日: 2015年11月1日

宿題の“本丸北部説に対する反論”を申し上げますと…



宿題の “本丸北部説に対する反論” を申し上げますと…

現在の定説では、江戸城「元和度天守」は、元和8年に拡張された本丸北部に建てられたとされていて、そういう見方の直接の根拠となっているのが、『御当家紀年録』にある「梅林坂辺の徳川忠長邸が元和度天守台を築く妨げになっていた」という記録と、もう一つは『黒田続家譜』にある「三代目の寛永度天守台は、元和度の天守台を改めて、縦横の長短を変えて築いた」という記録でしょう。

このうち第一の根拠というのは、かの “駿河大納言” 徳川忠長が、工事開始に先立つ正月十日、梅林坂辺の自らの屋敷をあけわたし、一旦、榊原忠次の屋敷に移り、その後に北ノ丸の新邸に入ったのですが、その件について、当事者の榊原忠次が編纂した『御当家紀年録』に、以下のように記されたことによります。

(『御当家紀年録』より)

甲斐参議忠長卿営作の間、松平式部大輔忠次の宅に移らる。
忠長卿の住所、本丸の東北梅林坂辺にあり。今度その所殿主台を築くに碍
(さまたげ)あり。ゆえにかの住所を毀(こぼ)つによりてなり。

【ご参考】武州豊嶋郡江戸庄図をもとに作成

上記の『御当家紀年録』の文面をそのまま受け取りますと、元和度の新天守台は「梅林坂」の辺りに出来なければおかしな話になるわけですが、では「梅林坂」の位置とは、江戸城の本丸御殿との関係ではどういう場所になるのか? という観点から考えますと、ご覧の「武州豊嶋郡江戸庄図」は元和度に該当する時期の史料ではあるものの、これでは本丸御殿の様子はまるで判りません。

そこで他を当たりますと、元和8年の工事の時に完成した本丸御殿は、図面の類いがまったく現存しないそうで、現存するのは、その前の慶長11年の徳川家康の天下普請による江戸城の絵図(「慶長十三年江戸図」)か、ずっと後の寛永17年の三代将軍・徳川家光による再建時の図面(大熊家蔵「御本丸惣絵図」)になってしまい、以前か以後の様子しか判らない、という状態だそうです。

そのせいで「元和度天守」の位置は、御殿の配置を含めて、ハッキリしない状況が続いているわけですが、ならば、ということで、以前と以後の様子をじっくり見比べますと…

以前(慶長)から以後(寛永)まで、
江戸城の御殿配置の大枠のプランは一貫していた??

ご覧のうち上の方の図は、これまでお見せして来た図に、上記の「慶長十三年江戸図」の本丸御殿だけを新たにダブらせたもので、一方、下の方の図は前回と同じ小松和博先生の復元図を使ったものです。

かくして「以前」と「以後」の本丸御殿の様子と、それぞれの天守の位置を見比べますと、やはり、江戸城の御殿配置の大枠のプランはずっと一貫していたと思えてなりません。

おそらくはその中で、天守の位置がしだいに「中奥」と切り離され、大奥のスペース増大とともに、北へ、北へと押し出された、という風に私なんぞには見えてならないのです。
 
 
ですから、この間にはさまる「元和度」だけが、これらとは打って変わった “別物のプラン” であったとは全く思えませんし、現に、元和度の御殿も「小広間(=遠侍?)」「大広間」「白書院」「黒書院」「御座之間」という各殿舎が並んでいたと伝わります。

―――そうなりますと、記録の「梅林坂辺」という天守の位置は、どう見ても問題が大きいようなのです。…

小松和博『江戸城』1985所収「寛永17年ごろの本丸と二の丸」をもとに作成

(※注:黒文字は小松先生の復元図のままに改めて載せ替えたもの)

前回もご覧いただいた図ですが、これを天守と本丸御殿との「接続」(=使い方)という観点から見直しますと、ご覧の当サイト仮説の元和度天守の位置ではなくて、もしも「梅林坂」の辺りに元和度天守があった場合、徳川将軍は「中奥」の御座之間などから天守に向かう時、多聞櫓づたいにグルッと迂回するのはあまりに遠いため、やむなく「御広敷」か「長局」の中を突っ切って行かねばならない(!…)という事態が予想されます。

……これはハッキリ申しまして “すっとんきょうな天守の位置” と言わざるをえず、当時の城中ではありえない、手打ちか切腹ものの大失態に当たるのではなかったでしょうか。

このため私なんぞには、そもそも「梅林坂」説というのは、論外の話であろうと感じられてならないのです。
 
 
では何故、そんな論外の天守位置が文献上に残ったのでしょうか?

