拡張された江戸城本丸の北部に「元和度天守」はあった、という定説に対する疑問を少々
まずは前回の「元和度天守」をめぐる主な出来事の時系列ですが…
元和8年 正月10日、弟・徳川忠長が梅林坂辺の屋敷をあけわたす
(一旦、榊原忠次の屋敷に移り、3月には北ノ丸の新邸に入る)
2月18日、慶長度天守の解体と本丸拡張の工事が始まる
4月22日、家光が西ノ丸を出て本多忠政の屋敷に移る
5月19日、上記の工事が完了か
その同日に、秀忠は本丸から西ノ丸に移り、本丸御殿の増改築が始まる
9月9日、浅野長晟、加藤忠広に新天守台の築造が命じられる(奉行:阿部正之)
(→『御当家紀年録』「江城の殿主台の石壁を改築す」)
11月10日、本丸御殿が完成。秀忠は本丸に戻り、家光は西ノ丸に戻る
元和9年 3月18日、元和度の新天守台が完成する
… …
~同年中に中井正侶の設計による元和度天守が完成か~
などと申し上げたなかでも、特に赤文字で示した項目は、最近では野中和夫著『江戸城 -築城と造営の全貌-』等の、江戸城を解説した大著の見解にならう期日で書いたのですが、その一方で、この工事の関係者らは、そうした期日よりもかなり “前倒しで” 動いていた節があります。
例を挙げますと、上記の元和8年9月に元和度天守台の普請を命ぜられた浅野長晟(ながあきら)は、その事跡を広島藩が編纂した『自得公済美録』によれば、その年の正月! には早くも、大天守台・小天守台の分担を(加藤忠広との間で)どうするかを内々に通達されています。
(『自得公済美録』より)
正月廿九日亀田大隅守(=浅野家家臣)へ被下御書
一 御殿主之台方切之事、上意ニて北之方ノ大殿主之方、我等手前へ被仰付、
南小殿主ニ付申候方、肥後殿(加藤忠広)へ被仰付、
役儀高ニ付被仰出候由、得其意候
浅野家が大天守台の方を任され、それを「その意を得て候(そうろう)」としめくくっているのですから、さらに以前から幕府関係者と水面下の交渉をしていたようで、この後も加藤家との分担をめぐっては一悶着(ひともんちゃく)あったらしいのです。
そしてご覧の文面からは、元和度天守は <北に大天守台・南に小天守台> という形式であった可能性がうかがえますし、同じ『自得公済美録』には、五月に早々と天守台の縄張りが済み、根石をすえる作業が始まった、とさえ書かれています。
しかも浅野家の普請場だけが、地盤に予想外の問題を生じたらしく…
(『自得公済美録』5月28日付の若林孫右衛門の書状より)
一 長晟(ながあきら)様御普請場、地心悪敷所ニ御座候て、下へ五間堀入候ても未堅土ニ成申候、
長晟様外聞實儀、御機嫌も悪敷御座候
(中略)
肥後殿(加藤忠広)帳場ハ、壹(一)間餘(余)堀こみ、ね土ニ成申候
長晟(ながあきら)の普請場は「五間」≒10mを掘り返しても、根石をすえる堅い地盤が現れなかったというのに、加藤忠広の普請場(南の小天守台)は、一間あまりを掘り込んだだけで堅い地盤に達したというのですから、ほんのわずかな距離で “天国と地獄” のごとき条件の違いがあったことになります。
かくして、どの文献に基づくかで当時の様相はかなり違って見える状態だったわけですが、それにしても、この『自得公済美録』等に着目しますと、私なんぞがずっと気になって来た “ある心配” が、ドッとぶり返しそうです。
【私なんぞの根本的な疑問】
盛土でそうとうな高さに造成したばかりの本丸北部に、
すぐさま史上最大級の 重い天守台 を築くことが出来たのか??…
(→沈下の問題!)
(※松江城管理事務所蔵『極秘諸国城図』の江戸城を現在の地図に重ねて作成)
前回から申し上げている元和8年の江戸城本丸の拡張工事とは、ご覧の図の中央の本丸を、その北側(左側)の細長い曲輪や堀をすべて盛土で埋めつつ、本丸と同じ高さにして敷地を広げた工事でした。
現在の定説では「元和度天守」は、拡張された本丸北部に建てられたとされていて、そうした見方の根拠になっているのが、『御当家紀年録』にある「梅林坂辺の徳川忠長邸が元和度天守台を築く妨げになっていた」という趣旨の記録と、もう一つは『黒田続家譜』にある「三代目の寛永度天守台は、元和度の天守台を改めて、縦横の長短を変えて築いた」という記録でしょう。
この二つを文字どおりに受け取れば、確かに「元和度天守」は本丸北部になければならないのですが、しかし…
元和度天守(元和9年1623年~寛永13年1636年)は果たしてどこに
→ 梅林坂の辺り? それとも寛永度天守と同じ位置?
