日: 2015年10月18日

名古屋城や八代城とまるで同じ形式?… 江戸城「元和度天守」も本丸の北西隅の連結式天守だったか



江戸城「元和度天守」も本丸の北西隅の連結式天守だったか

中井家蔵「江戸御天守」建地割 / 同封された2枚の図面
→ 両図面ともに裏側から小さく「江戸御天守」と墨書されている
 
ちなみに左の図面の方が大きく! 132.2mm×84.4mmで、右が117.0mm×59.2mm

江戸東京博物館で9月末まで行われた「徳川の城」展において、一番びっくりしたのは、実は、展示されていた上記の左側の図面が、予想外に大きかったことでありまして、これまで私は現物を見たことがなかったため「え、こんなにデカいの…」と、思わず立ちすくんでしまいました。

前回の記事のラストでは、この図面こそ、元和度天守の「小天守」ではないのか、などと申し上げたのも、この図面の大きさのインパクトが多少、影響していたのかもしれませんが、とにかくこれは長い間、正体不明の図面として諸先生方の判断を迷わせ続けて来たものです。

そのせいか「徳川の城」展の図録の解説文を見ましても、いちおうは現在の解釈の主流である「天守の上層部分の計画変更用」という見方を踏襲しつつも、けっこう “苦しい” 解説がなされています。

(特別展「徳川の城」図録の解説文より引用)

(問題の図面は)江戸城天守の最上層および四層目の妻側の立面図。妻側に唐破風が、平側に千鳥破風が描かれ、建築的に装飾豊かな天守であったことがうかがえる。
また最上層の平面図も加えられる。平面図によれば、千鳥破風および唐破風はそれぞれ一方向のみに飾られていたことになる
本図は中井家文書のもう一つの江戸城天守図面
(※上記の右側図面)との関連が考えられるが、詳細はわからない。同図に描かれる側面が破風のない側の断面であるため、補完として作成されたのであろうか。あるいは当初の計画から変更があったため、この部分の図が起こされたことなどが考えられる。
 
 
… 正体不明の図面だけに無理からぬ点はあるものの、この短い解説文にも、私なんぞはいくつもの違和感を感じる方でして、それはまず第一に、図面に描かれたのは「千鳥破風」ではなくて「切妻破風」だという点でしょう。

「切妻破風」とは、例えば下記の御書院二重櫓の図面では、初重の張り出し(出窓)にある破風が切妻ですから、この建物の妻側の描き方(右図)をご覧いただければ、冒頭の “問題の図面” においても、図の左端にあるのは「切妻破風」であって、決して千鳥破風ではない、ということは明白でしょう。

【ご参考】江戸城本丸の御書院二重櫓の正面と妻側(都立中央図書館蔵)
 
右下に見える「切妻破風」の断面(横から見た状態)の描き方にご注目

切妻破風の断面の描き方は、ご覧の図面のように、いちばん外側の端面が “垂直な線で” 表現されるのが当然のことでありまして、この他の立面図の描き方を参照しましても、もし千鳥破風であれば、いちばん外側はこのような垂直な線ではなく、ちゃんと千鳥破風だと理解できる、それなりの形状で描くものです。

ですから、これは明らかに「切妻破風」であると申し上げざるをえませんし、問題の図面の左上に添えられた小さな平面図から “千鳥破風” と判断するのは拙速(せっそく)と申し上げるほかなさそうです。

表側の二面だけに二種類の破風(+出窓)がある典型例 江戸城の富士見櫓

かくして「切妻破風」と「唐破風」という、城郭ファンなら即座にビビッ!と来る組み合わせが、問題の図面上には登場しているわけです。

ご覧の富士見櫓の初重の破風は、まさに “問題の図面” と同じ組み合わせ(しかも櫓の長短の向きとの組み合わせも同じ)になっていて、そのうえ、この裏側の二面には破風の張り出し(出窓)が一切無い、という点まで、両者は完全に一致しています。

したがって前出の解説文にある「(天守最上層の)平面図によれば、千鳥破風および唐破風はそれぞれ一方向のみに飾られていたことになる」という部分も、そうとうに “苦しい” 分析であることに同情するわけでして、五重天守の上層部分にこんな風に「切妻破風」と「唐破風」が一方向のみに設けられた例は、日本の城郭史上で“皆無のこと”であろうと感じるのは、当然ながら、私だけではないでしょう。