ここで私なりの考えをアッサリ申し上げるなら、それは新将軍と張り合う弟君・徳川忠長を、本丸同然の梅林坂辺の屋敷から “本丸外へ” 一気に追い出すための「口実」! だったのではないかと……

そういう事を持ちかける時は、やはり「天守うんぬん…」という理由づけの方が説得力を持っていたでしょうし、とりわけ二代将軍・徳川秀忠が造替を願っている新天守のため――― という所がミソであり、そう言われてしまえば、さすがの “駿河大納言” も自らの屋敷を明け渡さざるをえなかった、と想像するのですが、いかがでしょう。

で、それに加担した榊原忠次は、自ら編纂した『御当家紀年録』には、その経緯を淡々と記すにとどめ、実際にその後、梅林坂の辺りがどうなったか(→新天守はまるで別の場所!)は忠長の末路のこともあり、詳しく記すことが出来なかったのではないかと。

(※ちなみに『御当家紀年録』は忠次の遺志で他見が禁じられ、死後120年たってようやく幕府に献上されたそうです…)

さて、続いて「第二の根拠」に話を進めますと、元和8年から18年後の寛永14年、三代将軍・家光による寛永度天守の造替があったわけですが、この時、また新たな天守台を築くように命じられたのが黒田忠之(福岡藩)であり、これについて『黒田続家譜』が次のごとく記録していることによります。

(『黒田続家譜』より)

江戸御天守の臺(台)の舊(旧)基ハ、昔年加藤肥後守清正・浅野紀伊守幸長に命じ築かしめらる。
今春其
(旧)基を改め縦横の長短をかへて新に築へき由、忠之及浅野安芸守光晟に命を下し給ひ、両人是を奉て経営せらる。
 
 
という風に記された中の「舊(旧)基を改め縦横の長短をかへて新に築へき」という部分から当時を推測した場合、元和度天守と寛永度天守はおそらく “同じ位置” にあって長短の方向を変えて築き直しただけであり、やはり元和度天守は本丸北部にあったのだ、という説がとなえられました。

しかしこの記録は一見してお判りのとおり、旧天守台を築いたのは加藤清正?と浅野幸長?だという初歩的な間違いから始まっていて、実際は前々々回の記事から申し上げているとおり、清正の子の加藤忠広と、幸長の弟の浅野長晟による築造でありまして、その程度の公然の事実を『黒田続家譜』は認識していなかったことになります。
 
 
しかも文頭の「江戸御天守の臺(台)の舊(旧)基ハ、昔年…」とあるのもまた怪しい点でありまして、筆者は元和度天守台が寛永14年の時点でも “昔の築造当時のまま” と誤解していた節がありそうです。

と申しますのは、例えば内藤昌先生の著書『城の日本史』の江戸城の紹介ページには、こんな指摘もあるからです。

(内藤昌『ビジュアル版 城の日本史』より)

…寛永十三年、溜池から市ヶ谷を経て小石川に至る城の西北での濠の開削が決行され、これによって、江戸城の右渦巻状の全容が明確となる。
また同年酒井忠勝を総奉行として、本丸御殿と小天守台を付設する天守台の修築もあった。

 
 
!―― 寛永度天守の造替が始まる寛永14年の前年の「寛永十三年」にも、天守台をめぐる何らかの修築があった、ということでして、それは新たな小天守台によって本丸御殿との「接続」をはかるものであったのかもしれません。

そしてその総奉行を務めたのが酒井忠勝(→将軍家光の腹心中の腹心!)となれば、ちょうどこの時期に建造された、忠勝の居城・小浜城の天守(台)が、俄然、気になって来るのです。

小浜城天守台と小天守台

小浜城の絵図をもとに作成

小浜城の天守台はご覧のとおり、天守台の東側(ご覧の絵図では左側)に、細かく石段と石垣を屈曲させて守りをかためた「登閣路」の類いが設けてあるにも関わらず、その90度反対側(方角では北側)に「小天守台」が付設されている、というちょっと変わった形式になっています。

これはいったい何を手本にしたのだろうか… と想像力を働かせますと、ひょっとして、徳川家康が創建した二条城天守の「南の廊下」にならったのでは? という考えが頭に浮かびました。

この「南の廊下」については、最近出版された別冊宝島『蘇る城』に松岡利郎先生の慶長度二条城の推定図が載っていて参考になるのですが、これなどをご覧になりますと、家康の二条城天守も、やはり小天守の90度反対側に、別途、取付櫓や南の廊下が付設される、という似た形式だったようです。
 
 
これらはすなわち、大天守との連絡方法は、90度違う二方向から可能であり、その二つはそれぞれ違う形の建物や構造物、という特徴的な影響力の強いデザインだったのでしょう。

で、そうした形式の天守(台)を、三代将軍家光の腹心中の腹心・酒井忠勝が、寛永13年~15年に居城の小浜城に築いていた――― となりますと、思わず、こんな仮説も付け加えさせていただきたくなるのです。

かくのごとき新たな小天守台の目的としては、本丸御殿との接続の便をいっそうはかるための措置… もしくは “大権現様・家康公の天守” に近づけるための酒井忠勝のご注進!? などなど、色々と想像できそうですが、申し上げたいのは、これによって元和度天守台の長短の方向が違って見えたのではないか、という点なのです。

これこそ、元和度天守台は「昔年」のままと思い込む『黒田続家譜』の筆者に、“旧基を改め縦横の長短を変えて” と書かせるに至った原因なのでは… と考えるのですが、いかがでしょうか。
 

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