、どこか部分的に、上田城の勝因をなぞっていたのではなかろうか―――というド素人の感覚がぬぐいきれません。

とりわけ幸村(信繁)は長い間、幽閉生活をおくっていたわけで、その間は、何か文献で学べたとしても、実地の試行錯誤のチャンスは一切、無かったのですから、なおさらそのように感じられてしまいます。

そこで今回の記事の最後に、真田丸が幕府軍を「引きつける」ために必要だった「形」を、私なりに思いっきり妄想しますと…
 
 
 
<真田丸は 意図的に、田舎じみた古風な「丸馬出し」に偽装されていた! ? >
 
 

千田案の考え方を基本として、一部、坂井案の地形考証を参考にさせて戴くと、
こんな「真田丸」を想定することも出来るのでは……


(※大阪文化財研究所と大阪歴史博物館による「古地理図」を使用しております)

それは南から来る街道の、右斜め前方に、やや見おろすような位置にあって、
第一印象として、幕府軍の諸大名には “格好の餌食” と見えたか…



そしてやはり、真田丸の発想の原点は、真田昌幸の「上田城」にあり! ! ? ?
(左図は南北を逆にした上田の地図に、古城図の本丸の位置だけを合わせた状態)

左右の地図はもちろん同縮尺にしてあり、ちょっと見づらい図になっていて恐縮ですが、こうしてみますと、右図の豊臣大坂城の惣構えは、左図の上田城における背後の千曲川(尼ヶ淵)と同様に見立てた形のなかで、「真田丸」は計画され、築かれたようにも見えて来るのです。
 
 
このことは時空を超えて、しかも空から見おろした時に初めて(真田丸の背後にも惣構えがそのまま残っていると)確認できることであり、地上を攻め寄せてきた幕府軍の将兵の目には、ただ単に、古臭い武田遺臣の一点張りのような「丸馬出し」が、こともあろうに豊臣大坂城の防御の最前線にしゃしゃり出てきた! ! と見えてしまって、多くの兵が思わずうすら笑いを浮かべた… というような状態だったのではないでしょうか?
 
 
で、そういう「偽装」がどこか上田城に似ていたとしても、それは 苦杯をなめた徳川の将兵にしか 解らないことであり、味方の豊臣勢にも解らなかっただろうという点が、まことに興味深いところで、なおかつ徳川家康や秀忠自身は “過去の汚名” があるだけに、そのことを心中でうっすらと察知しても、なかなか言い出せない ( ! ! ) … という好条件があったのかもしれません。

例えば、玉造を応援する情報サイト「玉造イチバン」様のインタビュー記事によれば、千田先生は真田丸の解説として「砦の出入口は東西2カ所、西側の出入り口は惣構の近い場所にわざと作っています。徳川軍が出入口を襲おうとすれば、砦からはもちろんのこと、惣構内の右側からも左側からも射撃され、三方向から袋だたきに合います」と説明しています。

説明のとおりに、西側(左側)の出入り口に注目しますと、惣構堀の内側(上側)の丘にも、強力な狭間鉄砲による鉄砲隊を潜ませたことは間違いないでしょうし、この出入り口に殺到した幕府軍が、戦死者 数千人以上とも言われる膨大な数の犠牲を出して、ここが凄惨な “屠殺(とさつ)場” と化したのは本当かもしれません。

ですからひょっとすると、左右二つの出入り口も、かなり「偽装」された疑似餌(ぎじえ)のような巧みな工夫があったのではないでしょうか… 。

そもそも幸村(信繁)という人物の評価は、前半生が謎だらけで、なかなかに難しいとされていますが、今回申し上げた妄想のままなら、父・昌幸ゆずりの策謀家と思えて来ますし、そのため <真田丸は真田の父子二代にわたる 策謀の結晶 だった> と、ここで一気に申し上げてしまうのは言い過ぎでしょうか。
 

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