と、あえて言い切りますのも、名古屋城の大天守(や駿府城天守・彦根城天守)の頃から「四方正面」の破風の配置を意識的に行っていたはずの徳川幕府が、こともあろうに、本拠地の江戸城の大切な天守で、そんなことをするだろうか… という率直な疑問は、そう簡単には解けそうにないからです。
 
 
かくして、ここまでの結論として、問題の図面は残念ながら「江戸城天守の最上層および四層目の妻側の立面図」ではないでしょうし、「補完として作成された」図面でもなく、「当初の計画から変更があったため」の図面でもなくて、大天守とは別途の、前回に申し上げた「小天守」のものであろう、という私なんぞの勝手な見立ては、ますます深まるばかりなのです。…

さて、これは前回にご覧いただいた図ですが、赤くダブらせた本丸御殿は、同じく赤い寛永度天守よりもやや後の時代の配置図を使ってしまいまして、少々正確さを欠いたため、今回はその点を反省して、下記の小松和博先生の本から引用した “寛永度天守が完成した直後の寛永17年当時の復元図” を使って、改めて仮説の「元和度天守」の位置をダブり直してみたいのです。

そうしますと…

小松和博『江戸城』1985所収「寛永17年ごろの本丸と二の丸」

※図の下部の( )内の表記は
(『御本丸惣絵図』大蔵家蔵、『二之丸御指図』国立博物館蔵、
参謀本部陸軍部測量局の『5000分1東京図』による復元図)

仮説の「元和度天守」のあたりは、何故か、広いスペースが空いていた… !!

(※注:黒文字は小松先生の復元図のままに改めて載せ替えたもの)

ご覧のとおり、寛永度天守が完成した直後の本丸御殿の配置は、何故か、申し上げている「元和度天守」のスペースが大きく空いておりまして、あたかも “それ” が撤去されたばかりのようにも邪推できます。

この後、ここには有名な「蔦の間」(=将軍の大奥での寝所)などが建てられ、しだいにスペースが埋まって行った場所ですが、ここにかつて「元和度天守」があったとしますと、本丸の「中奥」から程近く、いざという時に、将軍が天守に向かうにも便利な位置であり、また、そもそも天守の位置は「御上方」(おうえかた=正室のための奥御殿)と密接な関連性がありそう、などと申し上げて来た観点からも、ますますふさわしい立地と思えてならないのです。…
 
 
そして今回、是非とも申し上げたいポイントは、小松先生の図は上が北で、仮説の大天守のすぐ北側の足下には「西桔(はね)橋門」の虎口があるため、その位置は慶長度天守とさほど変わらないものの、城外からの見た目では “本丸の北西隅に出現した連結式天守” と見えたのではなかったでしょうか??

焼失前の名古屋城の連結式天守 / 現地案内板に描かれた八代城の連結式天守

本丸北西隅の連結式天守と言えば、即座に、ご覧の二つが頭に浮かびますし、ここから、ウリふたつ(否、ウリ三つ)とも言えそうな関係性が、元和度天守を含めて考えられそうで、現に、たいへん興味深いことに、これらの連結式の天守台は、いずれも「加藤家」が築造に関与したことになるのです。! ! …

名古屋城天守と、その天下普請で天守台の築造を一手に担った加藤清正

八代城天守と、その築城を命じた熊本藩二代藩主・加藤忠広

名古屋城の天守台は、言わずと知れた加藤清正(熊本藩)が独力で普請を担ったことで有名ですし、一方の八代城は、清正の子・加藤忠広の家臣で、麦島城の城代だった加藤正方(まさかた)が築城したものでした。

ですから、両天守台の形や位置に共通した点があるのは当然でしょうが、そしてまた、江戸城の「元和度天守」もまるで同じ形式としますと…

前々回から申し上げて来たように、加藤忠広は二代将軍・徳川秀忠の「上意」のもとに、元和度天守の小天守台の普請を(八代城が完成した直後の)元和8年に行ったものの、その後、忠広の運命は暗転し、大御所となった秀忠が死んだ直後に、突然の改易(領地没収)となります。

―――ということは、三代将軍・徳川家光による江戸城天守の “謎の造替” も、どこか、加藤家の関与が影を落としたように見えてしまい……。

そこで最後に、前回に予告した、従来の「本丸北部説」に対する検証(反論)を申し添え… ようかと思いましたが、すでにかなりの長文になっておりますし、これはまた次回にさせていただきたく存じます。
 

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