上記の図の上に、三代目の寛永度の天守台とその後の本丸御殿の位置を赤くダブらせてみましたが、先ほどの定説の根拠によれば、元和度天守はこの中の「梅林坂」の辺りか、「寛永度天守」と同じ場所のどちらか(=いずれにしても本丸北部)ということになります。
ところがこの辺りは、かの太田道灌が江戸城を築城したおり(長禄元年/1457年)に、わざわざ本丸台地と地続きだった田安台(北ノ丸台)との間を大規模に掘り切った部分とも言われ、それを元和8年の工事で再び埋め戻した形です。
で、かくのごとく図をダブらせますと、なんと、寛永度天守台の真下は堀!…を埋め立てた場所であったのかもしれません。
そこで試しに、天守台の真下の「盛土」の厚みはどれほどかと推定してみますと、現在、蓮池濠の水面は海抜2m程度ですし、一方、本丸内の地表は海抜20mですから、単純計算では、天守台の真下には、厚さ20m近い大量の盛土がなされたことになります。…
では、そこに築かれた史上最大級の寛永度天守台の重さは? と申しますと、非常にざっくりした推定として、一般的に言われる「石の重さ1立方m=2.6トン」「土の重さ1立方m=1.8トン」をもとに単純に見積れば、寛永度天守台の重さは、小天守台を含めて数万トン!! に達したのではなかったでしょうか。
……20mもの盛土の直後に、数万トンの(元和度の!)天守台が載った、と仮定しますと、これはどうしても “構造物の沈下” が心配になります。
ひょっとして20mのかさ上げはすべて「版築」で突き固められた、というのでしたら、話はやや違うのかもしれませんが、そんな膨大な量の版築が可能だったのか分かりませんし、先ほどの記録で浅野長晟(ながあきら)が大変な苦労をしていることからも、本丸北部の埋め立てはかなりの突貫工事だったのではないでしょうか。
これはそもそも、土木の専門家でない私なんぞが口をはさめる事柄ではない、と言われてしまえばそれまでですが、「元和度天守」の位置をめぐる現在の定説は、地盤沈下の件をちゃんと織り込んでいるのだろうか… という疑問を引きずるばかりで、どうもすっきりしないのです。
『武州豊嶋郡江戸庄図』に描かれた元和度天守の一例
(国会図書館デジタルコレクションより引用)
さて、そんな中では、前回もご覧いただいた『武州豊嶋郡江戸庄図』に描かれた元和度天守の様子が、一つのヒントを与えてくれるようです。
―――ご覧の天守台からは、南の方角へ、まるで名古屋城の大天守と小天守との間をつなぐ「橋台」にも似た構造物が伸びています。
現在のところ、文献の中にある元和度天守の「小天守台」というのは、おそらく三代目の寛永度天守と同じ形式の、建物の「小天守」はともなわない「台」だけの構造物だろうと言われておりますが、どの文献や図面にも、それが寛永度と完全に同じ形式だという「証拠」の類いは一切ありません。
であるならば… と、この謎を頭の中で追いかけるうちに、ついに、こんな仮説に行き着いたのです。
またまた妄想仮説を! 問題の元和度天守台(元和9年~寛永13年)はここにあったのでは!?
どうでしょうか。ご覧の位置であれば、まず、ここまで申し上げて来た “地盤沈下の心配” が大天守台には当てはまり、小天守台はまぬがれる、という絶妙な配置になりますし、本丸御殿の増改築にもさほど支障はなさそうでいて、その後の寛永度の天守造替においても、工事の不都合は起こりにくいように思われます。
そしてこの配置を “傍証” しているのではないか、と思われる記録も存在します。
前出の『自得公済美録』の書状の翌日に書かれた書状では、大天守台の普請場は、とりわけ北側と西側の地盤が悪かった、と報告しているのです。
(『自得公済美録』5月29日付の竹本外記の書状より)
一 廿四日まで、御殿主根切仕候、同廿六日まで根石すへ候様ニと被仰出候へ共、
北・西之方地心悪候、然共、地心能所之分ハ、両方根石すへ申候
今回もまた手前勝手な妄想を申し上げておりますが、ご覧の仮説は、前述の本丸北部説とは完全にバッティングしておりまして、「梅林坂辺の徳川忠長邸が天守台築造の邪魔になった」とか「寛永度天守台は元和度とは縦横の長短を変えた」という記録についての検証(反論)は、次回の記事で改めて申し上げたく存じます。
私なんぞとしては、この妄想仮説の “鍵” をにぎるのは、中井家蔵『江戸御天守』建地割に同封されたもう一枚の天守の図面(→下図の左側/もしや前述の「小天守」!!?)をどう解釈するか、にあるのではないかと、にらんでいるのですが…。